戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第十回:長谷寺・加茂川・小樽

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2008年3月14日(金)長谷寺

 3月12日、日本に帰ってから、初めて、友人の案内で、奈良を訪れた。最初の日は、東大寺を訪れ、夜は、二月堂の「お水取り」を初めて観賞した。
 翌13日は、法隆寺とその周辺を散策、薬師寺にまで足をのばした。
 翌14日、近鉄大阪線に乗って、先ず室生寺を訪れ、そこから、長谷寺に向かった。
室生寺の赤い五重塔が鬱蒼とした緑の中に現れた時には、その昔、高校時代に修学旅行で訪れた記憶がうっすらと蘇ったが、長谷寺を訪れたのは、生まれて初めての経験だった。
この日、終始、風の強い、小雨交じりの曇天が続いていた。
近鉄大阪線を室生寺からくだって二駅、長谷寺で下車、タクシーに乗りつぎ、寺の入り口で車を降りた。
 山門の先から、「登廊」とよばれる木組みの階段が、山頂に向かって上っていた。両側に等間隔の柱の列が連なり、木組みの屋根に守られた「登廊」は、山頂にある寺と下界をつなぐ、渡り廊下のようだった。
「下登廊」という最初の階段を上りきると、大きく右にきれ、「中登廊」に連なった。その先に至ると、周辺の山並みが視界に入り、最後の「上登廊」を登りきると、眼前に、長谷寺が迫ってきた。
 目前に立つと、巨大な寺なので、どのくらい大きいか、はっきりわからない。ともかく拝観料を払って、寺の中に入ると、正面に国宝の本堂がある。御本尊の十一面観音像を安置する「正堂(しょうどう)」がその中核をなしており、まずは、その観音像をおがんでから、建物の左手前を迂回して、本堂前面に位置する「懸造」(かけづくり、「舞台造」ともよばれる)に出た。
 そこまで来て、私は、息を飲んだ。
「懸造」とは、ちょうど、清水の舞台のような、大舞台である。その大舞台が、寺をとりまく古(いにしえ)からの奈良の連山に、悠然と張り出していたのである。
 地平線のかなたの山並みは、刷毛をひいたように淡く、早足で天空をかける白雲によって、瞬時に隠れたり、その姿を現したりしていた。近づくに従って、深い緑に覆われた山々が形を表し、寺に近い丘陵は、木々の陰影が見分けられるほどだった。寺をとりまく平野では、森の中に緑の耕地が垣間見え、左の端には、長谷寺とともに歴史の中を生きてきた「初瀬」の寺町が、風景の中に溶け込んでいた。
 時は三月、参拝の観光客もほとんどいなかった。
「懸造」と、そこから垣間見える天空と、自然と、そこに溶け込んだ人間の生活が、ほとんど、私たちだけに開かれた世界のようだった。
 その時である。

