叛民伝第3回:2 故郷

▼バックナンバー 一覧 2009 年 10 月 14 日 魚住 昭

 幸徳秋水の母と子の物語を書きながら、私は故郷の熊本にいる母親のことを思った。
 母は二年前に急性膵炎を起こして寝たきりになり、いまは点滴で辛うじて生命を保っている。入院してから見つかった胃ガンも徐々に進行しつつあり、つい最近下血したと病院から連絡があったから、たぶん、いや間違いなく、もうすぐ母は死ぬのだろう。
 八十九歳という母の年齢を考えれば、それも仕方のないことだ。人は神と違って、永遠に生きられない。いま母は意識も薄らいで痛みも感じていないようだから、幸せな死に方ではないかと私は思っている。
 だが、九十二歳の父にはそんな割り切り方はできないらしい。父は痛々しいほど嘆き悲しんでいる。この様子だと、父は母のいない人生に耐えきれないだろう。昔から父と母は仲が良いという言葉では言い尽くせないくらい、好き合っていた夫婦だから、それも無理もないことなのだが。
 父と母は熊本県八代郡鏡町(現八代市)に生まれた。父は旧制熊本中学—山口高校を経て帝国大学(いまの東大)の文学部を卒業した。母もいまの日本女子大で学んだというから、当時の田舎では比較的珍しい高学歴のカップルだったらしい。
 父は大学在学中に海軍に召集され、予備学校の教官になった。その直前に母と結婚し、二人は新婚時代を戦争のまっただ中に過ごしている。
 戦争が終わって父と母は郷里の鏡町に帰り、小さな肥料店を始めた。美学や文学志向の父にとってはさぞかし不本意な生き方だったろうが、敗戦直後の混乱のなかを生きのびるにはそれしか方法がなかったようだ。
 私が生まれたのは敗戦から六年後の一九五一年(昭和二十六年)だった。すでに姉二人と兄がいた。それから二年後には妹が生まれるから、私は五人兄姉の四番目になる。
 私のぼんやりした記憶では、私たち家族が最初に住んでいた家は雨漏りのする、古びた長屋の一軒だった。私が小学校に入る前後にもう少しましな二階建ての小さな家に移ったが、決して裕福な暮らしではなかった。
 しかし学校の給食費が払えないほど貧しくはなかった。周囲の農家の子どもたちもだいたい同じような生活レベルで、お金持ちの子もあまりいなかったから、私は貧乏の辛さを知らずに育った。
 私が小学四年のころ、父と母は商売替えをし、町の目抜き通りで電器店をはじめた。ちょうど日本が高度経済成長の波に乗り、農家にもテレビや洗濯機や電気炊飯器が普及し始めたころである。
 最初の何年かは経営が軌道に乗らず、両親は金繰りに苦労していた。月末の支払い期限が迫るたびに、母が「胃が痛い」と言いだすので、私たち兄姉は「ま—た、母ちゃんの月末病が始まったばい」と言い合っていた。

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