叛民伝第四回:3 革命

▼バックナンバー 一覧 2010 年 3 月 24 日 魚住 昭

 私は、そのころ共同通信の検察担当記者だった。いつもの通り、夜回り取材を終えて家に帰ると、私の長姉から「高校の同窓会紙に昔のあなたの写真が載っていたので同封します」という手紙が届いていた。
 長姉も私と同じ高校の卒業生である。彼女から送られてきた同窓会紙には、高校卒業間際にクラスメートたちと担任教師の家に遊びに行ったときの写真が掲載されていた。
 大学受験の重圧から解放された直後だったので、私やNのほか数人の同級生たちが担任教師を囲んで楽しそうに笑っていた。
 写真の下には担任教師の回想文が載っていた。それを読み進むうち「この生徒たちのなかにはすでに他界したN君もいる」というくだりに突き当たった。
 Nが死んだ?
 私はうろたえながら古い同窓会名簿を探しだし、Nと仲の良かった熊本の同級生に電話した。その同級生は、Nは五年も前に東京で病死したのだと言った。
 電話を切ってから私は自室の中をぐるぐると歩き回った。頭の中が混乱して、どうしたらいいのか分からなかった。
 
 Nの死を知って一、二カ月後、池袋の小さなビルを訪ねた。そこにはかつてNが所属していたS同盟の本部があった。入り口で用件を告げると、中年の温厚そうな幹部が出てきて、近くの喫茶店で応対してくれた。
 私はNとの付き合いのあらましを説明したうえで、彼が亡くなった経緯を教えてもらえないだろうかと頼んだ。
 すると、中年の幹部は「我々がつくったNさんの遺稿集があるんです」と言って、真っ赤な表紙の本を取り出した。
 その本は「部署は違えど心はひとつ」というタイトルで、Nが遺した政治論文や書簡のほか同盟員らの追悼文が収録されていた。
 私はそれを読んで初めてNの苦闘の日々を知った。
 
 

●空白地

 前にも触れたように、Nは京大在学中の七四年(昭和四十九年)、同盟本部の指示で福岡に移住した。福岡は同盟の活動家や機関紙読者がほとんどいない“空白地”だった。
 そこに一人で乗り込み、粗末なアパートを根城に組織作りに取り組んだ。月々の収入は家庭教師や皿洗いのアルバイトで得られる三―五万円前後。パンの耳をかじり、インスタントラーメンをすすりながら、五〇CCバイクで北九州工業地帯に通った。
 新日鐵の労働者の実態を知るため工場前のゴミ箱から組合ビラを拾ったり、駅前で宣伝ビラを配ったりした。マルクス・レーニン主義の勉強会を立ち上げ、少しでも脈のある労働者にとことん働きかけた。
「まだ可能性を汲み尽くしたわけではありませんからね」が彼の口癖だったという。 
 しかし、それほど努力しても“空白地”での組織づくりは難航した。やっと一人をオルグしたかと思うと、別の一人が脱落する、泥沼のような状態が何年もつづいたらしい。
 Nは七六年春、いったん京都に戻り、卒論を仕上げて二年後に京大を卒業した。その間も京都―福岡間を頻繁に往復しながらオルグ活動をつづけた。卒業後の七八年春には再び福岡に居を移し、組織の建設を進めた。
 Nの地をはうような努力が初めて実を結んだのは、福岡に入って七年目の八〇年(昭和五十五年)夏のことである。
 参院選福岡地方区にS同盟の候補が出馬した。結果は当選ラインにはるかに及ばなかったが、選挙運動中に出会った医療労働者グループ十数人がS同盟への加入を決め、福岡の組織は一挙に規模を拡大した。
 Nの活動家人生で最も嬉しかった出来事だろう。だが、それから半年後、彼は東京移住を余儀なくされる。本部の指示だった。
 Nの組織づくりがようやく軌道に乗った時期になぜ、そんな指示が出たのか。詳しい事情は分からない。Nは福岡を離れるのがずいぶん辛かったようだ。上京直前、福岡の仲間たちに向けてこんな手紙を書いている。
「上京の日もだいぶ迫ってきました。思えば一九八〇年の一年間というのは、それ以前の数年間を束にしたのと同じくらいに充実していたと思います。
 何よりも、しみじみと思うのは旧『考える会』(注・福岡の医療労働者グループ)の皆さんと合流できたすばらしさです。一年前には東京に次ぐ組織になるなんてとても想像できませんでしたよ。もしも福岡地方区で候補者を立てず(当初は予定されていなかった『捨て選挙区』だったのです!)、皆さんと合流できなかったとしたら……不活発な状態の中で意欲をなくしていったろうと思うとゾッとします」
 