 なにか、違和感が生じたのである。
 私の視界にある、完璧な美の世界に、ざわざわとした、異物感があった。
 例えて言えば、モネの睡蓮の絵の隅に、黒い墨汁のしみができているようだった。
 違和感の発信源は、すぐにわかった。
 風景の中に溶け込んでいた初瀬の町の一番先に、他とまったくちがう白いビルがたっており、そのビルのドーム型の屋根が、彩度の高いトルコ・ブルーにぬられていたのである。この人工的な色が、四界隈なく調和している風景の中に、一つだけ、ぬぐいがたい、不調和感をつくりだしていたのである。
 どうにも、気になってしかたがなかった。
 一体、あの建物は、なんだろう。
 受付に戻ると、その横に、長谷寺の僧侶たちがつめている小部屋があった。
「あのう、突然で申し訳ないのですが」
「はい。なにか、御用でしょうか」
 数人の僧侶の中では、最年長の人が障子を開けて、にこやかに、答えてくれた。
「私は、たまたま、ここを訪れた観光客ですが、さきほどから、あの舞台から周りを見ていまして、本当にきれいで、感動したんですが、一つだけ、どうしても、気になる点があったのです」
「ほう、ほう。ご一緒しますから、お気づきの点、教えてください」
 私たちは、「懸造」にもどった。
「左の下に、寺町のような、集落があるでしょう?」
「はい」
「あの一番最後、人口色の青で塗られた屋根をのせた一つだけやけに背の高いビルがあるでしょう。あれ、気になりませんか?」
「ああ、あれですか。。。。。」
 私を案内してくれた僧侶は、少しさびしげに、微笑んだ。
「はい。私たちも、前からずっと気になってしていました」
 長谷寺の僧侶さんたちも、同じ問題意識を持っていたと聞いて、私は、勇気百倍になってしまった。
「はあ〜。やっぱり、気にしておられたんですか。で、あの建物、何なんですか?」
「それがですねえ。美術館なんです」
「美術館?」
「はい。すぐ近くですから、あとで、初瀬の町を下って、ご覧になると良いですよ。この町の有力者の方が建てられたものなんです」
「美術館を建てられるような方が、どうして、長谷寺の風景を壊すようなことを、されるんでしよう」
「。。。。。。。。」
「いきなりこんなこと言って大変失礼だと思うんですが、長谷寺の素晴らしさは、外側からお寺を見たり、国宝になるような素晴らしい建築を持っているからだけではないですよね」
「はい」
「長谷寺に来た人たちが、ここから見る風景、これも、長谷寺の分かちがたい価値のひとつですよね。ここから見る風景、たぶんこれは、『世界一の風景』の一つだと思います。それを、あの一軒が壊しているなんて、余りにも、残念ではないですか」
「そうなんです。でも、この辺りには、とても複雑な利権構造があって、そこがでてくると、何事を決めるのも、とても複雑になるんです。初瀬の町を大事にしようという人たちが、『初瀬観光協会』という会をつくって活動しているんですが、彼らでも、どうしようもなかったんです」
 なにかが私の中で、はじけていた。
———この辺りの複雑な利権構造?そうか。あの美術館の土地を持つ人個人の権利を、そもそも、だれも制約できないのだろう。特に、地元の生活全体にかかわりのある大きな利権の問題が関与しているなら、なおさらなのだ。そういう地元利権を上回る、「公」など存在し得ないに、違いない。よそ者の観光客が来て、気軽に意見を言っても、何一つおさまらない事情があるのだろう。
「そうですか。よくわかりました。わざわざお時間をとらせて、申し訳ありませんでした。地元の方、お寺の方がそう思っておられるなら、いつか、なにかできると良いですね。例えば、色を黒くぬりかえるだけでも、随分違うと思うんです。何もないと思いますが、私にできることがあったら、言ってください」
 名刺をおいて、その僧侶に分かれを告げて、私たちは、長谷寺をあとにした。山門からタクシーに乗らずに、初瀬の町を歩いて下った。中心を小川が流れ、昔からの街並みを保存しようと、みんなで努力しているあとがうかがえる、静かな寺町だった。
 その町の下に、その美術館はたっていた。
 五階建て程の広壮な建物で、入り口に掲げられた看板を見ても、名前を聞いたことのある著名な日本画壇の方々の絵が集まっていた。
 おりからとぎれた雲の合間から差し込んできた太陽に、ドーム型の屋根が、トルコ・ブルー色に輝いていた。

