責任の詩学意思と情動としての世界

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 伊東 乾

 元来は宗教学を専攻していた東京外国語大学助手(当時)の中沢新一は、1987-88年当時「ニューアカデミズム」の旗手として、京都大学助手(当時)の浅田彰と共に、出版スター的な存在になっていた。東京大学教養学部社会学教室では、見田宗介教授が紹介教官となって、中沢を助教授として招聘しようとするが、教授会を二分する大問題に発展し、これを期に西部邁、公文俊平、村上泰亮、舛添要一などの教官が相次いで東大を辞職するという騒ぎに発展した。

 私はこのころ、一方では物理学科に進学が決まった一教養学部生だったが、同時に文化人類学者の山口昌男さんに「自宅書庫お出入り自由」などを認めて頂いて、日常的に府中の山口邸に遊びに行ってもいた。箱いっぱいの山口「南方熊楠資料」などを見ていると、電話がなる。西部氏から山口さんへの電話だ。当時、中沢氏は山口さんの下、東京外国語大学アジア・アフリカ言語研究所で助手をしていたのだ。電話のやり取りが漏れ聞こえ、普通の学生なら絶対に聞くことのない、大学人事の裏方が少し垣間見えた。

「中沢問題」は私にとって非常に重要な経験となった。中沢人事を計画した紹介教官、見田宗介教授には、合宿で行われる「自我論・間身体論」ゼミナール等で決定的な影響を受けていた。音楽家としての私の基本姿勢は、現在でも見田先生から頂いたものの延長にある。

 これに対して「中沢の本は小説の類で、学術業績とは認められない」と、急先鋒のように攻撃した物理学の故・小出昭一郎教授には「ファインマン物理学」の購読ゼミナールで親身に指導をして頂いていた。やはり急先鋒だった宇宙物理の杉本大一郎教授にも大変に影響を受けた。

 中沢という一人の若い書き手の仕事を評価するに当たって、180度対立している両者とも、私にとっては親しく教えを受け、どちらにも強い親和性を感じていた文理双方の教官だったのだ。

 教官の中には第三の立場をとる方もあった。科学哲学の村上陽一郎教授には、学部1年から大学に勤務して以後まで、大変親身にご指導を頂いているが、この対立の際には双方の立場を了解しながら、中立的な姿勢を崩さなかったように記憶している。

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