叛民伝第2回:秋水の手紙
●最後の面会
文中の漢詩は、詩人・秋水の畢生の傑作と言うべきものだろう。
……鳩が雨に煙る木陰で晴れをよんで鳴いている。愁い聴く雨垂れの音で私の魂は消されてしまいそうだ。風につけ雨につけ故郷の夕が思い出される。七十歳の老母は泣きながら私の帰りを待っているだろう………
秋水が検挙されて以来、多治子は四万十川のほとりにある中村町の自宅にこもって一歩も外に出ようとしなかった。
家の中にばかりいると体に悪いからと、親類が遊びに来るよう勧めても、
「あれ見よ、光秀の母が通りよると町の人たちが後ろ指をさすじゃろう。お日さんに恥ずかしうて外へよう出ん」
といって断った。
彼女は自らの立場を主殺しの大罪人・明智光秀の母と同じに考えていたのである。
それでも親類の医師・小野友衛が秋水の手紙を開き、
「あの門に出て待っちょるろう、ということよ」
と、漢詩を訳して聞かせると、胸中の思いを抑えきれなくなったらしい。突然、
「傳次郎に会いに、東京へいく」
と言い出した。
十一月下旬の寒い日、多治子は綿入れの上に黒羽二重の綿入り被布を着込み、見送りの人々に向かって、
「行ってくるぜ」
と機嫌良さそうに出立した。同行したのは義理の息子の駒太郎である。
四万十川の土手道を人力車に揺られ、河口の下田港で小さな汽船に乗り、さらに高知港で関西汽船に乗り換えた。
そこから室戸岬沖の波の荒い外洋を巡って神戸港に着いた。神戸から新橋までは東海道線で十数時間もかかる。半年の家ごもりで体力の衰えた老人には苛酷な旅である。
十一月二十六日、多治子と駒太郎は新橋駅に着いた。堺利彦の出迎えを受け、翌日、堺の案内で東京監獄の門をくぐった。
典獄(所長)の木名瀬礼助は、親子の情に心を動かされたらしい。特別に典獄室で面会できるよう便宜をはかってくれた。
二年半ぶりに対面した母子がどんな会話を交わしたのか。詳しい記録は残っていない。
ただ、多治子はわが子の前でついに一滴の涙も落とさなかった。
別れ際に秋水が、
「もうお目にかかれぬかもしれません」
と言うと、
「私もそう思ってきたのだよ」
と答えた。
「どうかお体を御大切に」
という秋水に、多治子は、
「お前もしっかりしておいで」
と言い残して、典獄室を出た。
●臨終
面会の翌日、多治子は東京を発ち、土佐の中村町に戻った。出迎えの親類たちに、
「傳次は機嫌ように可愛らしうにしちょったけんのう、あねいにしちょったら誰も憎むものはないじゃろ」
と笑顔を見せた後でしみじみと言った。
「別れるとき、お母さん、もう会えんかもしれませんよ、と言うたよ」
約一週間後の十二月六日、在京の親族にあてた手紙のなかではこう語っている。
「いつものとふり傳次郎はにこにこしてかわいいかおして出てきたかおが私にはいまにもめの先にちらついてやつぱりみえておりますよ。よるねてもやつぱり見えるよふでね。いておふて(行って、会って)きていいあんばいでした」
同じ日、秋水は堺にあててこう書いた。
「僕の母は少しエライ処があるやうだがドウして僕のやうな豚児が出来たらう。馬鹿な子程可愛いゝといふから、涙は出さないで居ても余程こたへて居るに違いない。帰国してからキツト病気が出て居るだらうと案じられる。何しろ七十だからね。兎に角幾年か母の寿命を縮めたかと思ふと少なからぬ心の痛みを感じる」
秋水がいる三畳の独房は、前後左右を五寸角の柱十四本に囲まれていた。どれも枝を切り落とした節あとだらけである。
秋水があぐらをかいてボンヤリしていると、この柱がかつて枝を差し交わし、葉を生い茂らせていたころのことがありありと目に浮かんで、自分が深い森のなかにいるような気がしてくる。この植物も、どういう因縁からか、優美な宮殿の梁や柱とならずに、暗くて陰惨な監房の柱となって朽ちていく。
「こんなことを考へてると獄中も山中も殆と(ほとんど)何の異なるなし。樹下石上より今のほうが畳のあるだけ少し楽だ」
堺あての手紙のなかに記された、母は「キツト病気」になるという秋水の予測はあたった。多治子は帰郷から三週間後の十二月二十日すぎ、病の床に伏した。
医師の安岡友衛の診断によると急性肺炎だった。友衛の懸命の治療にもかかわらず、彼女の容態は悪化した。
そのころちょうど東京から秋水の写真が送られてきたが、病床の彼女は、
「傳次さんのほんものの顔を見ちょるけん」
といって振り向こうともしなかった。
二十七日午後には危篤状態に陥った。それでも彼女が、
「髪が乱れちょるけん、結うておくれや」
と言うので、秋水の次姉・牧が多治子の髪をといた。二人の姪は多治子の足のほうに回って片足ずつ撫でつづけた。
夜に入ると、多治子は駒太郎に、
「お前はせきをするのう、風邪ひいたらいかんぜ」
と注意し、義妹には、
「お前はいなにゃいかんぜ。風邪ひいちょるけん。夜がふけて悪うなったらどうもならんけん」
と言った。
多治子が息を引き取ったのは、それから数時間後の二十八日午前三時だった。
秋水はその日の正午すぎ、大審院の法廷で弁護人の花井卓蔵と今村力三郎から母の訃報を知らされた。
「まことにお気の毒ですが、お母さんが亡くなられたそうだ」
秋水の前妻・千代子と堺は審理が終わった後、東京監獄に秋水を訪ねた。
堺が哀悼の言葉を述べると、秋水は寂しく微笑みながら、
「ありがとう!」
と丁寧に頭を下げた。
監獄の門を出て、堺はそっと涙をぬぐい、胸の思いを一気に吐き出した。
「一生のうちで今日ほどつらい思いをしたことはない!」
そして千代子にこうつぶやいた。
「いいお母さんだった。今ごろは秋水も一人で泣いているだろう」







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