***

2009年6月17日(水)加茂川

 この年の四月から、私は、京都産業大学に職をえて、毎週木曜日、講義のため、京都に通うことになった。大学での会議はたいてい水曜日にあるので、そういう時は、水曜日に京都に入り、会議をすませて一泊し、木曜日の授業をしてから、東京に帰る。
京都産業大学は、京都市の北側、鞍馬山にのぼる高台にある。
 早朝新幹線で京都駅につくと、地下鉄の烏丸線に乗り換え、七番目の「北大路駅」で下車する。そこから、大学まで直通のバスにのりかえて約三十分、「京都産業大学駅」前で下車する。
 北大路駅で乗ったバスは、すぐに京都の東の端を南北に流れる、加茂川につきあたる。バスは、そこからしばらく加茂川の西岸を北上し、御園橋という橋を右折してから、加茂川の東岸を北上して、大学にいたる。
 バスが加茂川につきあたった対岸のかなたには、遠く、叡山と鞍馬山が影を落とし、緑に追われた丘陵がそこここに現れては消える。正面は、植物園の緑に始まり、黒瓦の二階家の多い住宅の並が続くが、圧巻は、川沿いの両岸に、御園橋まで続く、長い桜並木である。
 この年の春、何週間か、私は、花咲く並木を眺めながら、バスに揺られて、大学に通った。
 朝には、紅と桃色の桜が交互に続く並木が朝日に輝き、夕べには、暮れなずむ風景の中に桃色の絵巻物がいつまでも浮かび上がっているようだった。
 しかしながら、開発の荒波は、その痕跡を、京都の中でも最も保存が行き届いていると思われたこの加茂川ぞいにも、残していた。

 新幹線の時間や会合の時間帯によって、時間がないときは、私は、北大路駅から、タクシーにのる。
 桜の季節が終わり、梅雨に入ったその日も、新幹線の時間帯と大学での会合がうまくあわなくて、北大路駅から、タクシーにのった。
 気さくな四十代くらいの運転手さんだった。
「おおきに。どちらまで?」
「京都産業大学お願いします」
「は〜い。雨、よう降りますなあ」
「そうですねえ。東京も雨模様でしたけど、京都もずっと雨ですか?」
「朝方から、すこ〜し、降りますなあ」
 タクシーは、加茂川につきあたり、西岸を、北上し始めた。植物園をすぎ、最初の橋を過ぎたところから、対岸に二階建ての家並みが、続き始める。
「運転手さん、この川沿いって、ほんとうに、きれいですね」
「そうやなあ。桜の時なんか、ほんまに、きれいやなあ」
「僕は、よそ者ですけど、この川沿い通るたびに、すごいなあって思うんですよ」
「大学の方ですか?」
「おかげさまで。四月から、通っているんですけど。でもね、ここを通るたびに気になることがあるんです。さっき家並みが始まる所で、通り過ごした橋があったでしょ」
「ああ、北山橋ね」
 車は、次にかかる上加茂橋の横を通りすぎた。
「さっきの橋のすぐ横の向こう岸に、一つだけ突出して高い建物があったでしょう。」
「ああ、ありました」
「あの建物だけ、後ろのきれいな山を完全に隠して、なにか、番所みたいに目立つと思いません」
「そう言えば、そうやなあ。やっぱり、気になりますか」
「はい、気になるんです」
 車は、御園橋の角まで来ていた。
「もう一つはね、今、左側に見えるあの建物。東側の川沿いで、あの建物だけ、突出して高くて、周りの風景を壊しているって、感じしません?」
「そう言えば、そうやなあ。お客さんが気になるなら、困ったことや。でも、もう建ってしもうたからなあ。規制のかかる前に、きっと建ててしまったやろなあ」
「今は規制がかかっているんですか?」
「今は、京都は、たいそう厳しくなったと違いますか?」
「そうだと良いと思うんですけど。でもね、あの二つの建物、もうどうにもならないのでしょうか?」
「そうやなあ。建ってしまうとなあ」
「僕も最初はそう思っていました。でもね、例えば、スペインでは、景観を破壊してしまうホテルは、今、法律を作って、壊しているようなこと、やっているんです。もちろん、日本で、すぐ、そんなことできないですけど」
「そうやなあ」
「でもね、こんなことはできないでしょうか?あの二つの建物、いずれ老朽化するでしょう?その建て替えの時が来た時に、半分の高さに制限するんです。でもね、そうすると、持ち主の人、損をすることになるでしょ。その損をする部分は、みんなで負担するんです。つまり、京都の市が、税金で補助するんです。例えばね、建物がホテルだったら、今から隣接地域を市で買っておいて、建て替えの時、そこで半分の高さで横に広い建物をたててもらうんです」
「そんなこと、できますか?」
「だって、京都の人が、自分たちの税金をどこに使うか、誰に文句を言われる筋合いもないでしょう?」
「そうですなあ。観光では、京都は、ぎょうさんもうけてますからなあ」
「それからね、僕は、それには、国が補助しても良いと思うんですよ。だって、京都は、『世界の京都』だから」
「ほう、嬉しいねえ。『世界の京都』ですか?」
「はい。でもね、こういう話、よそものがしてもだめなんです。京都の人が言い出さないと。京都の方々が、今あの高いビルを持っておられる方個人の権利を上回る、「公」をつくっていただかないと。みんなが納得する、そういうものを。よろしくお願いします」
「あはは。いやあ。では、がんばりますか?!」
「はい。是非、お願いします。ありがとうございました」
「おおきに」
 タクシーが、ちょうど、京都産業大学に着いた。
 外の雨は、いつかあがっていた。

