戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第十四回 教育

▼バックナンバー 一覧 2010 年 4 月 15 日 東郷 和彦

 実存すること、人間が、自分でしかない、全世界のなかでかけがえのない一人の人間になること、そういう話を先回の連載に書いた。
 実存の問題は、最終的に、人間個人の責任に帰着する。
 人間が、個人としての責任と自覚に到達する過程で、社会の果たす役割は不可欠だし、そこで、教育が持っている重要性については、改めて付言するまでもない。
 そして、戦後日本が失ったもの、という視点で戦後社会に目を馳せると、最大の問題の一つとして教育の問題がでてくる。もちろん、いかなる問題についても、「全否定」と言うことは、ありえない。私自身でも、先回の連載で書いたように、素晴らしい大学教育を受けさせてもらったと思う。今行われている教育の中にも、よりよい教育をしようという熱意と意欲をもって、絶え間ない努力と改善が行われているのだと思う。
 けれども、どうしても、いくつかの、根本的な問題点を提起せざるをえない。
 私自身が、日本の教育について、何か予想外の事態が起きているのではないかということを、肌身に触れて感じたのは、2004年秋から2006年夏までの二年間をすごした、プリンストン大学時代であった。
 プリンストン大学は、学生総数7000名あまりの、比較的小さな大学である。学部生のほうが多くて、約5000名、大学院生2000名あまり。しかし、教授陣の質、教育にかける情熱、学生の能力と勉強態度、どの点をとっても、世界の一流大学のひとつであることを、ひしひしと感じる毎日だった。
 わけても二年間の滞在で感嘆したのは、学部生の友情と連帯意識の強さだった。
 プリンストンは、東海岸の小さな大学町である。大学のキャンパスとその横を走る街のメーンストリートである「ナッソー・ストリート」、その反対側にひろがる瀟洒な広場やショッピングエリアと、外縁に広がる緑の中に点在する住宅以外に、何もないところである。
 学生は、全員大学内の寮に住み、勉強とクラブ活動と学内の交流活動以外は、なにもしないで、青春の時をともにする。
 そうやって、共に過ごした四年間は、大部分の卒業生にとって生涯の友情の礎になる。
 卒業生の多くは、アメリカから世界の、科学、経済、学問、政治の中核に飛び込んでいく。その中で、目に見えない、Princeton Alumniというネットワークが形成され、様々な交流と助け合いが図られる。
 五月の卒業式とあわせて行われる、卒業生の年次大会には、プリンストン・カラーの黒とオレンジ、プリンストンのマークである虎をあしらった、各年毎のデザインのブレーザーを一斉に着込んだ卒業生たちが、家族も含めて、卒業年次ごとに、キャンパスの中をパレードする。
 2004年の夏休みに、オランダはライデン大学の二年間の生活を終え、プリンストンに移った。九月の末になり、いよいよ新学期が始まった。静かだったキャンパスがにわかに活気付き、学生たちがキャンパスにあふれかえり、夜は図書館の明かりが煌々と輝くようになった。
 学生の中心は、コーカシアン、つまり、白人が多かった。しかし、それ以外は、あらゆる人種の坩堝であった。アフロ・アメリカン、つまり、黒人ももちろん歩いていた。しかし、それ以上に圧倒的に目をひいたのは、アジア人だった。その中でも、中心をなしていたのが、北東アジア系、つまり、中国、韓国、日本、モンゴル系の人たちで、彼ら同士は、一見見分けがつかないのである。
 同じアジア人といっても、インド人を中心とする南アジア人、華僑系を除く東南アジアの人々は、「北東アジア系」の人たちとは、一応の見分けがつく。
 しかし、そのうち、ぎょっとすることに気がついた。アジア人の中でも明確に多数をしめている北東アジア系の中に、日本人がいないのである。キャンパスで歩いていても、ギルバート・ロズマン教授と一緒に教え始めた「東アジア戦略論」の講義にしても、学内で話題になることにしても、ほとんどどこにも、日本人学生の影がないのである。
 圧倒的なのは、中国人の学生だった。特に、理工系の学生たちは、同じ寮に住んで共同生活の観を呈し、2005年の春には、そういう学生グループ数十名と一夕懇談する機会をもった。韓国系の学生たちも元気だった。「東アジア戦略論」の講義でも、最前列で目を光らせている韓国系の学生が数名いた。2006年の春には、全米韓国人学生協会の全国大会がプリンストンで開催された。韓国系アメリカ人と本国からの留学韓国人学生が集まって開催する全国大会である。休日をはさんだ週末、プリンストンの講堂や大教室は、各種の講演会や討論会で埋まっていた。
 日本人は、せめて、日系のアメリカ人は、どこにいるのか。
 ほとんどいないのである。
 プリンストンに来てから一年ほどして、各種のつてを探して、全プリンストン滞在の学生約10名のリストをつくって、拙宅に招待した。大部分が、大学院生だった。
 学部生は、「近衛基金」による在学生だけだった。
 「近衛基金」の話は、太平洋戦争の開始前の、日本帝国の隆盛期に遡る。
日本政界の大立者近衛文麿公の子息がプリンストン大学の学生として留学していた。プリンストンで伝わっている思い出としては、学業はトップクラスというわけではなかったが、豪放磊落、ゴルフをよくし、クラスメートの人気者となった。しかし、日米開戦とともに、日本に帰り、その後、関東軍に配属となり、終戦の際にソ連に抑留され、結局シベリアの抑留所で帰らぬ人となった。
 近衛子息の消息は、戦後しばらくの間、プリンストンの同窓生たちには知られることがなかった。けれど、大学時代特に親しくしていた人たちは、戦後消息をたったクラスメートの行方を尋ね、しばらくしてから、シベリアの地で、帰らぬ人となったことを聞き、衝撃をうけた。そこから、近衛氏を記念する基金をつくろうという運動がおき、この基金によって、プリンストンの学部生として、四年間、学費・滞在費すべてをカバーするスカラシップを継続的に日本人学生に供与することが決まり、私が滞在している間も、なかなか元気な理科系の学生が在学していた。
 そのこと自体、感動的であり、すばらしい話であった。
 だが、この基金の運営にあたっている先生から、再び、ぎょっとするような話を聞いた。年々、日本でこの基金に応募しようとする学生が減ってきており、時には、候補者を探すことが難しいというのである。
 一体日本の大学で、あるいは、高校で、何が起きているのだろう。
 台頭する中国、その横で、北東アジアの多くの問題で潤滑油的役割を果たそうとしている韓国、両国からは、あふれるエネルギーをもって、超大国米国社会の中に人脈を築き、そこを突破口として、自国と世界のリーダーたらんという若者が輩出されている。
 我が日本の教育の場から、そういう世界のトップたらんとする人材と若い頃から伍していこう覇気の影が、著しく感ぜられない。のみならず、そういう関心と気合が、年々減少しているというのである。
 日本の教育の中で、何かが決定的に、失われているのではないか。
 プリンストンの二年間、つとにそういう思いが私から離れなくなった。

