ベイルートダイアリー第7回 ベイルート・ダイアリー

▼バックナンバー 一覧 2010 年 9 月 14 日 大瀬 二郎

ローチェスターを発って24時間後にベイルートに到着する。子ども達をあやすのに精一杯で睡眠をほとんどとれず、ぼーっとしながら入国審査に進む。普段はイスラエルの入国スタンプがあるかどうかパスポートを詳しく調べられるが、今回、審査官はにっこりと微笑むだけで顔パス(敵対関係にあるのであれば入国拒否になる)。赤ん坊を連れているからだろう。子ども連れの旅行は大変だが利点もあるんだなと考えながら、手荷物引き渡し所でくるくる回るベルトコンベアを眺めていると、予想通り手荷物が一つ出てこなかった。
 
乗り継ぎをしたカイロ空港で、いい加減な仕分けをされて置き去りになったのだろうと腹立ち紛れに決めつけていたのだが、結局ニューヨークでの荷物検査に引っかかっていたことがわかった。前回も述べたが、やはり行き先がベイルート、レントゲン検査を通して詰めてあった様々な形のベビー用品が不審物に見えたのだろう。
 
わが子たちが長旅で疲れ果てて眠っているベビーシートの間に挟まれ、走り出したタクシーの窓から街灯が流れてゆく景色をぼんやりと眺める。
 
2008年の5月の夜、同じベイルートのストリートでは銃声が響きわたっていた。
 
当時、親西欧の政党が率いる政府が、親イラン路線をとるイスラム教シーア派・ヒズボラ独自の軍用通信ネットワークを閉鎖した。さらにベイルート空港の防護長官をヒズボラと親密な関係を持っていることを理由に解任した。
 
その数日後の午後、私は、テレビで生中継されるヒズボラのリーダー、ハサン・ナズララのスピーチを取材していた。そこではヒズブラが率いる反党派と政府を支持する政党派が大通りを隔ててにらみ合っていた。政府の行為は「宣戦布告」だとナズララが宣言した直後、反党派と政党派の戦士の間で始まった銃撃戦に巻き込まれることになる。もめ事程度で終わるだろうと思っていたので、防弾チョッキは持ち合わせていなかった。
 
普段、道端で水パイプをフカフカと吹かしていそうな男たちが突如戦士に変身。ビルの角にしゃがみ込んで身を隠しながら連射を始めた。「カン!カン!カン!カアーン!!!」とAK-47自動小銃独特の爆竹のように甲高い銃声が鼓膜を乱暴に叩きつけ(本物の音は映画などで聞くものとはまったく違う)隙間無く立ち並ぶコンクリートのビルにこだまする。一緒だったアメリカ人の報道写真家の友達とシーア派側にいた方が安全だと申し合わせていたことが幸いした。見た限りではこちらからは2倍ほどの銃弾がスンニ派に向けて撃ち込まれている。真っ直ぐ伸びる大通りを隔てての銃撃戦なので銃弾の飛んでくる方向は決まっている。無鉄砲に見通しのいい道に駆け出したりするようなことをしなければ大丈夫そうだ。ビルの裏に釘付けになりながら、普段は吸わないタバコに火をつけ、気持ちを落ち着けようとした。
 
射撃場の標的のように既に穴だらけになっている看板が、銃弾が当たるたびに前後に揺れている。木箱に詰まった銃弾を少年がAK-47独特のバナナのような湾曲形の弾倉に懸命に詰め込み、それを戦士にてきぱきと手渡している。数百メートル先ではいかめしいRPG(Rocket-Propelled Grenede:携帯対戦車擲弾筒)を肩に担いだ男が銃声が止むたびに頭を出して標的を探している。いったいどこからこんなにたくさんの武器や弾薬が出てきたのだろうか? レバノンでは内戦はインスタントに始まってしまうんだと驚嘆しながらシャッターを切る。この日は、トラブルが起きる可能性が高いので、妻が勤めている国連の事務所は緊急閉鎖になっていた。家にいる妻に電話をすると、自宅付近でも銃声が聞こえると言う。窓から離れて廊下に犬と一緒に座っているとのこと。いつになれば現場を離れることができるのか見当がつかない。携帯電話の電池をセーブするため、とにかく窓際には絶対近寄らないようにと念押しするだけで通話を終える。
 
