フォーラム神保町東郷ゼミ/熱海合宿「天皇誕生日に皇室を考える」

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開催日時:2009年12月23日(水) 〜24日

勉強会レポート

「天皇制・皇室固有の価値、意味を学ぶ」

小学校高学年のころから安全保障・軍事を中心に広く「政治」について関心を持ってきた私にとって、天皇(制)は関心の一つであった。計11年籍を置いた大学・大学院では私自身の思想傾向に親和的なリベラルな、もしくは「戦後民主主義」の系譜に列する研究者が多かったこともあり、私にとっての天皇制への関心は、昭和天皇の戦争責任や私が高校生の時に起きた右翼による本島長崎市長(当時)銃撃事件といった15年戦争と結びつく事柄、また、明治以降の天皇制が日本にもたらした負の面に関わるものが比重を占めていた。基本的にこの傾向は今も変わらない。
 
私は講師の問題関心の一つは、天皇制・皇室について、その歴史的起源に遡り、今日的な課題に対処し、将来においても天皇制・皇室を歴史的文脈とより整合的に安定的に存続させてゆくにはどうしたらよいか、もって「日本」という政治体をより安定的に維持させてゆくという点にあると理解している。そのよう問題関心は、私にはこれまでになかったものであり、これまで知らなかった事柄の知見を得るというだけでなく、天皇制・皇室の固有の価値・意味とそれがもつ社会的な役割を初めて学ぶ貴重な機会となっている。
 
上記のような問題関心について、私の理解がある程度妥当なものとして、今回あらためて感じたことが二つあった。
 
ゼミでも発言したように、現代の日本において、天皇制・皇室は、社会的、政治的な統合機能を果たしている。それは心理的なものでもあり、他の原理や制度(共産主義やその他の宗教など)によっては、大体は極めて困難かつ、そのコスト・リスクも高くなると考えられるため、現行憲法と関連諸法・諸制度の枠内での天皇制・皇室は維持されるべきと考えている。男系・男子の継承というような喫緊の問題があるとしても、大枠ではそう考える。
 
そのような方向で「日本」という政治体に古くから存在してきたとされる天皇制を、現在直面している問題への対処を行いながら、過去の伝統と調和的に解釈し、制度の安定を維持して行こうとするときに、まず第一に天皇制・皇族に関わるコトバができるだけ日本語を話す日本を構成している人間(一般に「日本人」と言われる人間集団)だけではなく、日本以外の人も説得的に表現され理解される視点が必要だと思う。日本語以外の言語を用いても、できるだけ世界の多くの人にとって了解可能な説明のもう一方に、私が思うのは、しばしば一般的に言われる「○○は日本人にしか分からない情緒的なものである」というような自家撞着的な「日本的なるもの」についての言説である。
 
天皇制・皇室が「日本的なるもの」のコアにあると無条件に前提されると、得てして「皇室はガイジンには分からない」などと言われる。私などは日本語を話し、国籍も日本であるので「日本人」であるが、例えば桜や富士山といった所謂「日本的なもの」として多くの日本人にある情緒を持って共通に了解されている多くの物事を、共有していないと感じることがままある。ある種の「シンボル」を納得的に共有できないのである。
 
天皇制・皇室が今後より広く積極的に支持され、統合のシンボルとして日本にとっての重要な機能を果たして行くには、この種の「日本人なら誰でも分かるはず」という前提を一度掘り起こし、多くの人にコトバを通して少なくとも意味が了解できる説明が必要なのではないだろうか。そしてそれは決して、「日本的な情緒」の否定を意味しないと考える。このような視野と作業は、日本国内だけでなく、海外での日本へのより深い理解を可能にすることだろう。
 
第二に、第一点目と関連するのだが、過去を掘り起こし、未来に投射してゆくときに、過去において捨象されてきた要素を掘り起こして行くべきということである。今回のゼミにおいて、「青い目の天皇など考えられない」という旨の発言があったが、私はそれの何が悪いのか理解できない。この考えの底には「天皇はもちろん『日本人』であり、その『日本人』とは日本語を話し、黒髪で、黄色い皮膚(欧米から見て)である(しかもおそらく男性)」という無条件・無意識の前提があると思われる。
 
しかし、おそらく歴史は、天皇に纏わる歴史は2010年時点の多くの「日本人」が天皇・皇室について考えているような単純なものではなく、様々な広がりと多様性を含んでいると思う。自然科学と異なり、歴史学や政治学をはじめとして、人文・社会科学は語の全意味において価値中立ではあり得ず、価値選択というバイアスから逃れられない。過去から豊かな意味を掘り起こし、未来へ建設的な再解釈を行ってゆくときに、自らの価値の「立ち位置」にどれだけ自覚的であり、従ってそれはある限界を持たざるを得ないものであるか、という認識を忘れないことが非常に重要になると思う。
 
天皇制・皇室が将来にわたっても広く支持され安定的に存続してゆくとすれば、排他的ではない、より開かれた価値観によって再解釈され再構成されてゆくことが重要になるのではないか。これは一方で「青い目の天皇は認められない」と考える多くの人々には受け入れられないことだろう。しかし、日本の一部でしか通用しないような排他的な価値観に基づく天皇制・皇室を持つ日本社会よりも、より内包的で、おそらくは少数者に寛容な日本社会であって欲しいと私は考える。
 
そこでは価値観の衝突は避けられないかも知れない。しかし「過去にそうであったこと」はそのまま現在と将来においても正統性を持つものではなく、また数の多さも正しさを証明するものではない。ましてや日本の内外でいろいろな人・モノ・コトが変化する環境では、『最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である』というダーゥィンの言葉が一層妥当するのではないだろうか。
 
(谷口正弘)

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