戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第十一回:ナショナリズム

▼バックナンバー 一覧 2010 年 1 月 12 日 東郷 和彦

 「戦後日本が失ったもの:新しいアイデエンティを求めて」という題で、私はこの連載を書いてきた。
 私は、親と祖父を外交官にもち、外務省で三十四年の生活を送り、二〇〇二年に退官してから六年を外国で過ごし、二年前のちょうど今頃帰国した。
これまで、おおむね、そういう私の人生の軌跡にあわせながら、戦後日本が失ったものについて、自分が直接感じ取ってきたことについて述べてきた。
 もしそれを一言で要約するなら、戦後日本が失ったものは、日本の自然とそれに調和してつくられてきた歴史的な風景であり、また、そういうものを大切にしていこうという日本人の心であった。眼に見える風景の荒廃は、実は、祖先から受け継いだ山河と歴史的な景観を壊してやまない、私たちの心の問題でもあった。自分を抑制し、みんなにとって一番大切なものを考える「公」を求める心が失われてきたのである。
 これからの連載の後半、日本人の心に眼をむけ、いくつかのテーマをとりあげることとし、先ず、ナショナリズムについて述べてみたい。

「戦後日本が失ったもの」というテーマに、直に共感するのは、おそらく、日本の政治思想の中での保守であり、その中でも、いわゆる右翼と言われる人たちであろう。
保守とは何か、右翼とは何か、一般的には、かなり難しい問題であるが、ここでは、「フォーラム神保町」で私が主催した二回の会合に講師として出席された中島岳志氏の説明を、引用させていただこう。
―――「保守」とは、広い意味での「右派」の思想を分かち合う人たちで、その特徴は、「反進歩主義、すなわち、人間の理性・設計主義によって理想社会を構築することは不可能と考える。進歩に対する希望的・楽観的観測よりも人間が歴史的に蓄積してきた社会的経験知を重視し、歴史の風雪に耐えた社会制度に内包された『潜在的英知』を信頼する立場」である。
―――「右翼」も、広い意味での「右派」の一つの考え方であるが、その特徴は、「理想社会の理念を捨てていない。過去の世界の一点に理想社会があった。その理想社会が『大御心』であり、現代の課題は、その理想社会に少しづつもどっていくことである」。
確かに、保守・右翼と言う言葉でおおむね理解される人たちの意見が、戦前の日本の名誉回復という一点に集約されていると考えると、今の日本で起きている現象は、大変わかりやすいと思う。

 第二次世界大戦敗北のショックは、日本民族にとって、未曾有の経験だった。
 日本民族には、民族の記憶としての「敗北」の経験がない。十三世紀の元寇は神風によって救われ、十五世紀の豊臣秀吉の朝鮮出兵は国家統一を成し遂げた一人の人間のやりすぎと失敗の記憶としてしか残っていない。国土を絨毯爆撃と原子爆弾によって破壊され、外国軍による占領を受けるという経験は、日本民族に精神の崩壊と魂の空白をつくりだした。それは、単なる国土の荒廃と国民が味わった塗炭の苦しみだけではない。明治以降、正しいと信じて進んでいた国家の進路とそれを支えていた価値観が間違っていたという、価値の崩壊からくる魂の空白でもあった。
 戦後の知的世界を風靡したのは、戦前の制度の致命的な欠陥を「無責任の論理」として徹底的に批判した、丸山真男の考え方だったと思う。敗戦を期として誰しもが考えたのは、「なぜかくも徹底的に負けたのか」という問いだった。丸山真男は、天皇を頂点とし、「究極的価値たる天皇への相対的な近接」(『超国家主義の論理と真理』、1946年)によって計られる戦前の日本社会では、ヒエラルヒーの上位者は下位者に対して絶対の権威を持つと同時に,天皇の名によってなすことによって責任意識を持たない「無責任の論理」をつくりあげたと批判した。そのような組織の典型が軍隊であり、無責任の組織と化した軍隊組織の中で、個人の創意と自発性が抑圧されていった。
 小熊英二『<民主>と<愛国>』(2002年)も、いかに日本の戦争指導が「セクショナリズムと無責任」によってなされたか、終戦直後の日本人の中からその無責任体制への批判が噴出したかを、簡潔明快に述べている。
 だが、敗戦による魂の空洞化は、こういう地に足のついた批判を超える特異な現象を引きおこした。敗戦ショックによって空白となった魂の深遠に、過去の全否定と新しい価値の全肯定という戦後無責任の論理が侵入したのである。昨日まで、軍国教育に声を大にしていた先生が、八月十五日を境に、民主と平和を喧伝して恥ずるところがない。軍の権威にこびへつらい、率先して「鬼畜米英」「一億玉砕」の旗をふっていたマスコミから隣組にいたる人々が、一転して、前線で命を捧げて戦ってきた兵隊をさげすみ、自らは、戦争の被害者であったかのごとき言辞を呈する。自己正当化と国民的無責任という唾棄すべき風潮が、戦後日本社会の一部に現れたのである。
 多くの人々がこの風潮に乗り、世間の空気は、戦前の全否定という方向に向き、この空気に反する意見を言うことが、なにごとによらず憚れる時代が、しばらくの間、到来した。

