60年代を考える〜私の情念のその後ノート第一回

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 27 日 宮崎 学

<久しぶりの早稲田>

 2年前、2006年にガンを患った。
ガンを患った者は、「あと何年生きられるだろうか」「その余生で何ができるだろうか」などと考えることが多いようで、私も同様だった。そして、辿り着いた結論が「早稲田の時のことを記して終わろう」ということだった。それはやはり自らが歩んできたこれまでの時間の中で一番充実していた瞬間だという思いがあるからであり、なによりもあの頃が「面白かった」ことによる。個人的には、早稲田で物書きになった以上、「尾崎士郎」と「五木寛之」を超えてやるという無謀な思いもあった。
 その時に書いたというか、書こうとしたのが以下の文章で、まだ未完成の中途半端なものである。

 今年に入って忙しい日々が続いていたが、先日、偶然早稲田大学の近くで時間が空いた。そこで大学周辺を1時間程散策した。私がここにいた1965年〜 69年の頃の匂いは全くなかった。その事自体に少し淋しい思いを持ったものの、「ちょっと待てよ」と思い、そしてこんな事を考えた。

 1945年にこの大学に通っていた先輩達は、その20年後の僕等が居た時には、今私が持つよりも、もっと強い「差」の感じを持っただろうということである。歴史の流れの速度は、速い時と遅い時があると思う。1945年からの20年間は、その速い時にあたる。だがそのスピード感を、その時には実感できないものだ。しかし、私の1965年〜69年は、逆にその「速さ」が私には実感できた時だった。
 さて、この種の思いは、時の移ろいへの郷愁といえば一言で済む話であるが、それぞれの人間がそれぞれの時間をこの場所で過ごした。そしてその後、それぞれの場所へと移って行く。ただそれだけのことなのであるが、その時ここで持った思いと、あの時代、私の内に確かにあった「情熱」みたいなものへのノスタルジーが今も強くある。これは何故なのか、そして何なのかを、私はこれからのテーマとしてみようとこの1時間の散策で思いたった。
以上が前書きで、以下がその時に少し書いた文章である。

 ところで20年位前にこんなことを経験した。

 90年代の中頃、政経の学生だった私より一年後輩で、実家が九谷焼の窯元だった男の嫁から「夫が家出した」との電話が入った。家出の理由には、心当たりはあるが、最後には私に連絡してくるだろうということで、私に電話をしたというものだった。自家用車で家出したということも聞いた。
 瞬間、この男が必ず早稲田の大隈講堂に来ると私は確信した。結局その確信は、はずれることとなったのだが、私がこのように考えたのは、この男についてのある記憶による。
 それは1966年の秋、この男の前で、今となってはその時の詳しいいきさつは忘れたが、常日頃この男を小馬鹿にしていた敵対する党派の活動家に、私がアッパーカットを喰らわせてノックアウトしたことがあった。この男にはそのことがよほど嬉しかったのだろう。その「アッパーカット」の話を「スゴイことだ、スゴイことだ、これが『革命』だ」と興奮して口走り、その後2〜3時間も大隈講堂の階段に腰かけて、彼が予備校の時に活動家になった話等々を私に話しかけてきた。
 その時のこの男のキラキラした目の輝きの記憶が、私には忘れられないものとして残っていた。こうしたことから私は、この男が家出し仮にその後自殺など考えるようなことがあっても、’66年の時に持った高揚感を思い出すべく早稲田に戻ってくると考えたのである。
 この男、井出秀男君は、’68年には学生運動を許さない厳格な親に実家につれ戻されることとなる。予備校時代の1年間と大学を中退するまでの約3年間が、彼の短い活動経験であった。

 さて、この続きを書こうと思ってはいたのだが、私は同級生諸君も承知のとおり怠け者であるため、ここで途中停車となっている。この続きを今回の文集をきっかけに、続けざるを得なくなってしまったようだ。
  (2009年早稲田大学第一法学部’65年入学スペイン語クラス同窓会誌「アミーゴ」への原稿より)

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