銃声の合間に戦士の一人が現場に駆けつけたカメラマンからデータカードを没収し始めた。慌ててカメラからカードを出して靴下に差し込み、代わりに空のカードを入れる。ビルに入り、避難している人たちに紛れ込む。しばらく様子を見た後、再び外へ出て写真を撮る。そんなことを繰り返しているうちに数時間が流れて夕暮れ時を迎えた。ビルの影が長くなるにつれて、撃ち合いの勢いも少し衰え、カメラマンの友人と地元のテレビ局のクルーと一緒に脱出を試みることにする(万が一の事態を考えて危険な現場では一人で行動しないことを常に心がけている)。
 
建物の角から隣のビルへ一人ずつ駆け足で道を横断する(集団で渡ると目立ち大きな標的にもなるため)。一人、また一人。戦火の絶えない地元のジャーナリストは要領を得ていて、クールで無駄の無い動きをしている。そうしていくつかの道を横断しているうちに銃声が響き、弾丸が今渡ったばかりの道のアスファルトに当たり火花が散る。スナイパーが我々の動きを関知したようだ。辺りは薄暗くなり始め、ジャーナリストと敵との見分けはつきにくいだろう。なんでも動くものは撃ってしまえという感じだ。オレンジ色の火花を目にした後、現場からの脱出を断念。夕日が街灯とバトンタッチを行う数分間の模様を眺めながらビルの壁にもたれて座り込み、既に数本しか残っていないタバコに火をつける。滅多に手をつけないタバコ。肺に痛みを感じながら待ち受けている長い夜のことを考えてため息をついた。
 
目を瞑り少し眠ろうとするが、神経がまだぴりぴりと張っていてそういうわけにもいかない。目の前に建っているビルをぼーっと眺めていると、シーア派の戦士が一人姿を現し、不思議なことに夜空にむけてほぼ垂直にライフルを発射し始めた。弾が落ちてきて頭にでも当たったら危ないなと真剣に考えながら怪奇な様子を観覧していると、街灯が標的らしいことがわかってきた。夜間に敵のスナイパーに的にされないための対策のようだ。「カン、カン、カン、カン!」と連射をするがなかなか当たらない。やっとのことで命中し、「パリン」と音をたてて辺りが街灯ひとつぶん暗くなる。男は数歩先の次の標的に移動して、「カン、カン、カン、カン!パリン!」。街角にしゃがみ込んでいた自分の姿が徐々に暗闇に包まれていった。
 
タクシーの窓から射し込むベイルートの街灯の光がわが子たちの寝顔を照らす。それを眺めながら心のどこか深くに大きな変化が起こっていることを感じる。
 
最近考え始めたこと。
 
『父親になった自分は、次に銃声を耳にしたら、妻子を家に残して現場に駆けていくのだろうか?』
銃撃戦だからといって、必ずしも取材をすべき重要性があるというわけではない。“今”のみの取材ではなく、銃撃戦の背後にある大きな問題はいかにすれば解決可能なのか。未来に視線を向けた仕事をするべきではないか? かと言ってフリーのカメラマンで子どもを食べさせるのにそんなに好き嫌いは言っていられないのも現実だが。
 
あと一つ頭にちらついていること。
 
『次回、戦争で負傷したり、貧困や病のために生死の境をさまよっている極限状態にある子どもたちと直面する時、以前と違った感情が湧いてくるだろうか? それは自分の写真に影響するのだろうか?』
 