 アメリカの各地で、まったく日本人学生に出会わなかったわけではない。
 プリンストンから汽車で約一時間南に下ったフィラデルフィアにあるペンシルヴァニア大学のMBA学部には、日本人の大学生・社会人から、数十名の学生が留学していた。彼らが日本に関心を持つ各国の学生を糾合し、大学に日本研究クラブを造ったのである。
 2005年の春、日本研究クラブ主催の第一回の講演会の講師として招待された。アジア系を主に、コーカサス人を加え、約二百名ほどの学生を前に、当時私にとって一番の関心事だった「日本の歴史問題」についての講演を行った。戦後日本の歴史認識について、戦争の終結、極東裁判、村山談話にいたる変化の系譜を説明し、おおむね観客の理解を得たようであった。最後に、「東条英機は日本のヒットラー」という固着歴史観を信じて疑わない中国人留学生からの質問も、アメリカ人学生の中から「ジェノサイドをやったヒットラーと、東條とは少し違いがあるのでは」という回答がよせられ、全体として、無事に終了した。
 講演のあと、日本研究クラブの主要メンバーが主催してくれた夕食会に出席した。
 東郷「どうですか。アジアからのほかの留学生とはなかよくやっていますか」
 学A「はい。普通の授業とか、クラブ活動のときはまったく問題ありません。なかよく、やっています」
 学B「ただ、今日の先生のお話のような、歴史問題に入りますと、ちょっと調子がくるってきます」
 東郷「どうしてですか。向うが感情的な議論をするからですか」
 学A「ちょっと違います。感情的というよりも、ものすごく主張がはっきりしているんですね。なぜ靖国神社に日本の総理は行くべきではないか、とか。なぜ、日本は慰安婦について、謝らねばいけないのか、とか。」
 東郷「それなら、堂々と反論するということにはならないのでしょうか」
 学B「ところがですね。そういう話になると、先ずもって、僕たち一度もまともに日本の近代史以降を、勉強したことがないんです。ですから、相手のたててくる議論で初めて聞く話が多くて、うまく反論できないんです」
 東郷「そうですか。悔しいですね」
 学C「はい。それで、小林よしのりさんの漫画をとりよせて、読むのです」
 小林よしのり氏の歴史観の適否をここで論ずる意図はない。賛成できる点もあれば、納得できない点もある。漫画という新しいコミュニケーションの手段による情報の浸透力はたいしたものがあると思う。
 しかし、日本の近現代史には、様々な見方がある。いろいろな見方を吟味し、自分なりに正しいと信ずる歴史認識に到達するのが本筋では無かろうか。中国や韓国の学生の歴史認識に反駁するために、特定の見方をうのみにすることで、よいのだろうか。
 なんといっても、問題の根本は、日本人の学生が、日本の近現代史を勉強したことがないということにある。
 確かに、いまの日本人の学生で、小学校に入り、大学を卒業し、社会に入るまで、一回も日本の近現代史を習ったことがない人が相当数いるようなのである。理由については、いろいろなことが言われてきた。

