ホロウェイ論その8 経済成長がないと人々は幸せになれないか?

▼バックナンバー 一覧 2010 年 1 月 28 日 四茂野 修

 昨年9月、就任間もない鳩山首相が国連で演説し、「温暖化ガスの25%削減 」を目標にすることを表明しました。これに対し、JR東海会長の葛西敬之氏は、『文藝春秋』一月号で「日本経済が壊滅的打撃を受ける」と批判し、次のように述べました。

〈温暖化は、百年二百年、あるいは千年単位の長いスパンの中で、地球の気候がどう変動するかという話である。一方、製造業をはじめとする産業の盛衰や、それが人々の生活にどんな影響を与えるかという話は、一日単位の切実な問題である。〉
(「鳩山『CO2 20%削減』は国を誤る――戦略なき無謀な目標は日本経済に決定的な影響を与える」)

 葛西氏が何を言おうとしているか、文面からは必ずしもはっきりしませんが、気候変動は「百年二百年、あるいは千年単位」で生じる問題だから、今さらジタバタしても始まらないと言っているようです。産業の盛衰は緊急課題であり、温暖化対策でそれを阻害するなど、とんでもないということなのでしょうか。
 
 地球温暖化をめぐる議論の是非は別にして、温暖化よりも産業の盛衰が重要という主張に私は強い引っかかりを感じます。この見解から、日本社会に今も続く荒廃と貧困をもたらした小泉・竹中政治や、これに連動した大企業の横暴が思い出されるからです。経営者には企業が利益を上げ、産業が発展し続けなければならないという、強迫観念にも似た確信があるようです。しかもこの確信は経営者ばかりでなく、広く世の中に共有され、常識化しているように思えます。私はこの常識に敢えて異議を唱えたいと思います。
 

◇ GDPを減らして生活をよくする?

 だいぶ以前のことになりますが、1994年頃、当時日本開発銀行におられた根本祐二氏から「適正規模経済」という興味深い話を聞かせていただいたことがあります。たとえば本来必要のない過剰包装をやめたとき、社会では何が起き、それに対してどのような対策が有効かという話でした。
 
 「過剰包装がなくなれば、関連する産業が消滅し、そこで働いていた労働者は失業する。同時に過剰包装がなくなった分、商品の価格が下がるので、失業をまぬかれた労働者はこれまで以上の購買力を持つことになる。だが、失業して収入のなくなった人たちを放っておくわけにはいかないので、現在働いている人から 、購買力が増えた分を徴収し、失業者の給付に充てることになる。そうすると失業者も就業者もこれまでと同等の生活ができる。ただ、それでは働いていない人も、働いている人も同じ所得を得ることになり、不公平感が生じてしまう。そこで、ワークシェアリングを行い、失業者を残った他の産業が雇用する。労働者の数が増えれば一人当たりの労働時間が減る。失業者への給付金が新規就業者の賃金に換わるだけなので、収入はワークシェアリング前と変わらず、生活の質を落とすことなく労働時間の短縮が進む」――根本氏のお話は、およそこのようなものだったと思います。
 
 痛みの分かち合いではなく、社会全体の無駄を省き、その分を労働時間の短縮に充てるワークシェアリングは誰が見ても望ましいことです。もちろん無駄な生産であっても、なくなればGDPは減ります。しかし、労働者の側から見れば、新たに生み出された時間で、今までとは違った生活スタイルが可能になります。
 
 ゆとりができれば以前、ファーストフード(吉野家でもマックでも、皆さんの行きつけの店を考えてください)で済ませていた食事を心尽くしの手料理に切り替えることができます。CDやテレビで聴いていた音楽を生で聴くこともできるし、自前の演奏にチャレンジすることもできるでしょう。生活は質の面ではずっと豊かになります。何が無駄であるかの判定は慎重に行う必要がありますし、無駄とされた産業の経営者は必死に抵抗するかもしれませんが、地球環境、資源、エネルギー問題や財政赤字の途方もない累積を考えれば、馬車馬のような成長・拡大路線から転換して人間的な暮らしを求める適正規模の経済を目指すべきではないでしょうか。
 

◇ 破滅への道をめぐる攻防

 葛西氏の主張を読んで、私は「適正規模経済」の話を思い出しました。葛西氏が率いるJR東海はリニア中央新幹線の建設を計画しています。でも、南アルプスに長大トンネルを掘ってまで、東京・大阪間を1時間で結ぶことにどれだけの意味があるのでしょうか。人々をさらに忙しく働かせることにしかならないように思えるのです。
 
