わき道をゆく第105回 直訴状が生まれるまで

▼バックナンバー 一覧 2016 年 11 月 11 日 魚住 昭

  西幸門前交差点は日比谷公園の角の大きな十字路だ。その近辺で115年前、田中正造(1841~1913年)の天皇直訴事件があったのをご存じだろうか。
 1901(明治34)年12月10日のことである。明治天皇臨席のもと第16回議会の開院式が、日比谷公園の斜向かいにあった議事堂で行われた。
 式が終わった午前11時すぎ、騎兵隊に守られた天皇の馬車が皇居に向け、議事堂を出立した。行列が交差点を左折する、その瞬間、人垣から黒の紋服・袴姿の、ずんぐりした男が飛び出した。正造だった。
「お願いがござりまする。お願いがござりまする」
 彼は直訴状を捧げ持っていた。騎兵がとっさに馬首を変え、正造の行く手を遮ろうとした。正造 は身をかわそうとして前につんのめった。騎兵も馬もろとも転倒した。正造は警官に取り押さえられ、天皇の馬車は何事もなかったかのように通過した。
 天皇への直訴は前代未聞の出来事だ。新聞各紙は争って号外を出し、直訴状全文を報じた。
 直訴状には、渡良瀬川流域の鉱毒の惨害が、古式に則った名文で生々しく描かれていた。
「魚族絶滅し、田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ、業に離れ飢て食なく、病て薬なく(略)壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は今や黄茅(=カヤ)白葦(=アシ)満目惨憺の荒野となれり」
 筆者は、後に大逆事件で刑死することになる幸徳秋水だ。彼は当時、都下一の部数を誇る万朝報の記者で、中江兆民門下の俊秀として知られていた 。
 その秋水の友人で、後にベストセラー作家になる毎日新聞記者の木下尚江は、直訴当日、銀座の毎日本社にいた。彼の回想によると、1人の若い記者が顔色を変えて飛び込んできた。
「今、田中正造が日比谷で直訴した」。居合わせた人々が異口同音に訊いた。「田中はどうした」。若い記者は「田中は無事だ。大勢の警官に囲まれ、警察署に連行された」と答えた。
 2カ月前、衆院議員を辞職したばかりの正造にとって、天皇直訴は最後の手段だった。
 初当選から11年、彼は国会で鉱毒問題を追及し、足尾鉱山の操業停止を求めてきたが、政府はまともに取り合わなかった。流域では失明者が急増し、乳幼児が死んだ。田畑を耕作できなくなって自殺する者も出た。
 このため流域4県の 農民は大挙上京して請願する「押出し」を繰り返し、明治33年2月には100人余が逮捕された。
 正造は日記に〈毒ニ死スルモノ千六十四人(略)此ウラミヲ晴サデ置クベキカ〉と記した。
 尚江は、そんな正造の絶望的な心境をわかったうえで直訴という手段に不快を感じた。キリスト教社会主義者の彼は、正造が天皇の権威にすがったことに反発したのである。
 やがて毎日の主筆・石川半山が議事堂から帰ってきた。式に参列したので燕尾服にシルクハット姿だった。尚江と半山は応接室のベランダで直訴の感想を語り合った。そこに直訴状の筆者は秋水という続報が届いた。
「幸徳が書くとは何事だ」と尚江は憤った。「まあ、そう怒るな」。秋水と同じ兆民門下の半山がなだめた。尚江は空 しくなって話を止め、街道を見下ろした。そのころはまだ銀座の大通りを鉄道馬車が走っていた。
「やあ」と半山が出し抜けに大声を出した。尚江が振り向くと、応接室の入口の小暗い所に秋水が立っていた。「君らに叱られにきた」と秋水は言った。
「叱るどころじゃない。よく書いてやった」と半山が応じた。
「そうかねえ」と言いながら秋水は応接室に入り、「実は、昨夜、田中が来てネ」と、ことの顛末を話しだした。
 麻布の秋水宅を訪ねてきた正造は直訴を決意するに至った、苦しい胸のうちを明かした。そして直訴状に粗漏や欠礼があってはならぬから、代わりに書いてくれと頼んだという。
「直訴状など誰だって嫌だ。けれど君、多年の苦闘に疲れ果てた、あの老体を見ては、嫌だと 言うて振り切ることができるか」
 秋水は徹夜で筆をとった。今朝、芝口の正造の宿を訪ねると、正造はすでに身支度を整えていた。秋水から直訴状を受け取ると、黙ってそれを懐の奥に入れ、用意の人力車に乗り込んだ。
「腕を組んで車に揺られて行く老人の背中を見送って、僕は無量の感慨に打たれた」と語る秋水の目に涙が光ったという。
 この時代、直訴は死ぬ覚悟なしにはできなかった。むろん秋水もただではすまない。投獄や失職の恐れもあった。リスクを承知で引き受けたのである。
 ただ、直訴前夜に突然、依頼を受けて徹夜で書き上げたというのは、おそらく秋水の虚構か、尚江の記憶ちがいだろう。
 秋水の自筆年譜には、直訴状を書いたのは明治34年11月12日と記されて いる。また、秋水の妻だった師岡千代子の回想によると、同年の「歳暮近くの或る日」、書斎で秋水と正造が話し込み、千代子は秋水の命で新橋に行き、10枚ほどの奉書を買って帰ったという。
「確かその翌日の夜になってから、それも危篤の報に依る見舞客でごつた返して居る、小石川の武島町の中江兆民先生のお宅で、私は初めて翁が足尾鑛毒事件に就いて、その日議院で直訴されたことを知り、その直訴文を秋水が書いたことを、秋水自身の口から直接聞いて知った」
 この証言と秋水の年譜が正しければ、秋水は決行のひと月前に直訴文の草稿を用意し、直訴前日に清書したのだろう。
 このころ兆民は食道がんで死の床にあり、昏睡状態に陥っていた。兆民の妻は秋水が直訴状を書いたことを知 ると「そうですか!」と言い、感極まって涙を流しながら「もし主人の意識がはっきりしていたら、そのことを聞いてどんなに喜んだでしょう」と何度も繰り返した。
 秋水の名文は人々の心を打ち、彼の文名を一気に高めた。だが、尚江も千代子も知らないところで正造の直訴を計画し、演出した影の男がいた。やはり兆民門下の石川半山である。(了)
【編集者注・これは週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です。参考・『田中正造と天皇直訴事件』(布川了著・随想舎刊)『田中正造伝 嵐に立ち向かう雄牛』(ケネス・ストロング著・川端康雄 佐野正信訳・晶文社刊)『木下尚江全集第10巻』(教文館刊)『幸徳秋水全集 別巻一』(明治文献刊)】