戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第十二回 皇室の安泰

▼バックナンバー 一覧 2010 年 1 月 25 日 東郷 和彦

 一九四五年夏、太平洋戦争は、終結をむかえていた。
 もはや、日本が勝利するいかなる可能性も残っていなかった。
 真珠湾攻撃から当初の半年間、破竹の進撃を続け、東南アジアから西太平洋を席巻した帝国陸海軍は、四二年六月のミドウェーにおける敗戦から三年間、一度も勝利の可能性をもつことなく、太平洋における戦線は徐々に縮小していった。
 四三年二月ガダルカナルから撤退、四四年末から本土空襲が恒常化、四五年に入ると三月の東京大空襲、四月の戦艦大和の撃沈、六月の沖縄占領と、もはや残るは、まったく勝算のない本土決戦のみという状況になっていた。
 四五年四月に成立した鈴木貫太郎内閣は、終戦を実現するための内閣だった。少なくとも、それが、外務大臣として入閣に同意した祖父東郷茂徳の理解だった。
 しかし、終戦工作は最大限の機密を要した。本土決戦、一億玉砕というスローガンが国中を席巻する中で、終戦を話題にするだけで、非国民とされ、暗殺の危険がある時代であった。
 工作は、五月十一日、最高戦争指導者構成員会議の開催という形で始まった。それぞれの官庁からの同席者を排除し、首相、外相、陸軍及び海軍大臣、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の六名だけの会議を開催する、そこで話されたことは絶対に外部に漏らさないという約束で、この会合が始まったのである。
 とりあげたテーマは日本と唯一戦争状態になかった大国ソ連の扱いであった。ドイツ戦に勝利をおさめんとしつつあるソ連が今後どうでてくるかは、軍部の重大関心事項であり、外務省にはソ連を通づる調停工作実現を求める声があった。両者の関心は一致し、この話し合いを通じて、最高戦争指導者六名の間で、暗黙のうちに、終戦の必要性とプロセスについての合意が生じていったのである。
 しかし、ソ連との話し合い自体は、難航した。二月のヤルタ会談で、対独戦終了後二ヶ月から三ヶ月で対日戦争に参加することを約束したスターリンに、調停工作がまともに通ずるはずはなかった。六月には、広田弘毅元総理とマリク駐日大使との間で会談が箱根で始まったが、一向に進捗しなかった。
 戦局の一層の悪化の中で、会談の進み具合に危惧した指導部は、七月に入り、近衛文麿元首相を天皇陛下の特使としてモスクワに派遣し、調停工作を進めることに決した。
 近衛特使派遣は、終戦の条件として、日本は何を要求すべきかについての議論を顕在化させた。この議論は、一九四三年カサブランカで行われた連合軍の会議以降、対日無条件降伏要求を言い出したルーズヴェルトの発言への対処を考えることでもあった。
そして、その議論のなかでコンセンサスとして浮上したのが、日本は無条件降伏に近い形で戦争をやめるが、完全な無条件降伏は受け入れられない、少なくとも国体の護持だけはゆずれないという見解だった。

 「国体の護持を絶対にゆずれない条件とする」———思えば、このことは大変なことだったと思う。
 戦局にまったく勝ち目はないのである。継戦は日本民族の絶滅を意味しかねなかった。もしも、日本が提起した条件に連合国が同意しなければ、連合国は日本本土への攻撃を続け、日本民族の絶滅が現実になりかねなかったのである。
 そういう状況でなお、当時の日本人は、民族の存続にかえても大事と思ったものがあった。それが、国体であった。
 そう思ったのは、一億玉粋をもってしても継戦を主張する人たちだけではなかった。当時の最高のインテリであり、何がなんでも戦争をやめねばならないと考えた人たちも、そう考えたのである。
 国体とは何か。細かく分析すれば、諸説あって、一巻の書をもってしても足りないものがある。しかし、解りやすく言えば、それは、最低限、太古から続いてきた日本の皇室を守るということであった。
 当時の日本人にとって国体がどういう意味をもったかを知るうえで、近衛特使派遣をめぐって外務大臣東郷茂徳と佐藤尚武駐ソ連大使の間で交わされた電報ほど、有益なものはないと思う。
 言うまでもなく、東郷も佐藤も、狂信的な戦争継続論者ではなかった。むしろ、その対極的な所にいた人たちである。
 なんとしてでも戦争を終わらせねばならない。戦争さえやめれば、國やぶれて山河あり、日本の国土と日本の国民は残る。そこから必ずや日本民族はふたたび立ち上がれる、そう信じて、全身全霊、仕事をしていた人たちである。
 その二人にして、どうしても捨てられない条件があった。それが国体の護持であり、皇室の安泰であった。
 