最近まで、日本史は、義務教育の必修ではなかった。
この点は、最近改められたと聞いた。しかし、日本史が必修であっても、古代から年代記風に教える日本史は、おおむね、江戸時代の終わりくらいでおわってしまい、明治以降に達しないというのである。
なぜ明治以降を教えないかということについては、諸説がある。もっともらしいのは、高校受験で近現代史が出題されないので、中学校で教えるイニシアティヴがなかったという説。
「陰謀説」めくのは、近現代史の教え方について右の教育委員会と左の日教組の間で意見が一致せず、間に入った先生方は、どう教えても、いずれかから批判されることになるので、いっそ何も教えないほうを選んでいるという説。

 いずれにせよ、日本の現代についてまったく何も知らない教養人が、堂々と社会のトップに登場する時代になったのである。
 日本に帰ってから、2008年、とあるオピニオン・リーダーたちの出席した勉強会でのことである。話が戦後の歴史教育の不在に及んだ時、NGOの活動家の方がこんな話を披露してくれた。
 時はまだ、小泉旋風で衆議院が自民党三分の二の多数を擁する時代である。
 「この前、若手のリーダーたちに歴史の現場を勉強してもらおうと思って、硫黄島に小泉チルドレンの先生方を含めて見学ツアーをアレンジしたんです。見学に入る前に現地で若干の勉強会を開いて、講師の先生が話を始めました。
 どうも、聞いている方の反応がぴんときていないみたいなんですね。
 そうしたら、小泉チルドレンの方の一人が、質問されたんです。
 『日本とアメリカは戦争したことあったんですか』」
 一同騒然となったのは、言うまでもない。
 「名前を教えろ」「そんな人を国会においておけるか」「どうやってそんな人を選んだんだ」
 しばらく、元気のよい懇談が続いたが、もちろん、なんら、事態を解決したわけではない。
 日本の教育を改善する一つの方向として、かつ、今すぐできることとして、私は、義務教育の中で、近現代史をとにかくきちんと教えてほしいと思う。
 そのさい、左右の歴史解釈をめぐる文部省と日教組の見解の差をどうするのかという問題がある。
 だが、私はこの点は、第一義的な問題ではないと考えている。日本人は、けっして馬鹿な国民ではないはずである。これだけ情報が出回っている状況で、基礎知識をしっかり身につけ、「自分で考えろ」という点を強調するなら、幅広い情報を自分で検索し、探し出し、勉強する力は、必ずあるはずである。
 なによりも基礎を教えねばならない。
 そのためには、歴史を現代から遡って教える。
 先ず現代からはじめる。
 民主党政権の下での政治・社会・経済問題をまず教えるのはいかかがだろうか。
 そして、問いかける。
―――「何故、そういう問題が生まれたのだろう?」
 そこで、自民党支配の戦後五十年の説明をする。そうすると、現代の問題が生まれてきたゆえんについての説明が必要になる。敗戦が日本に何をもたらしたか。そこからの起爆力と矛盾が、戦後の日本をつくってきた経緯が浮かび上がってくる。そこから、また過去に問いかける必要がでてくる。
―――「どこから、そういう戦後の日本が生まれたのか?」
そうして、明治から太平洋戦争までの一世紀を説明する。そこから更に過去に向って問いかける。
―――「一体どういう時代が、明治維新を、坂本龍馬を、勝海舟を、西郷隆盛を、生んだのか?」
 そこから江戸時代を説明する。
 そうやって歴史を遡る。
 今年の春からでも始めていただきたいと思うのである。
 最初は、先生方も、戸惑われるかもしれない。だが、生徒の生き生きとした関心を見れば、きっとこの方法はよいと思っていただけるのではないだろうか。

