わき道をゆく第110回 故郷と水俣、岐路の痕跡

▼バックナンバー 一覧 2017 年 3 月 3 日 魚住 昭

 幼いころ、駅から海のほうに伸びる、草ぼうぼうの引き込み線で遊んだ記憶がある。さびたレールの突き当たりには、たしか煉瓦壁の工場跡があった。
 大正期、私の故郷である熊本県・鏡町(熊本市から約30㎞南)にチッソの最新鋭工場があった、と前号で書いた。
 実は、熊本の地震で里帰りするまで私はそのことを知らなかった。引き込み線や工場跡のこともすっかり忘れていた。
 水俣の街を歩き、チッソの歴史を調べるうちに鏡工場のことを知った。引き込み線や工 場跡の記憶もだんだんよみがえってきた。そうか、あれがチ ッソの栄華の名残りだったか。
 大正8(1919)年のチッソ鏡工場と水俣工場の年間生産能力を示すデータがあった。
[鏡工場]カーバイド45000㌧、石灰窒素55000㌧、硫安50000㌧……。
[水俣工場]カーバイド40000㌧、石灰窒素50000㌧、硫安40000㌧……。
 どれも鏡が水俣を上回っている。それもそのはずだ。カーバイド―石灰窒素―硫安の一貫製造工程を日本で初めて確立したのが鏡工場だった。往時の鏡工場はチッソ王国のど真ん中を占めていたのである。
 その前後の経緯をざっとご説明しておこう。チッソの創業者で、後の旭化成や積水化学の生みの親でもある野口遵は、東大電気科出身の技術者だった。
 彼は鹿児島の鉱山師から「地元・鹿児島の 金山を発掘 するのに電気がほしい。そばに『曾木の滝』があるので(高低差を利用して)水力発電所を作ってもらえないか」と相談を持ち掛けられた。
 野口はその話に乗った。飲み仲間から資金を集めて、明治40(1907)年、曾木に発電所を完成させる一方、余った電力を利用してカーバイドの大量生産に乗り出すことにした。
 カーバイド工場の候補地として最初に挙がったのが、水俣の北方に位置する葦北郡佐敷である。佐敷には原料の石灰岩があり、船着き場もあった。
 だが、地元から「そんな工場ができたら賃金が高くなって困る」と反対の声があがり、なかなか交渉がまとまらなかった。
 次に水俣より送電距離が8㎞ほど短い鹿児島県・米ノ津が候補となり、ここにほぼ決まりかけた。ところ が、それから水俣が工場誘致に乗り出し、野口に破格の条件を提示した。
 ①水俣が米ノ津より遠いなら、その間の電線と電柱は寄付する。②港も米ノ津以上に改築する。③工場敷地は普通の売買より高くならないようにし、もし高くなったら水俣側が負担する。
 当時の水俣は人口約15000人の村だった。江戸時代から塩の産地として知られたが、明治38(1905)年の塩専売制移行で水俣の塩田は消滅した。
 その後、鹿児島の金山への石炭輸送の中継地として一時息を吹き返したが、それも曾木発電所の出現で衰え、村の経済は行き詰まっていた。だから水俣の人々は、野口の電気化学工業に村の再生をかけたのである。
 水俣はもともと知の先進地帯だった。石牟礼道子さんは『苦海浄土 』に〈明治世代にいわせれば、東京、博多、熊本などと下ってくる中央文化のお下がりよりも、直接的に島原長崎を通じ、古えより支那大陸南方および南蛮文化の影響を受けた土地柄である〉と書いている。
 だからこそ徳富蘇峰・蘆花の兄弟が生まれ、野口という天才起業家が飛躍する場所にもなったのだろう。新たな産業を創出しようとした水俣の人々の判断は決して間違っていない。
 破格の条件提示が決定打になり、明治41(1908)年、水俣にカーバイド工場が誕生した。翌年、野口はドイツの技術でカーバイドから石灰窒素を作る工場を水俣に新設した。
 さらにその4年後、野口は水俣から四十数㎞北東の鏡町に最新鋭の化学肥料製造工場を作った。鏡町は八代港に近く、石灰岩にも恵ま れていたからだ。
『鏡町区郷土誌』によるとチッソの進出で鏡町には飲食店や劇場が次々とできた。折からの第一次大戦による好景気も重なって〈社員の生活は豊かで派手になり(中略)町費の2/3は工場で負担することで、住民の負担は軽くなり、他の町村から羨ましがられる程の発展と、繁栄を見るに至った〉という。
 町の人口も明治末の4000人弱から10年間で2倍の8000人以上に膨れた。鏡工場の古い職員が誰もかれも金時計に金鎖をぶらさげて歩いた、と言われるほど景気が良かった。
 ところが大正末、野口は突然、鏡工場を手放す。その背景にはイタリア式硫安製造法の導入で鏡工場の設備が古くなったことや、宮崎県延岡市での新工場建設が進んだことがあった。
 だが、裏 の 事情はもっと複雑で、鏡工場から排出される汚染水や煙をめぐって「農漁村の住民と被害問題で紛糾した」ためともいわれている。そのうえ鏡工場の労使関係も安定したものではなかったようだ。
 大正7(1918)年のことだが、米騒動が九州の片田舎に波及し、鏡工場でも賃上げ要求からストに発展した。工員たちは「要求が入れられなければ工場を爆破する」と言った。
 野口は「クセになるから絶対に応じるな」と指示したが、町長から「工員らは抜刀して町内を練り歩いている。ここは何とか解決してもらえないか」と頼み込まれて折れたという。
 大正15(1926)年、野口は鏡工場の石灰窒素製造設備を新潟県に移した。残りの設備も他社に売った。鏡工場の操業は一応つづいたが、往 年の賑わいは戻らず、『鏡町区郷土誌』は「日窒(=チッソ)によってもたらされた鏡町の繁栄は、日窒の移転とともに遠ざかって行った」と記している。
 それとは対照的に、水俣はチッソ城下町としてその後も繁栄した。両者の運命の分岐点になったのは、地元の人々の時代の先を見る目の確かさだろう。
 しかし、その結果が、水俣病という世界でも類例のない産業公害の悲劇を生んだ。そうだとしたら、あまりにも悲しい。(了)
(編集者注・これは週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です。参考・『野口遵』(吉岡喜一著・フジ・インターナショナル・コンサルタント出版部発行)