エチオピアジャーナル(8)「冷酷な愛国者」

▼バックナンバー 一覧 2012 年 9 月 12 日 大瀬 二郎

今エチオピアに変動のそよ風が今吹いている。

雨が止み空気がひんやり湿った8月20日夜、エチオピアのメレス・ゼナウィ首相が海外で急死したというニュースが国営放送で流れた。6月にメキシコで行われたG20会議以降、公の場には姿を現しておらず、重病にかかり海外で治療を受けている、既に死去したなどの噂が立っていた。

「メレス」とファーストネームで愛称されていた首相は、「アフリカの角のストロング・マン(強権力者)」と呼ばれ、エチオピアを21年間統治してきた人物。開発に係わる国際団体や政府機関などからは、エチオピアの高度成長・貧困減少に大いに経験した人物として賞賛される一方、反政府派やメディアを弾圧してきた「アフリカ最大の人権抑圧者」と人権団体などから非難を受けてきた、二面性を持つ人物だった。

 

首相死去発表の翌朝、政府による記者会見に足を運ぶ。ざわめきと緊迫感が立ちこめるホテルのミーティングホールに、首相の肖像画が持ち込まれイーゼルに架けられる。ノーフレームの眼鏡をかけ、腕組みをして遠くを見つめているメレス首相のポートレイト。強権的だったがインテリでもあった政治家の姿がよく描写されている。57歳だったメレス首相の非命の死は、エチオピア、そしてアフリカの状勢を揺すぶるものだった。「彼によるエチオピアの前進・開発への終生の貢献は賞賛されるべきだ」とアメリカ大統領バラック・オバマは哀悼の言葉を翌日贈った。

 

「彼は(エチオピアを)繁栄した国に導いた。彼は多くの大学、高校、ヘルスセンターを建設した、先見性のある指導者だった。メンギスツ政権(前軍事独裁政権)は国民、国の開発には関心は無かったが、メレスは違っていた」、メレス首相の遺体が眠る公邸に向かう坂道を上りながら、43歳の薬剤師テレフェ・アスフュウさんは語った。公邸に向かう人達はメレスを賞賛する言葉を口揃えて語る。メレス首相はエチオピア経済振興を第一目標とし、特に交通、ダム建設などのインフラ向上に献身してきた。経済成長率が1990年代の3.8パーセントから2008年には11.6パーセントに跳ね上がり、経済発展の功績も認められていた。だが過去10年間で2倍に跳ね上がったものの、国民一人あたりのGDPはわずか1100米ドルで、アフガニスタンより1ランク上の212番だった。「あの新しい高層ビルのオーナーはティグレ人、あの新車はティグレ人、あのおんぼろ車はオロモ人のもの」と、タクシーの運転手はアジスアベバの道を1979年式トヨタカローラをとろとろと運転しながら指摘する。ティグレ人とはエリトリアそしてエチオピア北部出身の民族。メレスが率いるティグレ族を主体とした反政府団体のティグレ人民解放戦線(TPLF)がエチオピアの実権を握った後、政治・経済を牛耳ってきたと、エチオピアの他民族によって批判されてきた。資本を有したアメリカやヨーロッパに移民した人達による帰還などにより、以前はごく少数だった中流階級が急増しているが、2011年のインフレ率は世界で2番目に高い33.2パーセントと、国民の大多数は一日一日を暮らすのに精一杯の生活を送る。

 

