フォーラム神保町「戦後日本が失ったものを語る」

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開催日時:2009年7月4日(土) 10:00〜18:00

宮崎学氏、猪野健治氏主催による深層研究会で行われた元航空幕僚長田母神俊雄氏の講演会は、「時の人」をひと目見ようと集まった多数の熱心な参加者をえて始終白熱した雰囲気につつまれた。
 
講演の内容は、田母神氏の著書「真・国防論」で展開されている内容をなぞる形で行われ、さらに御自身の貴重な体験談、中国人民解放軍の幹部たちとの交流にまつわるエピソード、日米同盟批判、御自身の歴史観、戦略・戦術論などにも言及され、細部に至るまで興味の尽きない内容であった。
 
多忙な最中このようなお話を問題提起された田母神氏にひとまずは感謝したい。
 
同時に氏の著書をひもとくうち、また今回講演を聴いている最中より私の中には氏の展開する論理・思想に対する根強い生理的違和感が湧き上がってこざるをえなかった。独特のこの違和感とは一体何に由来するものなのだろう。
 
講演終了後の質疑応答にて、私の中の違和感を先取りするかのように会場参加者のひとり、元外交官の東郷和彦氏から、田母神氏の意見表明に関する長大な異論の提出がなされた。
 
東郷氏はその中で田母神氏の事跡に一定の敬意をはらいつつ、どうしても賛同できない箇所として、例の従軍慰安婦の問題や支那事変から太平洋戦争へといたるプロセス、東京裁判にまつわる道義的諸問題、満州建国とその興亡に関わる問題点等への最重要な批判や反省が、田母神氏の言うように反日イデオロ—グの政治的扇動や共産主義者サイドからではなく、むしろ、問題に深く関わった当事者たちから提出されたーーその中には石原莞爾や「大東亜戦争肯定論」の著者で三島由紀夫にも深い影響を与えた林房雄なども含まれるーーとの指摘がなされた。
 
A級戦犯でもあり悲劇の外交官とも称される東郷茂徳氏を祖父にもち、古来薩摩藩に在住し陶芸技術の伝統を継承する在日朝鮮民族とドイツ民族及びドイツ系ユダヤ人の血を宿しつつ、自身も外務省のトップエリートの一員であったという稀有な経歴の持ち主でもある東郷氏。比較的伝統重視で右よりとはいえ、被抑圧民族の苦悩にも一定の理解力を有し、国際感覚も豊かであり健全かつまっとうな保守主義の系譜に属する(と私が考える)氏の政治思想と今回の田母神氏への反論に私は100パーセント賛同するが、蛇足とは知りつつ私なりに考えた補足事項をつけ加えたいと思う。
 
まず田母神氏の持論で陰謀論的意見に関する部分である。日本を戦争に引きずり込んだ要因のひとつに国際共産主義–コミンテルンの謀略があるという田母神氏の分析は、かつて近衛文麿が昭和天皇に上奏し、手記に残したものと同類の見解である。
 
昭和天皇独白録や側近たちの残した記録の中で昭和天皇は近衛文麿のこの種の見解を手きびしく批判している。
 
日本の敗因を「国際共産主義の陰謀」一色に塗りつぶすというのは、単純で解りやすい説明ではあるが、複雑な構成要因を単一の因子へと抽象しすぎるあまり真実を見失い、歴史を偽造する危険を伴うと言わざるをえない。
 
日本の敗戦の背後にコミンテルンの陰謀を見る見解は、彼らが世界制覇の戦略的遂行能力を持っていたことを認めてしまう裏返しの過大評価(ハイパーコミンテルン万能論)なのであって反ユダヤ主義のデマゴーグ(ハイパーユダヤ万能論)と紙一重である。
 
日本は戦争に負けたのであり、その負けた原因は一つではない筈である。史実を克明に追っていくと事例研究はケースごとに多様な様相を描き出し、それぞれに異なる教訓を導き出していてそのすべてが真実の一面を突いたものだとも言える。
 
たとえば、氏の提起する論説に最も格好の素材を提供しているゾルゲ事件であるが、リヒャルト・ゾルゲは労農赤軍参謀本部第4局に配属に所属する学者肌の有能なスパイではあったものの、スターリンというよりは、ブハーリン一派の残党であったとする研究が一方には存在し本国ソビエトに帰国した暁には、粛清されていた可能性が高かった。(Robert Whymant「Stalin’s Spy: Richard Sorge and the Tokyo Ring」『ゾルゲ引裂かれたスパイ』西木正明訳新潮社1996年6月を参照のこと)ゾルゲが命がけで収集した情報に関し、スターリンがあまり価値を認めていなかった事実が明らかにされている。
 