 

●試練

「うれしい思い出といえば、自分の拙い演説に何人もの労働者が熱い心で応えてくれたことです。そのうちでも今もじーんとくるのは、昨年六月の選挙中、うす闇に包まれた団地で、光州蜂起への残虐な弾圧を糾弾しつつ軍拡主義の危険性を訴えた時のことです。中年の婦人がいつの間にかそばに来ておられ、僕の右手をそっと両手で包んで(一瞬とてもびっくりしました)感無量というような面持ちで何も言わずに僕を見つめておられるのです。そして何分も(と僕には思えました。実際はほんの短い間だったのかもしれないけど)そのまま僕の演説を聞いておられました。あの婦人は在日朝鮮人にちがいない、と同志たちは皆言っていました」
 光州蜂起とは八〇年五月、韓国・光州市で民主化を求める学生や市民が軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件のことだ。
 Nは「このことを思い出すたびに思います。上手下手は問題じゃない。大切なことはまず、自分で訴えたいことで自分自身が燃えること、そして搾取され、抑圧され、差別された人々の心に入りこむように話をすることだと」とつづけ、最後にこう書いている。
「僕はもともと泣き虫で、内気で、弱気で、労働と切り離された″民主教育″の弊害をたっぷりと一身に背負って……古くからの知人から『あんたは革命家というようなガラではない』と言われながら、たくさんの同志や労働者の皆さんに叱咤され励まされ、支えられて今まで何とかS同盟にしがみついて来ました。これからの階級闘争の厳しさを思うと、自分の『三つ子の魂』を克服することが絶対に必要であり、この点で不安を感じずにはいられません。とにかく自分の任務を精一杯果たしつつ将来に備える中で自分を鍛えていくしか、それしかないと思います。
 ある東京の同志曰く『東京は福岡や京都と違って砂漠みたいな所だから、誰か見つけといた方がいいよ』と。そううまくはいきませんでしたが……。だからというわけではない(こともない)けど、未練がましい気持ちがないといえばウソになります。でもそれは、これから東京での生活と闘いに対して弱気になっているからだぞ ……。とても居心地よくすごさせてもらったけど(本当にありがとう!)自分の鍛錬の為には東京の荒波にもまれるのもいいな。東京にも素晴らしい同志がいるんだし、皆さんにとっても、組織としても、個人としても、これから更に厳しい試練が待っているはずです。お互い、頑張ろう!
『部署は違えど心はひとつ』」
 
 