 しかし、日本の学生を引っ込み思案にして内向きにしてしまうのは、歴史問題に対する教育の欠如のせいではない。
 社会全体を、昭和の時代の発展に甘んじ、その殻を破って大きく外に向かって発展させようとするエネルギーが枯渇してきている。
 教育という場所でそれを考えるなら、もう一つ、戦後の教育の中で、決定的に欠けてきたものがあると思う。
 それは、生徒を、社会の中で自分を表現し、他と違った意見を考えさせ、それを発表させる、しかも、日本語と英語と両方で、きちんと考え発表させる、訓練である。
 日本の文化が、「沈黙は金、雄弁は銀」としていたとか、コンセンサス社会の日本にとっては周りに対し違和感のあることはしてはならないとか、KY(空気を読む)を心得ないとだめだとか、そういう何百回も言われてきた、ある意味では正しい社会分析を繰り返すことは、やめにしたい。
 しかし、自己表現の不足が、いまの日本の矛盾を極めて大きなものにしている。
 私は、1954年小学校の四年生から57年の六年生まで、父親の勤務につれられて、オランダとスイスの小学校で学んだ。52年にサンフランシスコ平和条約が発効した直後、日本人学校などまったくない時代のことである。ヘーグでは、フランス語を教えるインターナショナル・スクールに行き、そのあとジュネーブでは、フランス語の現地校に行った。
 このジュネーブの学校のカリキュラムの一つとして、「詩の暗唱」というのがあった。一番よく覚えているのが、日本でいうイソップ物語、そのなかの「狐とからす」の物語である。
  ――お人好しのからすが、おいしそうなチーズを咥えて、枝の上にとまっている。
  ずるがしこい狐がやってきて、散々お世辞を言う。
  「カラスさんの声は、すばらしく美しいのですって?」
  からすは、つい得意になって、大きな口をあけて、歌おうとする。
  「カア~~~」
 チーズは、ポトーンと落ちて、狐はさっと取って、カラスは、「アッ」と思ったけれど、もはや、後の祭りでしたとさ。
 というお話で、フランスでは、La Fontaineという詩人がこの物語を、詩にして書き、小学生の必読の文になっていた。
 この詩を全文暗記して、みんなの前で暗唱するのである。
 最初は、死ぬほど、いやだった。
 けれど、何回かクラスでやっている予備発表の段階で、けっこう声がでた。
 家でやってみて、母にひどくおだてられた。
 というわけで、最終発表日では、けっこう芝居っけを含めて、暗唱することができたのである。
 振り返ってみて、ジュネーブの学校でいやおうもなく身につけさせられた、人前にでるという習慣と、この時期に学んだ外国語としてのフランス語が、後になり、外務省での仕事をしていく上でも、人間関係の構築という意味でも、外国語の使用という意味でも、なんらかの意味をもったという気がしてならない。ジュネーブ総領事館で勤務していた方の夫人が元小学校の教員で、その先生の指導で、毎週土曜日、日本語の勉強を続けることができたのも、稀有の幸運だった。
 思えば、あらゆる意味で、恵まれた機会を与えられたのだと思う。
 しかし、自らの経験を思えばこそ、教育の中における、引っ込み思案は、必ず、打破できると思うのである。
 江戸から明治の教育の中にある、論語や漢文の音読の習慣。
 私が暗唱したLa Fontaine。
 この間には、必ず、共通性があると思う。
 鍵は、小学校の頃ではないかと思う。この間に、自然に身につく基礎的な思考力、発表力、多言語形態を、是非、教育の中にとりいれていただきたいと思うのである。