独ソ戦が開始されるはるか以前からゾルゲはドイツ大使館のオットー大使から独ソ戦の開戦時期に関する精度の高い情報を得てソビエトに送り続けたがスターリンは直前にいたるもその情報を信じなかった。
 
歴史が史実として開示するところに従えば共産主義もその敵たちが誇大に評価するほど一枚岩ではなかったことになる。
 
最近では、アメリカでマクナマラ前国防長官が、その回想録、対談集、その他の著作の中で、自分たちがかつて信じたその種の誤謬ーー意図的にではなく犯してしまった政治的誤りーーを明確に記述している。
 
ベトナム戦争の因果関係を作戦立案に深く関わった当事者の立場から解明し、ボーゲン・ザップの幕僚、側近たちをはじめとするベトナム側の指導者たちとも私的感情を押し殺して事実認識としての意見を交換しようとする、その中から戦争の真の原因を探り出そうとする歴史的に見てきわめて価値の高い稀有な試みは、高飛車で不器用なやりかたとはいえベトナム側からは一種の謝罪として受け止められている。
 
田母神氏の今回の講演で展開された満州建国史に関わる手ばなしの賛美に近い肯定論にも異論を感じるところだ。
 
満州へのソ連軍の侵攻に関し、鮎川工業の残した残存物や後藤新平の残した見事な都市計画など豊かな日本の遺産をソ連に簒奪されまいとする毛澤東の人民解放軍とソ連赤軍との虎視眈々とした腹の探りあい、共産主義者の一致団結などとは程遠い
 
一刻を争う既得権益の奪い合い、緻密な地政学的見地からなされた資源の争奪戦の経緯が今では中国側の研究者によって明らかにされている。(「一九四五年満州進軍—日ソ戦と毛沢東の戦略 (三五館・単行本)」徐焔 (著,原著), 朱建栄 (原著,翻訳)を参照のこと)皮肉なことに、表層の言説とは裏腹に戦略的観点から、毛澤東の作戦指導部は旧満州に横たわる旧大日本帝国の遺産をほぼ正確に掌握、その価値を高く評価していたことになる。
 
その豊かな遺産が、なぜ戦略的評価を伴いつつも中国の広範な階層から感謝されなかったのか。今もされないのか。石原莞爾将軍による満州建国の理念とその盛衰の軌跡、五族協和を掲げつつ、それがあくまでも美辞麗句に終わってしまった悲しい現実清濁合わせ持ちすぎた大陸浪人たちをはじめとする様々な勢力によってその理想が換骨奪還されていった歴史的現実に立脚するのでなければ、真実は見えてこないと言うべきだろう。
 
これは、現在、大陸・台湾両中国において国父と称される孫文、その親密な同志として宮崎滔天が高い評価を獲得されている一方で、玄洋社の歴史総体、頭山満や内田良平の活動が、政治力学として見た場合、辛亥革命への濃密な貢献として歴史的にも認定されながら、なぜか評価されない、感謝されない原因とも通底する。
 
上記、東郷和彦氏の指摘する石原莞爾の戦後著作集に見られる反省的考察がここではおおいに参考になるほか、満鉄のイデオローグであった橘撲の戦前の著作集に集約された当時の情況への綿密な社会科学的分析に学ぶ必要がある。
 
田中新一と並び対米英積極開戦主義の旧帝国陸軍内での急先鋒で、ノモンハン作戦やガダルカナル作戦の責任者でもあり、「失敗の研究ーー日本軍の組織論的研究」(1991中公文庫。防衛大学の教授たちが分担執筆した名著)の中でも諸悪の根源、無反省組の極限と批判されている元作戦参謀辻政信ですら、関東軍の行きすぎた満州統治のありかたに(戦後になってからだが)反省の言葉を書き記している。
 
「少なからぬゴロツキが、国威を籍り、軍威を笠に着て、中国人を迫害し、略奪し、暴行していたことは蔽うべくもない・・・・排日の動機には、勿論中国人の民族意識が大きな因をなしているだろうが、少なからぬ責任が日本のゴロツキ共にあることを認めねばならぬ。海外に発展した日本の歴史は、先づゴロツキが、次いで売春婦が、次いで商売人が、次いで工業家が出かけて根をはって来た。この根源を粛清しない限り、どんなに武力で押さえても、排日の火の手は収まらないだろう。責任の大きな部分が我にある事を否認することはできなかった。自分がもし中国人であったら、もっと、もっと激しい排日をやったであろう。」「亜細亜の共感」辻政信著S25年亜東書房服部卓四郎と並び「ひらき直り型」無責任・無反省組の極致とも称すべき辻にしてこの言葉なのである。(逆の言い方をするならば、だからこそ辻の著作には多くの真実とそれに基づく教訓が含まれている)田母神氏の極端な論説は、さらにその右をいくものと言わねばならない。
 