●献身

 東京でNは同盟の機関紙の校正や発送作業を担い、一年後の八二年三月には同盟の東京都委員に選出された。といっても貧しさは福岡時代と変わらず、週一度の学習塾でのアルバイトと、本部から支給されるわずかな金でぎりぎりの暮らしをしていた。
 八三年一月、Nは高島平団地で街頭宣伝中に右翼の襲撃を受けた。Nは右翼の竹竿や木刀での攻撃をかわすため宣伝カーの屋根の上に腹這いになって演説をつづけた。
 その後、荒川河川敷で右翼の男三、四人に取り囲まれ、代わる代わる殴られ、引きずり回された後、ゆうゆうと引き揚げる男たちの背中に向かって大声で「糾弾」を浴びせ、もう一度殴られた。
 右翼の襲撃から八カ月後の九月下旬、東京でS同盟の全国大会が三日間にわたって開かれた。Nは代議員らの弁当や宿泊手配など裏方を一手に引き受け、疲労困憊したらしい。
 都委員長がNに過重な負担をかけたのを慮り「Nさんの活躍を都通達に書いておくね」と声をかけると、彼は苦々しそうな顔になり、「そんなのいいよ」と言ったという。
 大会が終わって二日後の九月二十七日深夜、Nは練馬の一人暮らしのアパートで脳出血を起こした。翌朝、病院に搬送され、五時間に及ぶ手術を受けたが、意識が戻らぬまま三カ月後の十二月二十六日に息をひきとった。三十二歳だった。
 私が会った中年の幹部はこう言った。
「彼の部屋のテーブルには大会討議の録音テープをセットしたテープレコーダーと、それを筆記した原稿用紙が残されていました。原稿用紙の文章のセンテンスが途切れていたので、N君はテープ起こしの最中に脳出血を起こし、助けを求めて部屋の外に這い出たらしいんです。でもアパートの住人は誰も異常に気づかず、翌朝になってようやく病院に運ばれました。もっと早く発見していれば、と悔やまれてなりません」
 遺稿集に収録されたNの京都時代の友人の追悼文にはこんなくだりがあった。
「献身的というなら君ほど献身的な人もいなかったのではないか。活動―労働者の解放―のため、生活を切りつめ、睡眠を切りつめ、食費も切りつめ、それが命も切りちぢめることになったのではないか。(中略)君は歯痛のとき医療費節約のためにか歯医者にも行かなかった。頭痛のときにも、文書を作成したり、会議には欠席することはしなかった。また、昨年の大会のときも君の下宿に泊った同志に聞けば君はインスタントラーメンばかりを食べていたという。君が、いま少し健康のことを考え、食事を切りつめていなければと―今は心がひきさかれる思いだ」
 この回想は誇張ではない。Nは少年のころからそうだった。自分の損得を考えず、他人のために努力を惜しまなかった。
 たぶんNを知る人なら誰もが肯くだろうが、彼の姿勢は宮沢賢治の最後の手帳に記された詩編を想起させた。
 
 
 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラッテヰル
 一日ニ玄米四合ト
 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 ヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 ………
 
 
 
 

