叛民伝第2回:秋水の手紙 

▼バックナンバー 一覧 2009 年 5 月 14 日 魚住 昭

「二年目に君に書く。嬉しくて堪らぬ。尚ほ接見禁止中だけれど緊要の件で特に願ったのだ」
 これは幸徳秋水が処刑される二カ月半前の明治四十三年(一九一〇年)十一月八日、獄中から盟友の堺利彦にあてた手紙の書き出しである。
 秋水が検挙された同年六月、堺はまだ赤旗事件(明治四十一年に起きた警官隊との乱闘事件)のため重禁固二年の服役中で、この年九月に出獄したばかりだった。
「六月入獄の際は家はなし、君も居ないし、差入や何かの処分で大に不自由を感じ、結局お千代に上京して貰って用を頼んでいた。(彼女の生活費は引き続き僕から送ってある)ところが数日前突然万事の世話を断つてきた。別に事情を聞く必要もない。君もモウ帰って居るから私用を総て君に願ひたいと思って発信する」
「お千代」とは十年連れ添った前妻・師岡千代子のことである。彼女は明治四十二年に秋水と離婚し、大阪に移り住んでいた。
 堺にあてた秋水の手紙はつづく。
「君の目下の境遇も一向分らず嘸(さ)ぞ迷惑だらうと察しるけれど、迷惑なこと丈(だ)ケ余人ではダメだ。僕の一身と周囲とを知り抜てる君の一家に骨拾ひの役を勤めて貰はねばならぬ」
 文中の「骨拾ひ」という言葉で分かるとおり、秋水は大逆事件の審理(十二月十日〜同月二十九日)が大審院で始まる前から死刑を覚悟していた。
 自分は遠からず処刑される。それはそれで運命として受け入れよう。だが、どうにも気にかかるのは郷里の高知県幡多郡中村町(現四万十市)にいる老母・多治子の身の上だ。
 秋水は二歳で父を亡くし、母の手一つで育てられてきたから、母への思いも人一倍深かった。獄中から発信を許されて堺に真っ先に頼んだのも、その母のことである。
「僕のために国許(もと)の老母に端書でも時々消息してくれ玉へ。そして老母の方で何か急用か変事でもあった節は君が取次て知らしてくれる途を開て置てくれ玉へ」
 この堺への書簡から二日後、秋水は母あてに発信した。これほど切ない文章もないだろうから、全文を引用しておく。
 あらかじめ断っておくが、末尾の傳次郎とあるのは秋水の本名である。
 
 今日から面会も手紙を出すことも出来るやうになりましたから差上げます。
△まことに此度はトンだことで一方ならぬ御心配を相かけました。不孝のつみ何ともおわびの申やうも御座いません。何事も私のおろかなる故と御ゆるしを願ひあげます。
△御からだはいかがですか。私は先々月すこし持病の腸を煩ひましたが、此せつは全くようなりました。あたたかく着て、おいしくたべて、好きな本を読んだり詩を作ったりして居ますから御気遣ひないやうに願ひます。
△人間のことはわかりません。又よいこともまいりましやうからなるべくからだを大切にして御待ち下さいまし。
△お千代も全く世話が出来ないと申して来ましたが、是もかくあるべき成行です。私のことは堺や加藤や小泉や田岡などの友人も居りますから万事世話してくれやうと思ひます。私の様子は是から堺か加藤あたりへ御聞合せを願ひます。
△駒太郎殿(秋水の義兄)へは別に手紙かきましたが猶よろしくお伝へ下さいませ。
△コンナ詩が出来ました。友衛(親類の医師・小野友衛)にでもよませて御聞き下さいませ。
鳩鳥喚晴煙樹昏 (鳩鳥晴をよんで烟樹くらし)
愁聴点滴欲消魂 (愁い聴く点滴魂を消さんと欲す)
風々雨々家山夕 (風々雨々家山の夕)  
七十阿嬢泣倚門 (七十の阿嬢泣いて門による)
△手紙は未決の間は東京市ヶ谷、東京監獄で私あてで届きます。あたりまへのことだけ書けばゆるされます。
   十一月十日
             傳次郎
     母上様

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