戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第四回:建物の外観は公共財

▼バックナンバー 一覧 2009 年 7 月 8 日 東郷 和彦

 クッカム・ディーンへの再訪を果たしてから間もなく、私は、二回目のモスクワ勤務を経て本省にもどり、國際エネルギー課長、外務大臣秘書官の仕事の後、1988年7月欧亜局ソ連課長の仕事についた。
 ゴルバチョフによるペレストロイカが最盛期を迎えた時であり、冷戦の終了とソ連邦の崩壊という未曾有の変革時にソ連を担当することとなったのである。1991年末エリツィンの下でのロシア連邦成立後、エリツィン政権の前半は、ワシントンと三回目のモスクワで勤務し、その後本省で、エリツィン政権の後半とプーチン政権の最初の一年の交渉に直接・間接に係わって過ごし、2001年3月のイルクーツクでの森・プーチン会談へと、交渉は登りつめていった。
 この間、私の「原風景」が私の心の中のおおきな部分を占めていたことはなかった。仕事は余りにも面白く、忙しく、活気に溢れたものだったのである。
 けれども、時折、心の空白に、荒涼たる風景が進入してくることもあった。
 首都高速から眺める無秩序で殺伐としたビル街は、なんだ。
 新幹線で関西方面に向かって東京を離れていく時に車窓から見える、延々と繋がる無機質なコンクリートの建物の波は、なんだ。
 神社仏閣に往時の日本をとどめながらも、町自体がなんの魅力もない灰色の塊に変貌して行く京都は、なんだ。
 ほんの時たま、週末に、東京近辺をドライブに行く時に、どの道を通っても遭遇する、ガソリンスタンドとパチンコ店とスーパーマーケットとショッピングセンターとプラントの敷地が、何の調和もなく無秩序に続く、日本の地方都市は、なんだ。
 しかし、この荒涼たる風景の中で、戦後の日本は、世界を驚かせる経済成長を成し遂げてきたし、日本国民は、けっこう幸せそうだった。1980年代の後半は、バブル景気で、巨大で華麗な大建造物が各地に現れ、豊かさの象徴として、ため息をつくようなこともあった。なによりも、めちゃくちゃに、忙しかったのである。
 そういう中で、私は、北方領土交渉についての最後の本格的な貢献をイルクーツクで終えたという、自負と解放感と一抹の寂しさを持って、新天地オランダでの仕事をするために、2001年7月ハーグの日本大使館へ、大使として赴任した。

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