***

2009年8月10日(月)及び11日(火)小樽

 本年8月10日から14日までの5日間、「フォーラム神保町」で、「北海道縦断・連続シンポジウム〜CHANGEは北海道から」が行われ、私も、小樽で行われた初日と、札幌で行われた二日目に参加した。
 会合自体に関心があったことはもちろんであるが、小樽に行ってみたい、特別の理由もあった。小樽は、本ブログの第六回「家路を求めて」に書いたように、月尾嘉男先生があげた「街並みを再興し、生活空間の中に歴史環境をいかにしてとりくむかの、血のにじむような努力の結晶」がある、七つの町のひとつなのである。
 新千歳空港から、JR線の快速にのって一時間あまり、ホテル・グランドパーク小樽に到着したのは、午後五時を少し回っていた。シンポジウムの開始は、六時半、事前の打ち合わせが六時から。その前に、どうしても、「歴史を生かした小樽」を一目見ておきたかった。詳しいことはよく解らなかったけれど、運河の再開発が、この街の歴史風景の原点と聞いていたので、旅装をといて、シンポジウム参加の準備が整ってから、一目散にタクシーに乗り、「あと30分くらいしかないんですが、とにかく、小樽で一番よく知られている運河の風景を一回りして、六時までに、ホテルにもどってきてください」と、運転手さんに頼んだ。
 運転手さんは、自分勝手な観光客の要請に、少し困っていたようだが、とにかく、海沿いに走る旧運河のほぼ真ん中にある「中央橋」まで連れてきてくれた。
 なるほど、こここが、小樽の運河か。
 正直に言うと、私は、運河の国、オランダに三年住んでいた。退官して住んでいたライデンも、大使館で勤務したヘーグも、国最大の都市アムステルダムも、運河なしには語れない場所だった。
 比較するつもりは毛頭なかったが、思い出の中のオランダの風景と比べると、小樽の運河には、どこか周辺の景色との間の不調和があった。
 どうしてだろう?
 運河と平行に走っている道路とその反対側に並んでいるコンクリート・ビルディングが、余りにも普通の日本の現代都市の風景でしかなかったからかもしれない。
でも、深く考えている余裕はなかった。
 なにはともあれ、運河の部分を眺めれば、中央橋の南方には、遊歩道に沿った街灯が並び、若い人たちが華やかに、そぞろ歩いていた。左側の倉庫からは、気の早い夕暮れを告げるレストランの灯りが煌いていた。
 中央橋の北側にも運河が延びており、赤や紫の花で整備された花壇を配した遊歩道が平行して走っていた。
 日本という国の中で、一種独特な、情緒にあふれた風景ではあった。
「ありがとう、運転手さん。よくわかりました。それでは、ホテルに帰ってください」
 講演は、私のほか、魚住昭氏、佐藤優氏、宮崎学氏と、フォーラム神保町の創立者三名がそろっていて、政権交替選挙を控えた日本の政治のありようが中心テーマであったが、各人の冒頭発言の最後で、私は、集まった百名近くの小樽の聴衆の方々に、概ね、こんなことを述べた。
「お集まりいただいた小樽の皆さん。
私は、今日、小樽に来るのを、とても楽しみにしてきました。小樽市民の皆さんが、自分たちの歴史的風景を大切にする人たちと聞いてきたからです。
小樽の歴史的風景を、どうしても見たくて、この会合が始まる直前に、運河沿いの風景を眺めてきました。
日本では出会うことのできない風景でした。
私は、外交という分野で仕事をしてきましたが、これからの日本は、歴史を大事にし、その中から、新しいエネルギーを汲み取る力が必要だと思います。
歴史からエネルギーを汲み取るということは、今私たちが、歴史をつくっているという感覚を持つということでもあります。
皆さんが、今小樽で生活をし、今小樽に新しい風景を加えていくことが、五十年、百年あとの人たちから見れば、正に、歴史をつくっていることになります。
明日は、もっとゆっくり、小樽の街を散策したいと思っています。
皆様の、一層の活躍を祈っています」