●鉄パイプ爆弾

 私がそのNとの距離を感じ始めたのは、たしか大学一年の終わりごろだった。Nが何かの用事で上京し、学生寮を訪ねてきた。
 当時の私はノンセクト・ラディカルと称して大学のバリケード封鎖や機動隊との小競り合いに夢中になっていた。
 一年ぶりに再会したNと何を話したのかはよく覚えていないが、私は得意げに運動論を語ったにちがいない。
 だが、Nは覚めていた。彼は新左翼や全共闘の実力行使路線に批判的だった。私は落胆し、気まずい雰囲気で彼と別れた。
 彼が京都でS同盟に加入したのは、それから数カ月後のことだ。今から振り返ると、Nが全共闘運動の欠陥を見抜き、理論的研鑽を積んでいたのは疑いようがない。
 彼は真剣に社会主義革命を考えていた。私はただ浮ついていた。その年、つまり昭和四十六年(一九七一年)六月十七日に遭遇した事件で私は自分の本性を知った。
 この日、沖縄返還協定が調印され、全国約三百カ所で調印抗議の集会・デモが行われた。私は明治公園で開かれた中核派系の数千人規模の集会に参加した。機動隊が夜の公園を遠巻きにびっしりと取り囲んでいた。
 午後九時前に集会が終わり、私の加わったデモの隊列が公園の外に出た途端、異様な爆発音とともに真っ赤な炎が夜空に高く舞い上がった。
「爆弾だ!」と誰かが叫んだ。
 後で分かったことだが、公園の茂みに隠れていた赤軍派のメンバーが機動隊に向かって鉄パイプ爆弾を投げ、隊員三十数人に重軽傷を負わせたのだった。
 私は、公園角の交差点上でその炎を呆気にとられながら見上げていた。火炎瓶や石の飛び交うデモなら日常茶飯事だったが、爆弾を目の当たりにしたのは初めてだった。
 異様な緊張感のなかでデモ隊と機動隊のにらみ合いがつづいた。やがてジュラルミンの楯をかざした機動隊が街路を埋め尽くしながら猛然と突進してきた。装甲車の屋根に陣どった指揮官の声が殺気立っていた。
 左右からも機動隊の波が襲ってきた。やばい。奴らは本気だ。殺されるかもしれない。
 そう思った瞬間、私は身を翻して路地に飛び込んだ。被っていたヘルメットや、マスク代わりの手拭いをかなぐり捨て、見物の野次馬の群れに紛れ込んだ。
 その日、都内で逮捕された学生や労働者は七百三十二人だった。私に胆力と覚悟があったら、彼らと同じ目にあっていたはずだ。
 それから半年後の十二月十八日、警視庁の土田国保警務部長宅で小包爆弾が破裂し、夫人が死亡し、四男が重傷を負った。
 六日後には新宿・追分交差点の派出所でクリスマスツリー爆弾が破裂し、警官二人と通行人十人が重軽傷を負った。
 翌年二月には長野県軽井沢町の浅間山荘に連合赤軍の五人が立てこもり、警官隊との約十日間に及ぶ攻防の末に逮捕された。
 その後の警察の調べで、連合赤軍のメンバーら十四人が「総括」の名のもとに同志にリンチされ、殺害されていたことが判明した。
 妙義山や榛名山の山岳ベースで次々と遺体が発掘されるさまをニュースで見ながら、私は学生寮の一室でウジウジと考え込んだ。
 革命とは何か?マルクス・レーニン主義とは何か?党派とは何か?
 そもそも臆病者の自分に革命の理想を語る資格はあるのか。
 
 

●部分と全体

 爆弾事件と連合赤軍事件の衝撃を引きずりながら、私は自堕落で陰々とした学生生活を送った。その間に染みついたのは自分自身への不信と、あらゆる党派(組織)に対する根深い嫌悪だった。
 どんな理想を掲げる組織も人間を堕落させ、殺人鬼に変えるメカニズムを内包している。爆弾を投げ、仲間を殺した青年たちは党派の論理に忠実だったにすぎない。私はいい加減だったから大罪を犯さずにすんだ。それは喜ぶべきことなのだろうが、引き換えに自分の矜持をなくしたのだから笑えない。
 
 昭和五十年(一九七五年)四月、私は共同通信の記者になった。新人記者時代は目まぐるしく過ぎた。その間もNとの手紙のやりとりは断続的にあったが、私の心の中のNの像は急速に後景に退いていった。
 思い当たる理由は二つある。その一つは相変わらず真面目に活動をつづけるNへの負い目である。私は自分自身に関する嫌な記憶を消したかった。Nのことも故郷のことも忘れて新たな人生を歩みたかった。
 もう一つの理由は、Nの考え方に対する疑念である。その疑念は、彼の死を知り、彼の苦闘の日々を知ってからも消えなかった。
 Nは革命という理想を掲げる組織に自分の生活を捧げた。それは自分の人生を、ある全体の一部と位置づけることだった。
 私はそういう発想が嫌だった。私は決して一部なんかではない。百ぺん生まれ変わっても組織の犠牲にはなりたくない。
 しかし、理由はどうあれ、私がNに対して不誠実な友人だったのは間違いない。
 共同通信の記者になって一年ほど過ぎたころ、Nから長文の手紙が届いた。それには福岡のオルグ活動で知り合った女性への恋の悩みが記されていた。
 彼が後に福岡を離れて上京する直前、仲間たちへの手紙に微妙な言い回しで書くことになる「未練がましい気持ち」とは、その女性に対する恋心だったのだろう。
 私はNから来た手紙を読み、Nの恋は成就しないと思った。S同盟に加入することすら大変な覚悟がいる。誰が好きこのんで極貧の革命家の妻になる道を選ぶだろうか。
 本音を言えば、彼は傷つく。といって、うわべを取り繕った手紙も書けない。あれこれ迷って私は返事を出さなかった。
 いや、返事を先延ばしするうちに忘れてしまったと言ったほうが正確だろう。
 Nからの連絡がふっつり途絶えたのはそれからである。私は取り返しのつかぬことをした。自分の恋の悩みに真摯に耳を傾けてくれた親友を突き放したのである。
 