 振り子のぶれに乗らない動きもあった。
 極東裁判の被告たちがそうであった。「太平洋戦争は、日本の侵略戦争ではない。先発帝国主義たる米英と、後発帝国主義たる日本の利害が対立し、外交による調整が失敗した結果、日本は戦わざるを得ないと断じて立ち上がった」という主張は、A級戦犯とされた人たちの共通認識だった。占領下の言論統制の下にあっても、少なくとも裁判の場で、この主張は、誰に遠慮することもなく堂々と述べられた。
 戦前の全否定が、そのまま進行したわけでもない。
一九五二年占領が終わるとともに、戦犯を公務による死亡者として扱う長い努力が始まった。恩給法の逐次改正は、一九五三年から一九七三年まで九回に渡って行われ、その間に、戦犯死亡者は一般戦没者として扱われることとなった。靖国神社への合祀も、BC級戦犯は一九五九年に、A級戦犯は一九七八年にと、やはり二十年近くの歳月をかけて行われた。
 思想的にも、戦後の無責任転換の動きを見直そうとする流れは、六十年代奇跡の高度成長をなしとげたころから、表に出始める。

* 明治生まれの林房雄(一九〇三年生まれ)は、一九六三年から六五年まで、「中央公論」に、『大東亜戦争肯定論』を連載
* 大正生まれで終戦二十歳の三島由紀夫(一九二五年生まれ)は、一九七〇年、自らが率いる『盾の会』の若人とともに自衛隊にクーデターの決起を呼びかけ、失敗して割腹自殺
* 昭和生まれで終戦を中学生で迎えた江藤淳(一九三二年生まれ)は、六二年から六三年プリンストンで教鞭をとった経験で日本の価値を一層自覚させられた。七十九年から八〇年までのワシントンでの調査に基づき、八十二年から八十六年まで、「諸君」に『閉ざされた言語空間:占領期の検閲と戦後日本』を連載

 私自身も、戦前の全否定とは、無縁の世界で育った。極東裁判は、東郷茂徳を祖父に持つ私の家では、戦いの場であった。
開戦を阻止せんとして東条内閣の外務大臣として全力をつくして果たせず、鈴木内閣の外務大臣として終戦をなしとげた祖父東郷茂徳は、A級戦犯として極東裁判で禁固二十年の刑をうけ、一九五〇年巣鴨の獄中で死去した。
 しかし、占領米軍にとって、真珠湾攻撃の時の外務大臣は、もっとも悪質な戦争犯罪人であった。茂徳の弁護に当たった家族にとって、極東裁判は、茂徳の命を守るための戦いの場であるとともに、太平洋戦争がいかなる曲実に基づいて行われたかを歴史に向かって証言する場であった。
 太平洋戦争が侵略戦争であり、その首謀者は「平和に対する罪」として断罪されねばならないという、極東裁判検察と多数判決の論理を、我が家では、一秒たりとも肯定したことはなかった。
六十年代から八十年代、冷戦の中で、戦前の日本にあった正当なる栄光をとりもどそうとしてきた動きには、私は、ほとんど抵抗感がない。そのような観点から、冷戦時代をしめくくった中曽根康弘総理の識見とバランス感覚には、深く敬服するところがある。