取材で、特に個人的なレベルでの経験を積むたびに自分の写真は変化してきたと思う(深みを増した、よくなったと考えたいが)。
 
報道写真家の道を歩み始めてから今まで、いくらかの『死』に対面した。だが十年ほど前までは死は自分とは遠い存在だった。レンズを通して見えるものは他人の死であり、その写真を撮ることは単に自分の仕事に過ぎなかった。だが不意に肉親を亡くした後、仕事で出会った亡くなった人、残された人々の心の痛みを身近に感じ始める。現場で自分が以前より感傷的になり、他人の死に心を揺さぶれられることが多くなった。だが自分が必ずしも軟弱になったわけでなない。2001年に9.11テロ事件を体験した後、所属していたニューヨークの新聞を退職するまで毎年9.11の追悼式の取材をグラウンドゼロと道路を隔てたビルの屋上で行った。毎年、初秋の青い空の下で犠牲者の名前が読み上げられる。眼に滲む涙を抑えることに苦労しながら、三脚に乗せた600ミリのレンズを通して遺族の姿を写す。数百メートル遠くに立つ遺族の心の痛みがレンズを通して伝わり、ぎゅうっと胸を締め付ける。どんなに悲劇的な場面であっても、それがフィルムやデジタルチップに記録されるプロセスは物理的で冷たい。光と影による濃淡で認識されるに過ぎないから。そんなプロセスと同じような、ただ客観的に突っ立って『写した』だけの写真はもう撮りたくない。苦境に立たされた人々を単に被写体として機械的にシャッターを押して記録するのではなく、彼らに敬意をはらい自分の心身を注ぎ込むことによって視る者に真実を理解してもらえる写真になると思う。
 
大学の報道学科で学んでいた頃、ジャーナリストの原則として、個人的な意見、見解や感情といったサブジェクティブ:主観的な判断を避け、徹底したオブジェクティブ:客観的な態度をもって取材を行わなければならないという鉄則を耳にたこができるほど言い聞かされた。だが実社会、現場に出て経験を積むごとにこの原則には限界があると実感する。自分はやはりロボットではなくヒューマン。人間であるかぎり100パーセントオブジェクティブに取材をしましたと言い切ることは逆に嘘をついていることになると思う。だから最近はサブジェクティブでも全力を尽くしてフェアー:公平であればいいと考えて写真を撮っている。逆にジャーナリストとして事実を伝えることに献身する誠実さを持っていれば、自分の持ち合わせている専門知識や技術以上の、人生で得た一人の人間として感性や思いやりこそが(それはサブジェクティブ:主観的だと批判されるかもしれないが)意義のあるルポを成立させるためのエンジンであり、舵(かじ)となるのではないかと思う。目の前のみに見えるものだけをテープレコーダーのようにただ冷淡に記録するだけではなく、一個人として情熱をもって一歩、二歩と踏み込んで真実を追究するのがジャーナリストの義務であり使命ではないのだろうか?
さて、父親となった自分の写真は今後どのように変わっていくのだろうか?
 
今回、ベイルートに戻ってきたのは、新天地のエチオピアの首都アジスアババへの引越の準備のためだ。アフリカを題材に、再び写真を撮ることができると思うと大きく心が膨らむ(以前コンゴで2年間過ごしたことがある)。盛んに報道され、注目される中近東情勢に比べると、アフリカからのニュース、ルポは微々たるものだ。しかしこの大きな大陸には伝えなければならないことが山ほどある。自分なりのユニークなルポをする可能性は無限にあり、アフリカは自分にとってやりがいのある仕事ができる場だと感じている。
 
赤子2人をかかえてしばらくはそうそう大がかりな取材や遠出はできないだろう。アフリカへ帰還するための心の準備のようなものは既にできあがり、人生に大きな変化を迎えた自分自身を新天地で再発見できるような気がした。
 
ひさびさに胸がわくわくしていた。

写真について

シーア派の戦士が戦友に援護射撃(Suppressive Fire)を行うように指示しながら道を渡る。ベイルートにて。

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