* 一九四五年東京時間七月十二日午後、東郷大臣より佐藤大使に、近衛特使派遣を伝える電報が発出された。電報は以下の天皇の意思を明示し、それを伝えるために近衛特使が天皇の親書をもってモスクワを訪れるので、特使を受け入れについてソ連の了解をとるよう訓令した(第八九三号)。
———天皇陛下におかせられては今次戦争が交戦各国を通じ国民の惨禍と犠牲を日々増大せしめつつあるを御心痛あらせられ戦争が速やかに終結さられんことを念願せられ居る次第なるが、大東亜戦争に於いて米英が無条件降伏を固執する限り帝国は祖国の名誉と生存の為一切を挙げ戦い抜く外無く、之が為彼我交戦国領民の流血を大ならしめるは誠に不本意にして人類の幸福の為なるべく速やかに平和の克復せられんことを希望せらる。
 
* 佐藤大使は早速折衝を開始するが、例によってソ連側の動きはにぶい。連合国が「交渉による講和」を実現する意図がなく、これ以上戦争を長引かせてはならないと確信していた佐藤大使は、モスクワ時間七月十五日午後、ソ連側の動きを分析し、自らの意見を付した大使発東郷大臣あての電報を発出した(第一三九二号)。
———結局帝国において真実戦争終結を欲する以上無条件又はこれに近き講和をなすの他なきこと真にやむを得ざる所なりとす。然るにこの度の御内意を拝誦するに至りたるまでの経過については累次の貴電によるも事情明らかならず。・・・たとえソ連の承諾を得て特使来訪のこととなるも、その結果たるや却て極めて憂慮すべきものに終わるなきや痛心に耐えざる次第なり。
 
* 戦争継続を主張する軍部をぎりぎり終戦工作に引きづりこむことに最大の焦点のあった東京では、少なくとも特使がソ連政府と話をすることは譲れない点であり、かつ、その際には、どのような言い方をするかは別として、国体の護持は絶対に譲ってはいけない条件であった。佐藤大使の電報の中に「無条件講和やむなし」という表現を読んだ東郷大臣から、七月十七日夕刻激烈な叱責としか言いようのない電報が発出された(第九一三号)。
———今日米英が日本の名誉と存立を認めるならば戦争を終結せしめ戦争の惨禍より人類を救いたきも、敵にしてあくまで無条件降伏を固執するにおいては帝国は一丸となり徹底的に抗戦する決心なるは、畏くも上御一任においても御決意せられ居る次第なれば、ソ連政府に依頼して無条件降伏に等しき斡旋を求めんとするものに非ざるにより、この点特に御承知置き相成り足し。
 
* この電報を受け取った佐藤大使は、直に、十八日夜国体問題は別だという電報を打ち返した(第一四一六号)。
———累次の拙電中本使の所謂無条件降伏又はこれに近き講和とは帝国の国体擁護問題を除外してのことたるや論なく、国体問題は仮令ソ側に貴電に依る申し入れをなす場合においても七千万国民の絶対的要望として強く印象づくる様努力の要あるはもち論の儀にて・・・念のため右申進す。
 
* 以上のやりとりをふまえて、七月二十日夕刻、佐藤大使より東郷大臣にあてて、「最後の意見具申」と言われる長文の電報が発出された。いかなる代価をはらっても戦争をやめねばならない、しかも即刻やめねばならない、さもなくば、日本はその国土と国民を失う、それでよいのかという意見を、戦況の推移と連合国の意図の両面から諄々と説き起こして、以下の結論に至るこの電報は、第二次世界大戦のみならず世界の戦争のなかで書かれた希有の名文の一つとして、読むものの心を打つ。この電報においてなお、国体の護持だけは、守らねばならなかったのである(第一四二七号)。
———すでに抗戦力を失いたる将兵及びわが国民が全部戦死を遂げたりとも、ために社稷は救われるべくもあらず。七千万の民草枯れて上御一人御安泰なるをうべきや。思うてここに至れば、個人の立場も軍の名誉もはたまた国民としての自負心も社稷には代え難し。すなわち我は早きに及んで講和提唱の決意を固むるほかなしというに帰着す。・・・本使の言わんとする講和提唱は、国体擁護以外の敵側条件をたいていのところまで容認せんとするを意味するものにして、国体保持さえなれば国家の名誉と存立はもはや最小限度保障せらるるわけにて、貴電第九一三号の御趣旨に悖らざるべきを信ず。・・・

