叛民伝第3回:2 故郷
●親友N
父は若いころ短気なうえに神経質で、近寄りがたい空気を漂わせていた。だが、年を取るにつれピリピリした感じが消え、生来の優しさや正直さが前面に出るようになった。
母は終始辛抱強くて働き者だった。「魚住の家は奥さんの働きでもっている」と近所の人たちから言われていた。その話を聞いた母は「お父ちゃんが正直者で、お客さんから信用さるっけん、こぎゃんして商売でくっとよ」と言って笑っていた。
父も母も子どもの教育に熱心だった。おかげで私は町から三十キロほど離れた熊本市にある熊本大学付属中学に入り、県立熊本高校を経て東京の大学に進むことができた。
大学を出て、社会人になってから、私は滅多に帰郷せず、両親の暮らしぶりを気遣うこともなかった。たまに電話をすると、父も母も「心配せんでよか。あんたはあんたの仕事を一生懸命やればよか」と言っていた。
両親は私の生き方にほとんど干渉しなかった。私は他の兄姉に比べて、おそろしく自分勝手で意固地だったから、何を言っても聞かないと諦めていたのだろう。
二十歳代、三十歳代、四十歳代と、私は両親のことも、郷里のこともほとんど忘れて自分の仕事にばかりかまけていた。
五十歳代の半ばに差し掛かかろうとしたときのことだ。九州の地元の新聞記者から「あなたにとって故郷とは何ですか」と聞かれた。
私は虚をつかれ、返答に窮した。郷里のイメージが薄ボンヤリとして、言葉で言い表せるようなものが何もなかったからだ。
実家のある鏡町は小規模の商店街と、その周りに田んぼやイ草畑があるだけの、どこにでもあるような田舎の町だった。熊本全体を見渡してみても、保守的で国権主義的な風土という通り一遍の印象しかなかった。
たまに開かれる中学・高校の同窓会にも私はほとんど顔を出していない。東京の大学時代に知り合った友人とは今でも行き来があるが、郷里の幼なじみたちとの交流は途切れてしまっている。端的に言うと、私は故郷に対してひどく冷淡だった。
なぜだろう、と時折考えた。母の死ぬ日が近づくにつれ、その疑問は少しずつ私の心の中で膨らみ、やがて中学・高校時代の唯一の親友だったNの存在に突き当たった。

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