 他方において、被害者としての苦しみと、「なぜ負けるような戦争をしたのか」という意識から出発した日本は、徐々に、戦争によってどのような被害を相手国に与えたのかという点について、学び始める。丸山真男が、一九四六年に述べた以下の指摘が、現実味を持ってくる。
 
 今次の戦争における、中国やフィリピンでの日本軍の暴虐な振舞についても、その責任の所在はともかく、直接の下手人は一般兵隊であるという痛ましい事実から目を覆ってはならぬ。国内では『卑しい』人民であり、営内では二等兵でも一度外地に赴けば、皇軍として究極的価値と連なる事によって限りなき優越的地位に立つ。市民生活においてまた軍隊生活において、圧迫を移譲すべき場所を持たない大衆が、一度優越的地位に立つとき、己にのしかかった全重圧から一挙に解放されんとする爆発的な衝動に駆り立てられたのは怪しむに足りない。
 
 例えば、以下のような出来事に、国民は徐々に眼を向けるようになった。

* 極東裁判における残虐行為の追求
* 一九五七年中国帰還者連絡会の設立と認罪運動
http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/index.htm
* 一九六十年年代のベトナム反戦運動が一区切りついたあと、一九七一年朝日新聞に掲載された本多勝一の中国戦争被害報道(後に、朝日文庫「中国の旅」として出版)
* 一九八一年から八二年、「赤旗」に連載された森村誠一の「悪魔の飽食」。七三一部隊を扱ったルポで、その後、単行本でベストセラー
* 一九八五年、旧陸軍の親睦団体「偕行社」が南京事件を独自に調査し、三千名から一万三千名の不法殺人があったと認め「中国人民に深くわびる」旨月刊「偕行」に掲載
* 八二年の韓国・中国との教科書紛争とこれに対する鈴木内閣の「隣国条項」の導入。八五年の中曽根総理の靖国公式参拝と八六年以降の参拝中止
* 一九六七年から開始され、日本の侵した残虐行為についてもっと書くべきだと主張した家永教科書訴訟

 そういう変化の中で、一九八九年、冷戦が終了し、奇しくも、昭和が平成に変わり、日本のバブル経済が破裂し、時代は、おおきな転換を日本に求めてきたのである。九三年から九四年、小沢政治改革による非自民党政治が、短期間実現する。
冷戦の終了に伴う大きな変化は、歴史認識についても波及した。
 小沢改革の直前の自民党内閣が、宮澤内閣という保守中道内閣であったこともあり、日本政府は、天安門事件以降国際的孤立化が著しかった中国に対して、一九九二年、天皇陛下のご訪問をもって応えた。韓国との関係では、九三年、慰安婦問題に関する河野洋平官房長官談話が発出された。九五年、自社さ連立内閣では、歴史認識に関する村山富市総理談話が閣議決定された。家永裁判も、九七年の最高裁判決によって、原告の主張が相当に認められた。
 私は、これら一連の動きは、戦後の日本が、戦争を、隣国の立場で見るという訓練を少しずつ積んできたことの結果だと思う。
そのことは、わたし達のものの見方を、より客観的に、より謙虚に、したがって、より強いものにする。
 それは、隣国の歴史観に完全に同調することとは、本質的に違う。戦前の日本の行動の中で、守るべき名誉は守るという前述の考え方とも、まったく矛盾しない。村山談話は、そういう意味での日本人の歴史認識の、一つの到達点だったと思う。

