叛民伝第1部 風々雨々 

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 16 日 魚住 昭

    プロローグ

 幸徳秋水が東京監獄の絞首台で絶命したのは明治四十四年(一九一一年)一月二四日午前八時六分だった。
 それから四、五〇分おきに秋水の仲間らが一人ずつ処刑された。十一番目の、この日最後の処刑者となる古河力作が息絶えたのは同日午後三時五八分だった。
 大審院(今の最高裁)で死刑判決があってから六日後のことである。この日、東京の新聞各社は一斉に号外を発行した。
 当時、朝日新聞の校正係をしていた二十五歳の石川啄木は日記にこう記した。
「社へ行ってすぐ『今朝から死刑をやってる』と聞いた。幸徳以下十一名のことである。あゝ、何といふ早いことだらう。さう皆が語り合った。(中略)夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである」
 大逆事件では全国の社会主義主義者ら百人以上が検挙され、二十六人が起訴された。大審院で非公開の審理が行われ、秋水ら二十四人に死刑が宣告された。しかしその翌日、天皇の名による特赦が行われ、二十四人のなかで比較的罪状が軽いとされる十二人が死一等を減じられて無期懲役となった。
 啄木が「事件の経過を書き記す」作業を終えた、ちょうどそのころ、幸徳秋水の親友だった堺利彦は大杉栄、石川三四郎の二人とともに信濃町停車場で電車を降りた。
 暗くて人気のない停車場のそばに交番がぽつんと立っていた。酒に酔った堺は、その交番横の暗がりでペッペッと唾を吐いた。
 交番に唾なぞ吐きかけて、と石川三四郎が気をつけて見ていると、堺の足下から白い煙が上がった。小便をしているのである。
 交番の若い巡査はそれに気がついたらしく目を光らせたが、堺らを尾行してきた三人の刑事が何か耳打ちしたため、あちらを向いて知らん顔をした。
 交番の横から、道路工事中を示す、赤いカンテラが二、三間の間隔をおいて三つ四つ並べてあった。それに沿ってしばらく歩いたところに堺の家がある。
 三人は何やら話しながら歩を進めていたが、たちまちガチャーンと激しい音を立ててカンテラのガラスが割れた。堺のステッキの仕業だった。
 誰も何も言わなかった。宇宙のまっただ中にいるような沈黙があたりを閉ざした。
 二番目のカンテラのところに差し掛かると、
「ちぇっ!」
 という叫びが堺の口からほとばしり、二番目のカンテラがガチャンと倒れた。今度は堺の足の仕業だった。
 三四郎はカンテラの石油が流れて火がつきはしないかと心配したが、ひっくり返ると同時にカンテラの灯は消えた。
 尾行の刑事が三四郎のそばに来て、
「どうか堺さんを、お家まで送ってください」
 と哀願した。刑事たちは殺気だった堺の様子を見て、この場は無事にすますしかないと考えたらしい。
 翌二五日午前八時すぎ、秋水の内妻だった管野すがの死刑が執行された。すがの絶命時刻は八時二八分と記録されている。
 これで天皇や皇太子の暗殺を企てたとされる逆徒十二人の処刑がすべて終わった。

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第2回:秋水の手紙