 先進国の高度経済成長が行き詰った1970年代半ば以降、経済=産業の発展、つまり企業の成長を維持するために、様々な方策がとられてきました。企業活動への規制を緩め、税制などで様々な優遇措置が講じられました。息切れした企業活動に生命維持装置をつけて延命治療を施したのです。これが「新自由主義」の政策体系であり、グローバル化と呼ばれる企業活動の急激な膨張の基盤でした。しかし無理な延命策は、大きなひずみを生んできました。
 
 日本では、2001年以降の小泉・竹中政治がこの流れに目いっぱいのアクセルを踏みましたが、その結果、何が起きたでしょうか。貧困問題が示すように労働者の生活は質・量ともに劣化しました。偽装など企業の様々な不祥事が頻発しました。国や地方自治体の借金は目の眩む額に達し、今も増加の一途をたどっています。地方の衰退が進み、商店街のシャッター通り化がひろがりました。そして膨れ上がった金融資産のグローバルな動きが各国の経済を振り回しています。
 
 この破滅へ向かう流れからの転換を求める声が、昨年、鳩山政権を誕生させたのでした。おぼつかない足どりではありますが、新政権は方向転換を模索してきました。しかし、この鳩山政権の行く手に、鳩山・小沢氏に対する検察の捜査に示されるような、密集した反動の嵐が立ちふさがっています。既得権をはぎとられる霞ヶ関官僚が、築き上げてきたメディアへの影響力を活用して、転換を阻止するためのなりふり構わぬ攻撃に打って出ているのです。
 

◇ 「忠実な召使」「卑屈な廷臣」

 小泉・竹中政治にどっぷりと浸ってきた官僚や政治家、ジャーナリスト、経営者がこうした行動に出るのには必然性があります。前回引用したように、ホロウェイは、資本主義社会の主体は資本家ではなく、「決定をおこない、何をなすべきかを定めるのは…資本すなわち蓄積された価値」だと述べて、さらに次にように言いました。

〈資本家が資本家でありうるのは、資本の忠実な召使いであるかぎりにおいてのことなのです。…社会の指導層は、単に資本のもっとも忠実な召使い、もっとも卑屈な廷臣になるしかありません。それは、資本家だけではなくて、政治家にも、役人にも、大学教授などにも、同じようにあてはまることです。〉(同76頁)

 多くの資本家、政治家、役人、大学教授は、経済が成長し、産業が発達しなければ大変なことになると固く信じています。中でも小泉・竹中政治に加担してきた者たちは、企業の成長を軸につくられたこれまでの仕組みが最高だと信じています。ところが「生活が第一」を掲げて人々の期待を背に誕生した鳩山政権の進路は、「企業が第一」という彼らの信念と衝突しはじめました。そこで危機感に駆られ、反撃に打って出た彼らの反応は、ひたすら自己増殖を求める資本の本性から生じているのです。
 
 企業活動が縮小し、GDPが減少しても(今では、そうしてこそ)人々の暮らしを豊かにできることはすでに見ました。ところが「企業が第一」という固定観念にとらわれた人には、それが目に入りません。「企業が第一」と考える人の目には、この世界が逆さまに映っているのです。あるいは、逆さまな世界が正常に映っていると言うほうが正確かもしれません。
 
 誰かが心を込めておいしい料理を作り、それを食べた人たちが満足し感謝するとき、ここにひとつの社会的な関係が取り結ばれます。料理をつくる行為は社会的な流れを形成します。料理というモノは人と人とが相互に承認し合い、尊重しあう社会的な関係の連鎖を仲介するのです。ところが資本主義の下で、モノは商品となり、独立した価値を持つようになります。料理は「売られるための、それ固有の価値を持った商品」となり、価値を増やすための手段になるのです。全国チェーンのレストランではマニュアルに定められた労働が求められ、価値増殖に結びつかない行為は無駄として切り捨てられます。企業利益と経済成長に役立たない行為は、どんな大切なことでも排除されます。この逆立ちした歩みは、そのリズムを不断に早めないと倒れてしまうのです。ホロウェイはこう言います。

〈蓄積を増加させていこうとする無限の衝動は、行為のリズムをどんどん速いものにしていき、行為の結果を所有する者が生産物を私的に所有する勢いをますます死にものぐるいのものにしていきす。〉(75-6頁)

 こうして人々は、まるで何かに憑かれたように、他の人々の生活を踏みにじってでも経済の成長、産業の発展、企業業績の拡大に突き進むのです。
 
 次回は、このメカニズムをもう少し詳しく見ることにします。