叛民伝第2回:秋水の手紙
●不孝の罪
それから四日後、秋水は堺にあてて次のような手紙を書いた。
愈々(いよいよ)四十四年の一月一日だ。鉄格子を見上げると青い空が見える。天気が好いので世間はさぞ賑かだらう。火の気のない監房は依然として陰気だ。畳も衣服も鉄の如く凍つて居る。毛布を膝に巻て蹲り、今は世に亡き母を懐ふ。
▲母の死は僕に取ては寧ろ意外ではなかつた。意外でないだけに猶ほ苦しい。去(さる)十一月末、君が伴ふて面会に来た時に、思ふ儘に泣きもし語りもしてくれたなら左程にも無つたらうが、一滴の涙も落さぬ迄に耐えて居た辛さは、非常に骨身に徹えたに違ひない。イクラ気丈でも帰国すれば屹度(きっと)重病になるだらうと察して、日夜に案じて居たのは先頃申上げた通りだ。
▲廿八日の正午の休憩時間に法廷の片隅で花井君や今村君が気の毒さうな顔して、告げしらせてくれた時は、扨(さて)こそと思つたきりで、ドンナ返事をしたか覚えぬ位だ。さぞ見苦しかつたであらう。仮監へ降りて来て弁当箱を取上げると、急に胸が迫つて来て数滴の熱涙が粥の上に落ちた。僕は始終粥ばかり食てる。
▲君も知てる通り、最後の別れの折に、モウお目にかゝれぬかも知れませんと僕が言ふと、私もさう思つて来たのだよと答えた。ドウかおからだを御大切にといふと、お前もシツカリしてお出で、と言い捨てゝ立去られた音容が、今もアリ/\と目に浮んで来る。考へて居ると涙が止らぬ。
▲其後僕が余り気遣ふもんだから、いつも健康だ/\と言て来た。訃報の来る二三日前に受け取た手紙も、代筆ではあつたが「お前の先途を見届けぬ中は病気なぞにはならぬから、ソンナことを心配せずと本を読たり詩を作つたりして楽しんで居なさい」と書てあつた。僕もマー病気も出なかつたかと喜んで居た時だから、若しや又自殺ではないかといふ疑ひがムラムラと起つたのだ。
▲僕が日糖事件(前年に摘発された政界汚職)のやうなことで入獄したなら、仮令(たとえ)軽罪でも、母は直ぐ自殺したかも知れぬ。今度の大罪も無論非常の苦痛を感じたであらうが、併(しか)し是は僕の迂愚から起つたことで、一点私利私欲に出なかつたことだけは、母も諒してアキラメてくれたらうと思ふ。単に之を恥ちたとか悲観したかで自殺することのないのは、僕は、よく知て居る。
▲万々一ホントに自殺したのなら、其理由は一つある。即ち僕をしてセメてもの最期を潔くせしめたい。生残る母に心をひかされて女々しく未練らしい態度に出でないやうにとの慈愛の極に外ならないのだ。此理由に於ては或は刃に伏すことも薬を仰ぐことも為しかねない気質であつた。
▲母の生家は郷士だか庄屋だかの家で、其父即ち僕の外祖父は可なり学問のある医師であつた。十七にして僕の家に嫁し、三十三歳にして寡婦となり、残された十三と五つの女の子、七つと二つの男の子の、四人の可憐な者の為めに、固く再蘸の勧めを拒んで、四十年間犠牲の生涯を送ったのだといふ。其時の二歳の子が即ち天下第一の不孝の兒たる僕なのだ。
▲アゝ何事も運命なのだ。悔て及ばぬことに心を苦しめ身体を損ふのは、最後まで僕をアベコベに慰め励ましてくれた母の志にも背くのだから、力めて忘れやう/\として居る。が語るに友なき獄窓の下にボツ然として居る身には、兎もすれば胸を衝て来る。我れながら弱い男だ。詩が一つ出来た。
辛亥(?)歳朝偶成
獄裡泣居先妣喪 (獄裡に泣居して妣の喪をきく)
何知四海入新陽 (何んぞ四海の新陽に入るを知らん)
昨宵蕎麦今朝餅 (昨宵の蕎麦 今朝の餅)
添得罪人愁緒長 (添え得たり罪人の愁い長きを)
大晦日には蕎麦、今朝は餅をくれたのだ。丸で狂詩のやうだけれど実境だから仕方がない。
▲長々と愚痴ばかり並べて済まなかつた。許してくれ。モウ浮世に心残りは微塵もない。不孝の罪だけで僕は万死に値ひするのだ。
一月一日
秋水
堺賢兄 (第二回了)
〔参考・引用文献〕『実録 幸徳秋水』(神崎清著・読売新聞社刊)、『日本文壇史』(伊藤整著・講談社文芸文庫)、『幸徳秋水全集』(明治文献刊)、『大逆事件の全体像』(中村文雄著・三一書房刊)、『幸徳秋水と小泉三申—叛骨の友情譜』(鍋島高明著・高知新聞刊)
この作品は講談社と同社の鈴木崇之さんの全面協力によって連載されています。







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