わき道をゆく第109回 忘れられた熊本の近代

▼バックナンバー 一覧 2017 年 2 月 10 日 魚住 昭

 こんなに穏やかで澄んだ海を見たのはいつ以来だろう。
 そう思いながら、私は岸壁の車止めに腰を掛け、疲れた足を休ませていた。水俣の市街地から広大な埋め立て地を回り、この湯堂湾に着くまで何時間も歩きっぱなしだったからだ。
 そろそろ体力の限界だ。不知火海に赤い夕日が落ちる。目の前の水面でボラがぽちゃんと跳ねた。宿に帰ろう。明日もまた歩き回らなければならない。
 熊本への里帰りで東京を発つ前、私は小さなリュックに読みさしの『新装版 苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子著・講談社文庫)を放り込んでいた。
『 苦海浄土』は数十年ぶりに読むのだが、やはり不朽の名作である。小説であれ、ノンフィクションであれ、これを凌駕する作品 を私はあまり知らない。
 その『苦海浄土』はこの湯堂湾の情景描写から始まる。
〈年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで、湯堂部落がある。
 湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。
 夏は、そんな子どもたちのあげる声が、蜜柑畑や、夾竹桃や、ぐるぐるの瘤をもった大きな櫨の木や、石垣の間をのぼって、家々にきこえてくる〉
 そして、湯堂に住む水俣病の少年九平が登場する。九平は不自由な手で棒切れを握る。目が見えぬのに石を拾って空中に放り投げ、それを棒切れで叩こうとす る。野球のけいこのつもりだが、むろんかすりもしない。
 漁師だった父は昭和35(1960)年、風邪がもとで死んだ。姉はその4年前に水俣病で死んだ。家にはもう漁労生活の中身を示す物は何一つない。かつて網や魚籠を干していた前庭はだだっ広いだけだった。
 九平はラジオ、とくに野球中継が好きだ。よそから患者の視察や見舞いに来たりすると、彼はラジオの前にガンと座って振り向かない。市の衛生課員が集団検診を受けるよう説得しても動こうとしない。
 母親が代わって「ほんなこてすみません。何べんも来てもろうて」と課員に謝り、「この世でああた、ラジオいっちょが楽しみですけん」と言う。
 つづけて母親と課員との間でこんな会話が交わされる。
〈「柴田ちゅうの がおるそうですなあ、足の早かそうばい。柴田が走ったちゅうて、喜びよっとですがな。野球いっちょがたのしみで、ああた」
「はあ、柴田。あいつは早かですもんなあ、鹿のごて走るそうですたい。九平しゃん、長島はどうや」〉
 この会話は私の半世紀前の記憶を一気に呼びさます。私も巨人軍の柴田勲選手のプレーに熱狂していた。同じ時に同じ海を見て少年時代をすごした。ちがうのは九平が湯堂に生まれて水俣病を発症し、私が約40㎞北東の鏡町(現八代市)に生まれて水俣病にかからなかったことだ。
 水俣病とはどんな病気か。私は、ついさっき、埋め立て地の突端にある水俣病資料館で映像を見てきたばかりだった。
 猫がピョンピョン跳ねて狂い死にする。患者が物凄い速さで手足を バ タつかせる。九平の姉の最期を看取った母の言葉を借りれば「ギリギり舞うとですばい。寝台の上で。手と足で天ばつかんで。背中で舞いますと。これが自分が産んだ娘じゃろかと思うようになりました。犬か猫の死にぎわのごたった」。
 市街地で私は国道3号沿いのチッソ水俣工場(現JNC)を見た。驚いたのは水俣駅の正面とチッソ正門が国道をはさんで向かい合っていたことだ。
 百数十㍍の長さの一本道でつながっている。水俣では国道も鉄道もチッソのために存在するかのようだ。それは東京駅と皇居の関係によく似ている。日産の鮎川義介、理研の大河内正敏らと並び称される新興コンツェルン・チッソの指導者・野口遵(1873~1944年)は水俣の天皇だったのだろうか。
 水俣に は日本の近代が凝縮されている。水俣の豪農・徳富淇水は、幕末の先駆的思想家・横井小楠(肥後藩士ながら、越前福井藩主・松平春嶽のブレーンだった)の一番弟子であり、最大のスポンサーだった。
 同じく益城町(熊本市東方)の豪農で、小楠の高弟だった矢島直方の妹・久子が淇水のもとに嫁いだ。そして2人の間に生まれたのが、後に言論界の「大東亜戦争の指導者」となる蘇峰と、『不如帰』でベストセラー作家になる蘆花の兄弟だ。
 ついでに述べると、矢島家三女・竹崎順子は後に熊本女学校を創設し、五女・つせ子は小楠の妻になり、六女・楫子は日本基督教婦人矯風会と女子学院の創立者となる。小楠を軸にした水俣―益城の豪農2家は、綺羅星のような人材を輩出したのである。
 だ から水俣の人々の心の中には、蘇峰ら明治日本のリーダーたちを生み、チッソ・コンツェルンを守り育ててきたのだという誇りも眠っているらしい。
 石牟礼さんも〈いまなお水俣村桃源郷世代のエリートたちが「蘇峰サン、蘆花サン、順子サン(竹崎順子)」と実に気易げに日常呼びならべる歴史的人物名の中に「ジュンサンが―」とひときわまなこほそめて、馴れ親しむ語調に語るのは、野口遵氏のことなの〉だと書いている。
 チッソ正門の近くに百間排水口があった。工場で生じた有機水銀は昭和7(1932)年から、ここを通じて水俣湾に流された。昭和31(1956)年に水俣病が確認され、その原因として工場排水が疑われるようになっても昭和43(1968)年まで 排水は停止されなかった。日本の高度成長はそのようにして達成されたのである。
 実は、大正2(1913)年、私の故郷・鏡町にもチッソの最新鋭工場が作られた。第二の水俣になりえたのである。が、野口は十数年後に鏡工場を手放す。水俣と鏡町の運命を分けたもの。それは何だったのか。(了)
(編集者注・これは週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です)