アジスアベバ大学医学部を20歳で中退したメレス首相は、ティグレ人民解放戦線(Tigray People’s Liberation Front :TPLF) に参加し、後にこのゲリラグループのリーダーとなる。その後、1989年に他の反政府グループとともにエチオピア人民革命民主戦線(現与党:Ethiopian People’s Revolutionally Democratic Front: EPRDF) を結成し議長となる。1974年にハイレ・セラシ1世を殺害することによって700年間続いたエチオピア帝国を打倒したメンギスツ・ハイレ・マリアムが率いる悪名高き軍事独裁政権を、アメリカに支援されたEPRDFが1991年に打倒する(40万人の犠牲者を出したエチオピアの大飢饉はメンギスツ政権の1980年代後半に起こった)。出生名はレガセ・ゼナウィだったが、ノムデゲールのメレスで知られ、1975年にティグレ族でメンギスツ政権によって処刑された大学生のメレス・テケレに敬意を表して、改名する。1995年に首相に就任し実権を握った当時は、元アメリカ大統領ビル・クリントンに「新たな世代のアフリカのリーダー」と賞賛されたが、メレス政権は徐々に専制的になり、強権主義に歩み寄りはじめる。

 

公邸で取材を終え、友人のフランス人のジャーナリストと一緒に坂道を下って帰宅する途中、50代の男性が話しかけてきた。「私はダルグ(メンギスツ軍事政権の正名、ゲエズ語)では15年間、現政権には2005年には5年間投獄された。エチオピアには民主主義は存在しない」と、きょろきょろと、周りで誰かが盗み聞きしていないか見廻しながら語った。アジスアベバを歩いていると、外国人だということで、このように、政府を批判する人が歩み寄ってくることがしばしばある。

 

2005年、総選挙の結果に抗議するデモに対し実弾射撃の命令を下し、193人の死者を出す。その後2010年に行われた総選挙では与党のEPRDF国会の547議席のうち499を勝ち取り、反政府・独立候補者の内ではわずか2席を勝ち取ることとなる。マラス首相は、アフリカ大陸の人権侵害者と人権団体から批判され、アムナスティー・インターナショナルは、新たなるリーダーは、エスカレートする人権侵害を終えるべきだと、首相死去後に声明を発表している。「国家の新たなリーダーシップは、メレス首相のポジティブな遺産を継承、発展させると同時に、彼の政府が施行した最も有害な政策を破棄することによって、エチオピアの人達を安心させるべきだ」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチのアフリカ所長も述べている。

 

「歴史的、理論的に、経済成長と民主主義の間に直接的な関係は無い」と、今年5月にエチオピアの主都アジスアベバで開かれた国際経済フォーラム(World Economic Forum)で発言したメレス首相は、祖国を愛し、貧困からの脱却に献身してきた人物であることに間違いはない。ナイジェリアに次ぐアフリカで第2の人口(8千400万)を有し、87の民族が共存し、今日にいたるまで専制的に–君主政、そして独裁政として–統治されてきたエチオピア。このモザイクのような国を繁栄の進路に導くのは民主化ではなく、中国を例とした、1党による国の中央集権化だと信じていた。そのためには、反論を許さず、絶対的な忠誠を国民に要求してきた。一方、アメリカや西欧諸国の多くは、ソマリアやエリトリアなど一触即発のアフリカの角で、メレス首相は反テロ代理戦争を遂行してくれる人物として必要だと見なし、人権弾圧には目を背け、自国の道義との矛盾を承知しながらも巨額な援助金を送ってきた。日本もアメリカに足並みを揃え、2011会計年度には、補助金だけでも76億円を送っている。これは日本からの補助金供与が最多のアフガニスタンに次ぐものだ。この西欧諸国のメレス首相に対する見解は、エジプトの元大統ホセイニ・ムバラックに対するそれに類似している。

2015年に予定されている総選挙まで、ハイレ・マリアム・デサレン副首相が首相代理となると政府は発表しているが、ティグレ族ではない彼は名目上の指導者に過ぎない人物だと言われている。今後、メレス首相によってすでに打ち出された政策・方針は、メレス首相の側近政治家が実権を握る現政府によって継続され、短中期に多いなる変動は起こらないだろうとアナリストの多くは述べている。ストロングマンがいなくなったエチオピア、そしてアフリカの角が、望ましい方向に向かうか否かを推測することは難しい。確かなことは、メレス首相に比肩するリーダーがエチオピア、そしてアフリカに出現することはしばらくないということだ。

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