 極東裁判から五十年近くたって、日本は漸く成熟した歴史認識に到達しつつあった。一方において、戦前の日本を全否定しない、回復すべき誇りをきちんと述べようという動きが蓄積してきた。他方において、日本人自身によって「謝るべきものは謝る」という姿勢もはっきりさせてきたのである。
だが、ようやくその均衡点を見出したと思った九五年、歴史問題は、苛烈なナショナリズムの方向にむかって、渦巻き始める。
 対外関係では、この年、中国では、天安門事件以降の_小平―江沢民の愛国教育路線を受けて、南京事件に関する展示会が全国の小学校で実施された。韓国では、民主化・脱軍事化の流れから登場した最初の民間大統領金泳三の下で、戦後韓国のアイデンティティを形作ってきた反日の世論が噴出し、旧総督府の建物が破壊された。
 国内おける謝罪路線と、国外からの日本非難路線の双方からの攻撃をうけた保守・右翼の人たちに、激しい危機感が生まれたとしても、不思議ではない。いわゆる「右派」といわれる学者、オピニオン・リーダーが、かつてなく声高に発言し始めたのである。
 九六年、その動きは、中等教育用の歴史教科書を「つくる会」の形成になって現れ、錯綜した内部対立を経ながらも、この系統をひく教科書は、二〇〇一年、二〇〇五年、二〇〇九年と教科書検定をパス、採択率は低いものの、徐々に増加の傾向を示し始めた。
 政治面でも、保守・右翼の流れは顕著になってくる。九七年には、安倍晋三、中川昭一ほかによる「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が形成され、活発な勉強会(http://tokyo.s-abe.or.jp/poritics/textbook/textbook.htm)が行われた。二〇〇一年、小泉時代に入ると、歴史認識としては謝罪是認の立場にありながら、靖国神社については在任中一年に一回の参拝をやめなかった総理の「屈しない態度」が、相当の国民によって支持され始める。
 後継者として選ばれた安倍総理の時代は、むしろ小泉時代に底落ちした日中関係の修復が主要な課題となるが、保守・右翼の政治家及びオピニオン・リーダーの間では、安倍長期政権下での、正しい歴史認識回復への期待感はいやがうえにも、強まっていたと思う。
ここに顕在化してきた保守・右翼の論調の中で危険なものがあるとすれば、それはどこなのか、分析は慎重を期する。前述のように、個々の論点において、戦前の名誉回復への希求は、極めて正しいものがあることを否定するつもりは、まったくない。
 しかし、この間に現れてきた、”(1)” 戦前の日本はあたかもすべてが正しいかのごとき印象を与える強烈な論調、”(2)” 宮澤、河野、村山などの「謝罪政治家」や朝日新聞的とされる「謝罪叩頭外交」への猛烈な批判、”(3)” 日本の謝罪をせまる中国、韓国に対する激烈な感情的な反発については、改めて、注目せざるをえないと思う。
 二〇〇七年、参議院選挙での大敗と健康上の理由があいまって、安倍総理は予期せぬ退陣をした。それにつぐ、福田・麻生政権の下で歴史認識の問題が表にでることはなく、さらに民主党の鳩山政権でも、保守・右翼の望むような一層の「戦前の日本の正当化」の動きが進むとは思えない。
 当面自ら望む方向が頓挫したことに対する保守・右翼の失望感は、二〇〇八年十月の田母神敏雄航空幕僚長による懸賞論文「日本は侵略国家であったのか」に結集されたように思われる。
 田母神空将の論旨は明快である。―――「日本は、侵略国ではなかった。戦前の行動は、すべてその時の国際法上、合法的な行動だった。中国で和平を求めたのは日本であり、日本は、むしろ蒋介石とコミンテルンの陰謀によって戦争にひきずりこまれた被害者である。太平洋戦争も、ルーズヴェルトによって慎重にしかけられた罠に日本が乗せられて開戦したものである。北東アジアにおいて日本は、満州も朝鮮半島も台湾も日本本土と同じように開発しようとしただけである」。

 歴史認識をめぐる日本のナショナリズムの問題は、今、表面的には沈静化している。しかし、私には、潜在的には、極めてあやうい状況が続いているように見える。
 民主党政権には、中道の立場にたって、歴史認識について国民の認識を変えていこうとするおおきな動きがでるという気配はない。他方において、田母神空将の主張には、全国通津浦裏の幅広い人たちの関心ないし支持がある。
 だが、野党としての困難さに辛酸をなめた自民党が、政権をにぎった時に、田母神空将の主張に現れているような「絶対的自己正当化」の主張が前面に出てきたら、どういうことになるのか。
 今私たちは、本当に真剣に考えなくてはいけないと思う。
戦後日本で私たちが失ったものを回復するために本当に必要なものは、戦前の日本の「絶対的自己正当化」なのか。
 絶対的自己正当化によって、自分と意見を異にする日本人と、日本を批判する外国人に批判を集中することに、私は本能的な危険を感ずる。
排外感情に身を委ねることは、私たちが、本当に否定すべきところから眼をそむけることになるのではないか。
 私たちが本当に否定すべきは、故国の山河と伝統を壊して恥じない、わたし達の心なのである。そこから、決して、眼をそらしてはならないのである。
 のみならず、戦前の日本についての「絶対的自己正当化」を表にだし、それに同調しない中国、韓国、更には、アメリカに対する公の論戦をいどんだとした場合、日本は勝てるのか。―――今のままでは、絶対に勝てない。米中を前に先の大戦で軍事的に敗北した日本が、今度は両国から文化的に敗北することになる。
 このような道は絶対に回避しなければならない。
 そのために、今できることはやっておかねばならない。