私事にわたってまことに恐縮であるが、私の父は陸上自衛隊の幹部として長らく勤務させていただき、私の祖父は、建設技師兼陸軍少佐として旧満州の奉天(ハルピン)に住んでいたことがある。
 
石原莞爾や山下奉文、本間雅晴と交流があり、どちらかといえば極端な右翼思想の持ち主であった祖父も、家族共々少年時代に満州の空気をじかに吸って体験として知っていた父も、旧満州における日本軍や日本人一般の、中国人に対するひどい扱いや残虐行為を目撃しており、日本の大陸政策に対しては始終一貫批判的であった。
 
(東郷和彦氏も言及されていた)石原莞爾の戦後著作集での深い反省的考察、辻政信が書き残した日本軍の行きすぎた大陸政策への批判的言及、旧日本陸軍において栄典・栄誉の数々において並ぶ者なしとまで言われ、軍人の鏡のごとき存在であった遠藤三郎中将の回想録(『日中十五年戦争と私』日中書林1974年及び宮武剛著『将軍の遺言 – 遠藤三郎日記』毎日新聞社1986年を参照されたし。遠藤三郎は、50年以上生涯にわたってメモ魔と言ってよいほど膨大な日記をつけ続けた。回想録は、いつしか「願望」が「認識」と入れ替わりがちな主観的記述とかの類ではなく、あくまで自分が目撃した事実情報に基づく克明な記録である。関東大震災直後、第二の甘粕正彦にされかねなかった某重大事件の生生しい証言のほか石井四郎中将の731部隊の生体実験の貴重な目撃談など、日本の大陸政策の光と影、栄光と悲劇、美辞麗句とは裏腹の歴史的現実が生生しく記述されている)などは、「かくあって欲しい願望の投影」ではなく「実際に満州で何が行われたか」「意図した事柄とその結果のくい違いは事実として一体何であったのか。その原因は何か」の貴重な証言に満ちている。
 
私の祖父や父の証言など含め、これらは、当事者たちの実際の体験から導き出されたものであり田母神氏の言うような左翼によるイデオロギッシュな批判などでは断じてないのである。
 
元海軍兵学校教官、戦後は元防衛大学校教授で南支作戦、南部仏印進駐、ハワイ、スラバヤ沖、珊瑚海、ソロモン、南太平洋各会戦に駆逐艦航海長として豊富な実戦経験のある戦史研究家の外山三郎氏は、その労作的著書「敗因究明に主論をおく太平洋海戦史」(全五巻・教育出版センター1985)において、「敗者の敗因となった諸矛盾はすべて戦場にあらわれる。あらかじめ敗因究明の視点を定めて研究する方法もよく見られるがこの場合は、その視点に捉われやすくなるばかりでなく何がその中で最も重要な原因となったかを判別するのが困難となる」と述べておられる。
 
田母神氏が採用されている陰謀論的方法論は、この種の主観的意見というべく「あらかじめ敗因究明の視点を定めて研究する方法」の最たるものにほかならない。
 
外山氏のとられた方法は、あくまでも歴史的現実を直視し、戦場で生起した事柄そのものを分析し「それは一体なぜか」「さらにその原因はなぜか」「さらにその奥にある根源的原因はなぜか」という問いを果てしなく積み重ねて史実を究明する徹底的な科学的手法なのであって誇大な陰謀論とは無縁である。実戦体験をベースに書かれた数々の著書を貫徹する熟考により外山氏の到達した敗戦原因としての結論をひとことに圧縮すれば「戦略思想の貧困と優れた指導者の不在」ということにつきる。逆の言い方をするならば、コミンテルンの陰謀や圧倒的な物量戦のせいで日本が負けたのではなく、正確な情報と「幾十にも重なるバカの壁」をなるべく排除し合理的に設計されつくした機敏に働く筋肉質の組織、正しい現状分析に基づく戦略戦術思想及び優れた指導者が存在したならば日本が戦争に負けることはなかった、ということになる。
 