 しかしながら、多数の日本人と教育をだめにしている根本原因は、歴史教育の欠如でもなければ、小学校における暗唱と英語教育の欠如でもない。
戦後の日本人を無気力化し、受身かし、昭和の繁栄に甘んじようとするメンタリティーを醸成してきた根本原因がある。
 一言で言えば、それは、「受験体制」という名で、戦後教育界を、巨大な戦車のように押しつぶしてきた、どうにもならない、時代の潮流なのだと思う。学校と塾と文科省と親と経済界と政治とが、なにかおかしいと思いつつ、一つの連鎖が他の連鎖を生み、もはや全体として、どうにもならないところにきているように思うのである。
 私自身も、高校受験、大学受験、外務省受験と、三回の受験をへてきた。受験の中心は大学受験で、1963-64年のころだった。高度成長期の一番晴れがましい時代だった。
 私の長男が、大学受験で苦しんだのは、1990-91年だった。失われた十年、あるいは、失われた二十年が始まる平成の初めのときだった。
 そしていま、孫の世代で、小学校の受験の話が大きな話題になる時期に入ってしまった。
 あまりにも語りつくされているこの物語に、多くを付け加えることは避けたいと思う。しかし、三世代にわたって私も経験しつつあるこの問題において、何点か、確実に進行していることがあると思う。

少子高齢化で全体として生徒の数が減り、教育の現場にゆとりが生まれているはずなのに、学校教育における、無機的な競争・強圧・画一化の流れは強まっている。
トップの大学をめざす親と子の執念は、ますます激化し、学校はそれに応じて受験校化するが、それでは足りず、高度の専門性と生徒をひきつける優秀な教授陣をそろえた塾が盛栄を極めるようになった。トップの大学の受験は、年とともに、そういう特化した専門教育なしには通過できない場所になり、それを突破するための費用が急上昇し、教育における格差現象を生み始めた。
これを乗り越え、あるいはこの重圧から開放されるために、受験競争の低年齢化が進行し始めた。格差の上部では、一貫性教育や優秀小学校への関心がうまれ、小学校受験、幼稚園受験、更には、幼稚園に入るための塾の受験、といった現象を一部に引き起こしている。さる有名幼稚園塾の先生が「試験の当日には、手編みのセーターを着せるとよい」と言ったことが伝わるや、近辺の母親がいっせいに編み物塾に通い始め、編み物に関心または時間のない母親は、そういう編み物塾の先生に、自分の子供用の特注セーターを発注するという現象が、まさにいま起きているのである。自分の子供の成功に対する偏執狂的な関心を表して恥じない「モンスター・ペアレンツ」の報道も、現れて久しいものがある。
他方、金銭的に豊かでない人たちは、国公立の教育環境に子供をゆだねざるをえない。しかし、そこでは、一部の学校における、学級崩壊、先生の権威の喪失、生徒の暴力化、規律の導入に対する親の抵抗など、すさまじい事態が起きているようである。そういう事態が根本的に改善されたという話も聞かない。
受験体制がいかにいびつな人間形成を強いているか、一つだけ例をあげておきたい。カルフォルニア州サンタバーバラで2007年春に教鞭をとったとき、そこで大変世話になったH先生に一粒種のご子息K君がいた。ちょうど高校の最終学年だった。時々ご自宅にお邪魔する時にあうK君は、幼児よりバイオリンをやりオーケストラ部に入っており、テニス部の選手であり、美術クラブで絵を描き、もちろん学校の勉強にもくらいつき、彼の年代にふさわしい、すべての青春に全開の生活をしていた。そこから、カルフォルニア州バークレー校に入学し、いまは、猛烈な勉強をしながら、また大学生活をフルに楽しんでいるとのことである。文武両道、真善美と体育、人間性のすべての側面を燃焼させる、それが本来の高校、大学生活ではなかったのか。受験という一つの鋳型で練り上げられた学生たちはあまりにも気の毒であり、大学生活がもしもその反動としての遊びに埋没することになるとしたら、本人にとっても、日本にとっても、あまりにも大きな損失ではなかろうか。

 こういう状況が、どの程度教育の根幹において存在するのか、存在するとしたらどこに問題点があるのか、問題に対していかに対処すべきか。日本内部で進行している惨たる教育の状況の下で、隣国中国、韓国の学生は、大学時代から、グローバルな指導者としての果敢なネットワーク作りに全力を尽して、励んでいる。
 こんな状況でよいのだろうか。
 良くないのなら、どうしたらよいのか。
 あまりにも問題が大きすぎて、いまの私には、解がない。
 とりあえず、切実なる問題提起をするにとどめようと思う。

(了)