 

●難破船

 Nの死を知ってから、もう二十年余りがたつ。その間に日本の社会は猛烈な勢いで変化した。「金満大国」「一億総中流」と言われた時代は遠い過去になり、多くの人々が貧困にあえぐようになった。
 冷戦の終結とともにグローバルな資本主義がその本性を剥き出しにし、私たちの暮らしに襲いかかってきた―少なくとも私の目にはそう映った。資本と国家の傍若無人な振る舞いを見るにつけ、私はそれらに反旗を翻した人々の生と死の意味をもう一度問い返してみたいと思うようになった。
 
 百年前の明治四十四年(一九一一年)一月十八日、死刑を宣告された幸徳秋水はその直後に盟友の堺利彦にあててこう書いている。
「まづは善人栄えて悪人滅ぶ。めでたし/\の大団円で、僕も重荷を卸した様だ。今日は気も心ものびやかに骨休めして居る。是(これ)から数日間か数週間か知らないが読めるだけ読み、書けるだけ書てそして元素に復帰することにしよう。一切人の世の面倒な義務も責任も是で解除となる訳だ。
○但(た)だ覚悟のなかつた多勢の被告、殊に幼い子供のある人や、世間を知らない青年などは如何にも気の毒でならないが、然(しか)しドウすることも出来ぬ。難破船に乗合せたとでも思つて観念して貰ふの外はない。君等も出来るだけ慰めてやつてくれ。一塵一亳の生滅も全く無意義ではあるまい。又何等かの因縁になるのだらう」
 唯物論者・秋水の絶望と諦念の底には、うっかりすると見逃してしまうような、ごく微かな光がある。それは乾いてはいるが、温かい、貴重なものだ。人が人として生まれてきたことの意味を感じさせる何かである。
 夕暮れの校庭を一人でひたひたと走るNの面影のなかにもそれがあった。
 私はその微かな光を頼りに、これから時空をはるかに遡ってみようと思う。それは秋水の言う「一塵一亳の生滅」の意義を問う旅であり、私やNを衝き動かした思想の故郷を求める旅でもある。どこまで行けるか分からないけれど、叶うことなら、叛乱する人々の魂の鼓動を捉えたい。

***

 
 文化六年(一八〇九年)八月十三日、熊本城下内坪井町の横井家に男の子が産まれた。ちょうどその日、横井家の庭の老松にコウノトリが二羽舞い降りたので吉兆だと町中の噂になった。男の子は親も手を焼く腕白坊主に成長し、やがて時代の先駆者となる。

(第四回了・つづく)

 
(参考・引用文献)
「横井家……噂になった」のくだりは徳永洋著『横井小楠 維新の青写真を描いた男』(新潮選書)に拠った。
 宮沢賢治の詩は中公文庫『日本の詩歌18 宮沢賢治』から引用した。
 幸徳秋水の手紙は『増補 幸徳秋水の日記と書簡』(塩田庄兵衛編・未来社刊)から引用した。

第3回:2 故郷