 2009年6月22日、宮崎学氏が主催する「フォーラム神保町」の勉強会「戦後日本が失ったものを語る」に、田母神俊雄元空将をお招きし、講演をしていただき、私が、「神保町」側からのコメント役をおおせつかった。
 田母神氏は、最初の論文「日本は侵略国家であったのか」で述べられ、また、その後息もきらせずに続けておられる出版の中で確認している諸点を、解りやすく、親しみ深いユーモアをこめて述べられた。
 私は、私たちがともに国家公務員をやめさせられたという共通点を持っていること、太平洋戦争の中に決して侵略という形で片付けられない正当な側面があること、国の防衛をもっと自主的に考えねばならないことなど、一致点も多いことを述べたうえで、一点にしぼって、異論を述べた。
「日本がアジアにおいて、完璧な日本化をめざして行った植民地主義は、完全な善であり、当時の国際法にのっとって行われた中国での戦争は、挑発を受けた被害者であったという歴史認識は、本当にそうだったのでしょうか。
 むしろ、実際に当時アジアへの勢力拡大を指導した指導者から、アジアにおける日本の戦いに関する痛切なる自己批判が繰り返し述べられていたというのが、実情ではないでしょうか」
 私は、そう述べて、戦前アジアへの勢力拡大の指導者であった人たちの発言を読み上げていった。
 先ずは、石原莞爾である。対米戦争を世界最終戦争と予測し、それへの布石として関東軍参謀として満州事変を立案・実行したその人が、満州事変以降の支那への勢力拡大について、極めて強い批判を述べているのである。
 
 明治維新後、日本人は民族国家を完成するため、他民族を軽視する傾向の強かったことは否定できません。台湾、朝鮮、満州、支那において、遺憾ながら他民族の心をつかみえない最大原因がここにあることを深く反省することが事変処理、昭和維新、東亜連盟結成の基礎条件であります。
―――一九四〇年五月京都における講演筆記『世界最終論』より。
 
 次は、大川周明である。太平洋戦争に至る最大のイデオローグとして、極東裁判における唯一の民間思想家として被告席に座り、「狂気」をよそおってか訴追をまぬがれ、戦後を生き抜いたこの人が、一九四一年十二月対米英戦争開戦の直後のラジオ放送で、戦争の意義を語り、四十二年には、これが単行本としてベストセラーになった。そのラジオ放送の最終日に、以下のような発言がある。
 
 もとより南京政府はすでに樹立され、汪精衛氏以下の諸君は、興亜の戦において我らと異体同心になっておりますが、支那国民の多数はその心の底においてなお蒋政権を指導者と仰ぎ、日本の真意を覚らんともせず、かえって反抗しつつあることは、悲痛無限に存じます。
―――『米英東亜侵略史』一九四一年十二月二十五日放送より。
 
 日本のアジア政策は、「悲痛無限」なのである。
更に、林房雄の『大東亜戦争肯定論』がある。対米英戦争の開始について、暗雲が晴れたような開放感を感じたという林房雄が、アジアの戦争について以下のように述べているのである。
 
 満州建国組と呼ばれる人々の理想と信念がいかに純粋なものであったにせよ、それは日本人側の一方的な押し付けであって―――たとえ「保境安民派」の協力があったとしても―――三千万の漢民族、百万の反日的朝鮮民族、それに長い歴史によって漢民族化している満州人・蒙古人の心をつかむことはできない。まして孫文以来の国民革命運動により、ナショナリズムに目覚めさせた漢民族との諒解や握手は夢のまた夢である。棍棒で相手の頭をなぐりつけたその手を差し出して、誰が相手に応じるであろうか。
―――『大東亜戦争肯定論』「第十五章日中戦争への道」より。
 
 私の発言のあと、討論の時間はあまり残っていなかった。田母神氏とは、それ以上、議論を深めることができなかったのが、残念である。

(了)