 翌11日、日本全国に友を持つ宮崎学さんの紹介で、今小樽に住むライターのMさんが、光栄にも街の案内を引き受けてくださった。
 朝の十時すぎから、私たちは、小樽の中心部にある古い街をゆっくり回り始めた。
私は、昨晩訪れた運河についての印象と、シンポジウムで述べたことを、Mさんに話した。朝の太陽がまだ運河を明るく照らしている中で、中央橋から倉庫沿いの運河を眺めながら、Mさんは、注意深く私の話を聞いていた。
「東郷さん、小樽の運河が今の形になるには、長い葛藤があったんです」
「葛藤?」
「はい、運河は大正時代に完成して、戦前は、近辺の漁業と物資の集積をささえる文字通りの経済目的の運河だったんです。それが、戦後、小樽の経済停滞とともに、役に立たなくなり、60年代の高度成長期にはいるころ、運河を埋め立てるべしという開発派の道と市の当局と、歴史的な価値を生かして街の再生の一環として活用すべきと言う一部市民の間で、熾烈な論争になったんです」
 そういえば、大急ぎで眼を通した観光案内の本にも、運河論争のことが書いてあった。
「東郷さんは、小樽の人たちが、歴史を大事にしてきたと言われましたね」
「はい」
「結局小樽市では、開発埋め立て派と運河保存派の間で、妥協案ができてきたわけです」
「は〜〜〜」
「80年代に両派の間で妥協が成立して、運河の幅の半分を埋め立て、そこに小樽中心の交通渋滞を避けるためのバイパスができました。残った運河の一部に遊歩道が付加され、今の観光のメッカとしての運河の風景が生まれたんです。さて、運河周辺で地元企業の観光客相手の商売の成功を見て、今度は、道外資本が群がってきたということのようです」
 そういえば、昨日、不調和を感じたのは、運河をつぶしてできたバイパスの風景と、残された運河との間の不調和故だったのかもしれない。
「そうですか。そうすると、今の状況では、地元の人たちが何を望んでいるかということと、小樽の外から入ってくる資本とが、何を望んでいるかということと、両方、見る必要がでてきますね」
「そこのところが、難しいところです。しかも、これからの小樽の開発を考えるうえでも、関係がある問題なんです」
 運河の周辺を一通り散策した私たちは、観光案内書には、「北ウォール街」と書かれた戦前の銀行・商社・海運会社などの建物が残っている区域に移動した。
 Mさんは、運河の流れから西側に広がる「北ウォール街」のはずれ近く、列車の引込み線跡が芝生や草むらで囲まれる広場に、案内してくれた。戦前の面影を保つ木造家屋が数軒、未だ営業に使われて並んでいるかと思えば、その反対側には、蔦に覆われた赤レンガの二階建ての建物が、モダンなコーヒー店の看板をだしていた。
「Mさん、この広場、ちょっと面白いですね」
「はい。それでお連れしたんです。ここは、昔、南小樽駅と市内の手宮駅を結んでいた、手宮(てみや)線という路線が通っていた跡です。80年代にこの路線が廃止されましてね。比較的最近になって、路線跡が若干整備され、二月には、小樽は一面の雪になりますが、手宮線跡では、「雪明りの路」といって、蝋燭をともして、みんなで楽しむ祭りをやるんです」