 佐藤大使からの、「最後の意見具申」が書かれた三日後の七月二三日、米英支の三国からポツダム宣言が発せられた。
 ポツダム宣言は、「我らの条件左のごとし」と述べることにより、また、無条件降伏という言葉が日本国軍隊に対してのみ使われていることにより、日本政府全体が無条件降伏をしたという形態をとらないように起案されていた。しかし、関係者が一番の関心をよせていた、国体の護持については、なんら触れられていなかった。
この宣言に対する日本政府の対応が、迅速さと的確さを欠いていたことは、余りにも多くの分析があるのでここではくりかえさない。要するに、政府内部の意思統一においても、また、情勢の緊迫さを図る感度においても、決定的に足りない点があったのである。
 そういう状況の下で、八月六日広島に原爆が投下された。
 そして、東京時間の八月九日未明ソ連軍は満州に怒濤のごとく攻め入り、この日の午前、長崎に二発目の原爆が投下された。
 もはや、いかなる視点にたっても、日本は退路を断たれた。
 広島に落とされた爆弾が、類例のない殺人兵器であり、これが陸続として投下された場合、国土と国民の崩壊は疑う余地はなかった。
 ソ連の参戦は、一縷の望みをかけていた調停への希望を木っ端微塵に打ち砕くとともに、それまで形の上で温存されていた関東軍を壊滅状況に追い込み始めた。
 八月九日から十日の未明、最高戦争指導者構成員会議以下日本政府は、終戦に向けて、最後の力をふりしぼった。
 ポツダム宣言の受諾自体には、異論はなくなっていた。問題は、それに付すべき条件であった。外務大臣東郷茂徳は、国体の護持一点にしぼることを主張、陸軍大臣阿南惟畿は、更に、武装解除、戦争犯罪人の処罰、占領地の限定の計四つの条件をつけるべきと主張した。
最高戦争指導者構成員会議は、三対三(外相、首相、海軍大臣対陸軍大臣、参謀総長、軍令部長)に分れ、両者の見解は収斂しえず、閣議も紛糾、天皇臨席の下で九日深夜に開催された拡大最高戦争指導者会議において、御聖断をもって、国体の護持一つを条件としてポツダム宣言は受諾されたのである。
この日、「国体の護持」についての表現が三回変わった。九日の朝外務省は、「皇室の地位にいかなる影響も及ぼさない」という案を起案した。この案がその日の議論の中のどこかの時点で変更され、深夜に開催された御前会議には、「天皇の国法上の地位を変更する要求を包含し居らざる」となった。更に、御前会議で、平沼騏一郎枢密院議長の提案により、「天皇の国家統治の大権に変更を加ふるが如き要求は之を包含し居らず」と変更された。「皇室の安泰」という最小限の要求から、「国家統治の大権」に、拡大されたのである。
御前会議の決定をうけて、十日、外務省は、連合国に対し、ポツダム宣言受諾を回答し、その末尾を、こう結んだ。
———(この宣言に掲げられた条件中には)天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に、帝国政府は右宣言を受諾す。
帝国政府は右の了解に誤なく貴国政府がその旨明確なる意思を速やかに表明せられんことを切望す。
 私は、この部分を読み返す度に、すごいと思う。
一つ言い方を間違えれば、国家が壊滅する時である。
この最後の一文は、なくてもすむ文章である。それを、この了解に誤りがないかと追い打ちをかけ、更に、速やかに返事をしろよとギリギリと迫っている。この最後の一文に、時代の執念のようなものが現れているように、感ずるのである。
 これに対し、八月十二日早朝、連合国は、バーンズ国務長官発の回答をよせた。内容は、広く知られているとおりである。
  ———天皇及び日本国政府の国家統治の権限は(the authority to rule the country)、・・・連合軍最高司令官の制限の下におかれる(subject to)」(第一項)
———日本国政府の確定的形態は(The ultimate form of the Government of Japan)、・・・日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす(第四項)
 国体の護持に関する回答は、あいまいなまま残された。占領下において国家統治の権限が占領軍の下に置かれることはしかたがないとして、「自由に表明する国民の意思」が何を意味するかは、明示されていなかったからである。
 東郷茂徳以下外務省は、「国民が選択する以上、国体を毀損することはありえない」としてバーンズ回答受諾を主張、阿南惟畿大臣以下は国体を護持し得ずとして再交渉を主張、二日間の審議をもってしても両者決着せず、八月十四日午前、第二回の御前会議で御聖断をえて、バーンズ回答の受諾が決定された。
 国体の行方は、「自由に表明された国民の意思」にゆだねられたということになる。

