わき道をゆく第106回 成し遂げられなかった変革

▼バックナンバー 一覧 2016 年 12 月 9 日 魚住 昭

 幸徳秋水は大逆事件で処刑される3日前の1911(明治44)年1月21日、市ヶ谷の東京監獄から北京滞在中の石川半山あてに手紙を書いている。
 半山は秋水と同じ故・中江兆民の門下生だった。しかも、前回ふれたように、田中正造の天皇直訴事件(1901年)の影のプロデューサー役をつとめた男である。秋水はその半山にこう語りかけている。
〈兄の手紙うれしかった。夢物語は奇抜だ。兆民先生在さばアンナことをいふかもしれぬ。併し人間誰でも一度は死ぬんだ。死ということは問題ではないよ〉
 夢物語は、半山が秋水のために書き送った架空の物語だ。夢の中で亡き兆民に会い、秋水のことを相談したら、兆民はこう言った…という展開らしいのだ が、当 の書簡が残っていないのでそれ以上はわからない。
 秋水の手紙はさらにつづく。
〈問題は唯だ日本におれのやうな極重悪人が現出したといふことにある。おれは唯だ此問題を提供しただけで満足だ。○顧みて四十年の生涯、甚だ幸福で甚だ愉快であった。そして最早親もなし、子もなし、財産もなし。洵とに身軽に感じている。○君と年十九歳、初めて兆民先生の玄関で邂逅してから、常に君の厄介にばかりなった。君はおれに取て真に得難き益友、知己の一人であった。息のある中に深く感謝して置く〉
 友情の厚さをうかがわせる文章だ。2人の出会いは1889(明治22)年に遡る。自由民権運動を弾圧するための保安条例公布で東京を追放された兆民は大阪・曾根崎に居を構え、秋水が玄関番を つとめていた。
 郷里の岡山から大阪に出てきた半山が兆民宅を訪ねると、秋水が家の前の小川で洗濯していた。それから2人は親しくなり、時勢を論じ合う仲になった。
 秋水はその後、東京の中央新聞記者をへて都下随一の部数を誇る万朝報に入社。舌鋒鋭く藩閥政府を批判する名文記者として注目を浴びるようになる。
 一方、半山も秋水と同じ中央新聞の記者をへて毎日新聞の主筆となり、「当世人物評」の連載で好評を博していた。ハイカラ(=当初の意味は西洋かぶれ)という言葉を唱えて流行語にしたのは半山である。
 秋水と半山が記者として成長していく過程は、足尾鉱毒事件が深刻化する時期とぴったり重なる。もともと2人は1901(明治34)年の天皇直訴事件で各々の役割を 果たすべく運命づけられていたのかもしれない。
 事件が起きる半年前の半山を動きを見てみよう。以下は、東大法学部にある「半山日記」の明治34年6月8日の分を私が意訳したものである。
〈新橋より人力車で帰宅の途につく。橋の畔で田中正造に会う。田中は人力車の上から頻りに語る。彼の車は常雇いだが、僕のは辻で拾った車だから長話はできない。切り上げようとしたが、田中は天を仰いで頻りに語る。
「面白いことがないので気分がクサクサする。よければどこかで話しませんか」と言うので車を連ねて麻布の拙宅に帰った。
 夕食をとりながら田中が(政府が設置を決めた鉱毒)調査会のことを語りだしたので僕は冷然と言った。「鉱毒問題を解決するのに調査会は役立たぬ。平和的手 段は君の柄ではない。10年も平和的手段をとってなお解決できないではないか。今は唯一の策あるのみ。ただ君がこれを実行しないのが残念だ」
 田中「その策とは?」僕「容易に語れない」田中「謹んで教えを受けたい」僕「君が実行するというのなら言おう。君はただ佐倉宗五郎たるのみ」。田中は決起断行を誓った。僕はすぐその方略を彼に授けた〉
 佐倉宗五郎は江戸時代、将軍に直訴して妻子もろとも刑死したという伝説の義人だ。鉱毒問題を解決するには、正造が死を覚悟して天皇に直訴するしかないと半山は言ったのだった。
 2日後の6月10日の半山日記には〈朝幸徳を訪ふて田中正造ノ件を協議す。相携へて出社す〉と書かれている。〈幸徳を田中氏に紹介したるも余なり〉という半 山の覚え書きも残っている。直訴状の書き手として秋水を正造に推薦したのも半山とみて間違いないだろう。
 同年10月23日、正造は衆院議員の辞職願いを出した。直訴を視野にいれた予定の行動だったろう。チャンスは天皇が議会に姿を見せる開院式しかない。
 そのとき正造が天皇に駆け寄れば、護衛兵に殺されるかもしれない。しかし、直訴状の中身を新聞各紙が報じれば、世論の同情は正造に集まり、政府は鉱毒防止の抜本対策をとらざるを得なくなる。半山はそんなシナリオを描いていたらしい。
 布川了著『田中正造と天皇直訴事件』(随想舎)によると、半山は直訴に向けた世論形成も怠らなかった。毎日新聞の女性記者を現地に派遣し、鉱毒の惨害を訴える長期連載を始めた。連日一面 を飾る毎日のキャンペーンが、鉱毒問題への人々の関心を急速に高めていった。
 が、12月10日の直訴当日、意外なことが起きた。正造は無傷で取り押さえられ、罪にも問われず、夜には定宿の越中屋に戻された。その日の半山日記も意訳して紹介しよう。
〈田中が僕の案を実行した。秋水が(毎日新聞に)来て密議した。夜、田中放免の知らせが入る。すぐ越中屋に行き面会した。僕「失敗だ。失敗だ。一太刀受けるか、殺されなければものにならん」田中「弱りました」。僕は田中を慰めるため「やらぬよりはよろしい」と言った〉
 正造の直訴は社会に大きなインパクトを与えた。足尾鉱毒事件の解決を求める世論は一気に高まり、被害地支援の輪は急速に広まった。当時、学生だった河上肇(経 済学者)は被害地救援のための演説会で感激し、その場で外套、羽織、襟巻きを脱いで寄付したほどだった。
 その意味で正造と半山・秋水の目論見は成功した言っていいだろう。だが、日本の工業化を至上命題とする政府はまともに取り合わなかった。世論の沸騰はやがて覚め、日露開戦の熱狂の中に埋没していく。(了)
(編集者注・これは週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です)