「はあ〜。素晴らしいですね。この広場、投資をすれば、すごくセンスの良い、市民も観光客も集える生活と憩いとショッピングのような場所になりませんか?これ以上、無計画に、コンクリートの建物で空間をうめないで、①広場の空間と緑をふるに活用する、②まだ残っている木造の三軒の外形をしっかり残し、仕事を続けてもらう、③ガラスなどをフルに使った、モダンな建物をいくつか、広場の周辺に巧みに混ぜ、新しい事務所やおしゃれなお店に活用する、④不要な建物は、徐々に撤去する、そうすれば、生活感のある素敵な広場になると思いますけど」
「時々ここに来られた外部の方が、そういうことをおっしゃいます。問題は、そういう発想がなかなか、小樽の中からでてこないことなんです。私も外部から小樽にやってきて、一年半ほどになります。外部から来て小樽の活性化を考えると、やっぱり、この街にしかないものを生かしていけないかなどと考えてしまいます。例えば、この街に伝わってきた織物や着物をみんなでもちよって、着てみたり、保存したり、販売してみる。冬の雪の深いこの地方で、そういう動きを広めているんですが。。。。」
「なかなか、進捗しないんですか?」
「そういうわけでもないんですが、やはり、地元の方からの、すごいやる気というようなものがなかなかでて来ないんです。『お洒落で素敵な広場』をつくっても、自分たちの生活、どのくらいよくなるんだろう。収益があがっても、結局、外から来た人たちがもうけるだけではないかって。今一、地元のエンジンがかからないうちに、外部から来た人たちばかりが、熱心になってしまったりして。。。。。」
「でも、Mさんのような方の努力って、素晴らしいと思うんですけど」
「小樽でも、古い庶民の街並みが残っている『手宮地区』のようなところに、アーティストやミュージシャンや様々な若い人が住み、生活し、幅広い世代間の交流のある街づくりができないかと、思うのですが。。。。。」
 小樽の町は、運河沿いの風景にしても、北ウォール街にしても、確かに残された歴史と伝統を生かした街づくりの結晶である。
 しかし、率直に言って、なにかあともう一歩なのである。
 小樽のレトロからただよってくるもの、それは、小樽の人たちの毎日の生活の香りではない。古い小樽を、観光のために再生しようという努力の跡なのだ。けれども、本当に街を訪れる人たちが感動するのは、その街に住む人たちの生活と一体となった息吹なのだ。
小樽の運河がオランダの運河に比べてなにかしっくりこなかったのは、運河が街全体の生活の中にとけこんでいなかったからではなかろうか。
 私のイメージにあるのは、その地域にしかない、歴史と自然条件を生かした地方の再生と活性化なのだ。そういうその地方にしかない風景が、何よりも、その地方の人たちの生活に根ざしていること、それが、その地域を訪れる人を感動させるのだと思うのだ。
 そのためには、そこに住んでいる人たち自身が、「自分たち自身の生活のビジョン」と思えるようなものを、是非持っていただきたいと思うのだ。
 Mさんの夢のある話を聞けば、私の思いも、また膨らむのである。
 けれども、もしかもしたら、地元の関心が、そういう方向にむかないままに、結局、隣近所の、「都会的発展」の模倣を求める声が、強まってしまうのかもしれない。
 そうなれば、自然と伝統を生かした地域独自の発展のみが、これからの、日本の地方を支えるという私の考えは、共感を呼ぶことなく、消えてしまうのかもしれない。
 どうしたら、本当に地面に両足をつけた、地域独自の思想——これを「公」と呼んでも、よいかもしれない——が育つのだろう。
 はっきりとした回答のない、しかし、とても学ぶところの多い、小樽への旅行であった。
 

(了)