 一九四五年八月十四日午後十一時終戦の詔勅が発布され、直にスイス公使を通じて連合国に打電、翌十五日正午の陛下の玉音放送によって、事実上太平洋戦争は終わった。
 九月二日ミズーリ号上で降伏文書が署名され、占領が始まった。
 国体の護持いかんは、この時から約半年の間、占領下で行政に携わった人たちの最大の関心事の一つとなった。
 おおかたの人が、この時最低限守ろうとしたのは、八月九日の三つの解釈の中の「皇室の安泰」であった。
 戦争犯罪人訴追の中から昭和天皇をはずすこと、新しい日本の政治形態を決める憲法の中に天皇制の維持をきちんと書き込むこと、この二つの相互に関連する問題が、占領初期の半年間、喫緊の重大事になったのである。
 先ず、占領軍の統制下におかれた日本政府の関係者は、一丸となって、天皇を戦犯裁判の外に置こうとした。占領行政をあづかるマッカーサー麾下の占領軍も、占領行政を円滑に進めるため、天皇訴追には否定的となった。九月二十七日に行われた天皇とマッカーサーとの会見で、マッカーサーの天皇への尊敬の気持ちが深まったことも、プラスに作用した。
 一九四六年一月二十五日、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀総長に対し、天皇に戦争責任無しという強烈な電報をうった。潮の流れはここできまったのである。
 憲法問題も、ほぼ時を同じくして、大きな方向性が決まった。最近の研究によれば、四六年一月二十四日、幣原首相とマッカーサーとの会談において、幣原首相からマッカーサーに対し、天皇制保持と平和主義の二点を新憲法に入れることが提案され、マッカーサーは快諾したという。
 しかし、天皇制保持の条文が現在の憲法一条という形に落ち着くには若干の曲折があった。幣原首相との会談を終えたあとに作成されたマッカーサー原案(二月三日)は「世襲の元首制」であったが、これがケーディス民政局長によって「日本国・・・日本国民統合の象徴であって・・・主権の存する日本国民の総意に基く」と改案されたうえで、日本政府側に提示され(二月十三日)、激論の末、これが政府原案として、三月六日に国民に提示された。
 この新憲法第一条案に対しては、左右両極ともに、国体の護持にはならないと論じた。
新憲法を新しい日本の礎石とすべきとする終戦後の憲法学の議論では、象徴天皇制は、明治憲法にいう天皇を統治の淵源とする国体論とは完全に切り離されたものとして、肯定的に評価された。
 国家統治の大権を維持することが国体の護持と考える原理派の人たちも、国体は国民の総意に基づくものではなく日本国の太古より継承されたものであり、「象徴」制は、まさに国家統治の大権の否定であり、到底受け入れられないと批判した。
しかし、皇室の安泰という観点にたつならば、皇室が新憲法によって維持されることは明白であった。日本の政治が長きにわたり、統治の権力を担う武士階級と権威のよりどころとしての天皇制という二元的な構造によってなりたち、新憲法は、そういう日本の伝統に合致するという見解も、たちどころに現れた。国民の趨勢は、こういう議論を受け入れて、新憲法下の天皇制を受け入れていったのである。
終戦から半年余り、こうして、「自由に表明された国民の意思」に支えられた天皇制が明確な輪郭をとって現れた。
この輪郭が完全に定着するまでに、更に、二年ほどの歳月がかかった。
憲法については、四六年十一月三日に公布、四七年五月三日に施行された。
東京裁判については、四六年四月二十一日二十八名のA級戦犯が起訴され、天皇不訴追。四七年十二月三十一日の東条審問で、天皇に責任ありという結論を示唆するような答弁が行われたが、翌四八年一月六日の再答弁で東条首相はかかる懸念を払拭。裁判中に生起したかもしれない天皇訴追の可能性は、この時をもって終息した。

