責任の詩学意思と情動としての世界

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 当時私は、大学に新設された「情報部局」に「アート系教官」としての人事があったばかりで、大学1年生向けにコンピュータの初歩を教える「情報処理」という必修科目の講義、演習を担当していた。

 ビルのワンフロアほどを使った、だだっぴろい教室に200台ほどのパソコンが並ぶ。真ん中に大きな教卓があり、そこから150人ほどの学生を相手に授業する。普通の授業法なら、相手を特定することはほぼ不可能だ。幸いオーケストラや合唱指揮のノウハウがあったので、同じ限られた90分一こまの授業で、出来るだけ一人ひとりを個別に指導する工夫をしたものだった。

 しかし、講義ならまだどうにかなるもののの、一クラス150人に教官一人で「コンピュータ実習」をさせるのは、いくらなんでも難しいと大学も判断していたのだろう。この講義・演習には、大学院生のティーチング・アシスタントがついていた。

 最初の年に担当してくれた、あるコンピュータ科学専攻のの院生TAは、いま自分が興味を持っているシステム開発の例として「自動判決システム」を作ってみたい、と言った。
 彼の意見はこんなものだった・・・法律はすでに六法全書ですべて決まっているのだから、何か事件が起こったら、状況をコンピュータにインプットすれば、あとはすべて自動的に答えが出てきて、判決が下せるはずだ、そうなれば画期的に裁判を高速化することができるだろう・・・

 この理系の大学院生と、先ほどの文系、法学部出身の濱田の話ほど、同じ話題を扱って、鮮やかな対照を見せる例は少ないようにおもう。

 理工系の教育を受けてきた人間は、大学学部を卒業して、院生として高い専門能力を持っていても「裁判は法律の条文で自動的に判決は決まってくる」と思っている。さらに言えば「そうでなければ不平等で、不公平だ」という、彼なりの正義感も、若きシステムエンジニア君は持っていた。

 あれから10年ほどがたつので、彼もどこかの企業か、あるいは研究機関で30台を迎えているだろう。このあたりの法律認識には、全く変化がないだろうと想像してしまう。大学院に入るまでの彼の生活がそうであったように、その後の大学院や企業研究所などの「理系」生活でも、法律の実質に触れることは、ほとんどないからだ。

 逆に濱田は断言する。法律には論理など何もない。最終的な判決は裁判官の心証がもっぱら決める、と。もしそうであるなら、先の院生君が言うような、六法全書の文言を全部入れても、唯一の判決など出てくるわけがない。では実際にはどうなっているのか?

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