 かくて、五一年九月サンフランシスコ平和条約によって独立を回復した日本は、象徴天皇制の下で、「富国平和」「経済大国」への道を歩み始めた。
昭和天皇は、そういう日本国民とともに、戦後日本の象徴として、それから三十年余りを生きられ、昭和六十四年(一九八九年)一月七日、逝去された。 奇しくも、それは、この年の十二月マルタ島にて、ゴルバチョフとブッシュとの間で冷戦の終了が唱えられた年でもあった。
ポスト冷戦は、日本においては平成の世となり、早二十年がたった。この間、皇室においては、皇太子と雅子妃とのご成婚、愛子内親王のご誕生、秋篠宮家における悠仁親王のご誕生などの動きがある一方、雅子妃の御公務問題、皇位継承をめぐる皇室典範改正問題など、新しい問題が浮上している。
日本人にとって、皇室とは何なのか。
平成が二十年を過ぎた今、私たちにとって、そういう重い問いかけがあるのだと思う。
その時、私の心がどうしても戻っていく原点のような所がある。
それは、一九四五年夏、日本民族と日本の国土が壊滅するかどうかの、本当にギリギリの所に追いつめられたその時に、私たちの祖父や父の世代の人達が、例え民族が滅んでも守らねばならないと思った「皇室の安泰」があったという地点である。
あの時代の人たちが、一丸となってそう思い詰めた、我が国の「皇室の安泰」とは何だったのだろう。
私には、正確な答えがない。
私にも、よく解らないのである。
けれども、この原点にたちもどる時、なぜか、涙がこみ上げてくる。
今も、こうやってワープロをたたいていると、ただ、涙を抑えがたくなる。
それ以上に答えようがないのである。

 二〇〇九年七月十九日から二十日、フォーラム神保町の仲間とともに、皇室の祖先をお祀りする神道の社、伊勢の神宮を訪れた。十九日は講師の先生と勉強会をした。
 神宮の伝承は神話時代に遡り、奈良期に多くの祭祀が確立され、中世よりの「御伊勢参り」などを通して多くの日本人の崇敬をうけるようになったが、明治維新までその趣は、現在のそれとはかなり異なっていたという。
その周辺は、御伊勢参りの仕掛け人ともいえる「御師(おし)」の邸や、各摂社・摂社の「出店」のような遥拝所が軒を連ね、その賑わいぶりは、今で言えば、浅草の門前中町の雰囲気だったそうだ。
神宮の神職を中心とする御師は、江戸末期の最盛期には、その数八百を超え、全国に伊勢講を組織。お札を配り、伊勢では参拝者を宿泊させて伊勢神楽を楽しませ、ホテル・旅行代理店・土産物屋・演芸係り・神社の広報係りと案内人をすべて兼ねたような役割を果たしていた。
 明治初年、神社を国家の宗祀と定め、伊勢の神宮は、国が直接司ると決めた明治政府は、御師を全廃するという荒療治に出た。伊勢の周辺から、雑踏や賑わいが消えると共に、古木と庭園とせせらぎに囲まれた現在の神社周辺の景観が出現したという。
 十九日外宮(げくう)を参拝した。
 二十日内宮(ないくう)を参拝した。
 宇治橋を渡り、ヨーロッパの宮廷庭園の面影をなにがしか分かち持つ緑豊かな庭園部をすぎ、内宮神域の入り口にかかる小さな橋を渡ると、右側に五十鈴川という清流が現れる。
 御手洗場(みたらし)と呼ばれるその川縁にかがんで、手を濯ぐ。清流の冷たさが、手にも心にも心地よい。
 そこから境内を進むと、両側に、太古からの木立が現れる。
歩を進めるごとに、緑は深く、木立は天高くそびえる。
木立の頂から、清浄な空気が降りきたる。
静寂が、四囲をつつむ。
しばらくして、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祭る皇大神宮(こうたいじんぐう)の麓に出る。
そこから、急角度に登る階段のうえに、皇大神宮の御正宮がある。
 階段を登り切り、神主の案内で外玉垣の中へ招かれ、お祓いを受け、玉串を捧げた。
 神事のあと、御正宮域を区切る板垣の外に出、暫くの間、その周りを歩いた。
 お社の姿は、四囲を囲った塀によって被われている。
しかし、金色に彩られた皇大神宮の屋根が、常緑の古木の中に垣間見える。
 天空より、神社の屋根に、陽光がさす。
 緑の木立から、風が立つ。
 静寂のみが、そこにあった。

(了)