現実には存在していない間違った原因を敗戦原因として仮定することは、正確な洞察を妨げ認識論的障害物を構築することへとつながり、真実の原因を特定し、それを抜本的に改善する機会を見失う、ということを意味する。田母神氏のような論理は、それを主張する当人というよりむしろそのような論理が浮上してくる組織の背景にこそ真の問題点が存在し、つまりは敗戦を結果として招来した旧軍と同じ体質を、現在の自衛隊もどこかで引きずっているのではないか、との危惧をいだかせるに十分である。
 
さらに私の中で田母神氏に関して感じる最も重要な違和感は、戦略・戦術論的認識に関わる論説もさることながら、その外交感覚の欠落といった部分であろう。
 
上記、東郷和彦氏の著書「歴史と外交ーー靖国・アジア・東京裁判」(2008講談社現代新書)の中に「損害と苦痛を受けた人との関係では、究極的には日本人の誰もが責任をまぬがれることはできないのではないか。もしそうであるならば、戦争責任を自認する唯一のありかたは「日本全体として」それを認めることになり、そのことこそ、日本としての、より高次の道義的な立場に立つことになるのではないか。そのように考えるのであれば、A級戦犯として処刑されたかたがたは、国家全体としてなされた行為をみずからの命にかえて責任をとった人たちということになり、国家として当然弔うべき人たちということになる」との一節がある。ここに東郷氏の思想が圧縮されている。東郷氏が外交官として諸外国と接し、また学者として様々な国際的シンポジュウムに参加する中で、多様な立場の人たちと交流、相異なる価値観の持ち主たちと意見交換し、時に熱い議論を交わし、そのような体験から導き出された当然の帰結として戦争に関わった当事国としての日本の立場は、ナチ・ドイツの負の遺産をひきずるドイツ同様、ひとことでは言えない複雑なものだ、受け取る側の国際感覚として今もそうだ、とのリアルな現状認識が導き出されたのに違いない。
 
それは、お互いの外交交渉において、まず最初、相手対し相互に高値を吹っかけ合い、それをだんだんと値切る中から政治的妥協点を見出すやり方、そのためには相手に甘く見られないため、最初の段階から、うんと高値でつりあげた妥協を許さぬ目標値を威嚇的に提示したほうが断然有利である・・・・といった方法論 (田母神氏が今回の講演や日本の核武装論で出張しているのがまさにこの種の論理である)が通用しないほど国際社会において日本の戦争責任に関わる問題は重く深刻に受け止められている、問題はけっして単純ではない、このデリケートな問題でことをこじらせると、国際感覚の常識として外交上の政治的損失を蒙るのはほかならぬ日本国家である、ということを示している。
 
私見によるならばこれら東郷氏の歴史認識の根底にあるのは歴史的「痛み」の感覚にほかならない。
 
殴った側は自分は痛くないのですぐに忘れてしまうが、殴られたほうには強烈な「痛み」が残り、いつまでもたっても忘れない、といった原理原則は、肉体的暴力、「言葉」による精神的暴力のみならず、国家対国家、民族対民族の戦争に関わる歴史問題(歴史的記憶)にも通用し、価値観や文化、歴史認識が違う以上、お互い共通理解には至らずとも「殴った」側の加害者は「殴られた」側の「痛み」に理解を示し、或いは限りなく近接的な理解へと至る誠実な努力を続け「痛みの共有」を共通ベースとして話し合いを進めていくべきだとの認識へとたどり着く。
 
いわゆる左翼の論者からではなく、靖国神社に深い畏敬の念を有し、自虐史観にも批判的な東郷氏からこの種の問題提起がなされていることが重要であろう。しかし、まさにこの部分こそが「村山談話」を評価する東郷氏と、それを批判する田母神氏との決定的かつ最重要な分岐点にほかならず、今回講演後の質疑応答の中でも白熱した争点のひとつとなった箇所である。
 
あくまでも私個人の意見であるが田母神氏の論説には、この種、東郷氏には明確に見受けられる他民族の痛みへの理解、「痛みの共有」に関する歴史的感受性が根本的に欠落していると言わざるをえない。
 
私の考えるところでは、今回、田母神氏の軍人の政治的意見表明の権利に関する言説にもおおいに問題がある。田母神氏の今回の講演において諸外国においては軍人がもう少し自由に政治的な意見表明ができるのに日本ではそれができない、許されない、少しでも正しい意見を言おうものだったら袋ただきに合う旨の発言があった。
 
現職自衛官の政治的意見、それが「正しい意見」かどうかを決めるのは一体誰なのだろう。それを決める厳正中立な評価機関や基準といったものが一体存在するのだろうか。会場の質問者の方の問題提起とも重複するがもし自衛隊員に自由な政治的意見表明を無制限に認めるとなると田母神氏のような発言のみならず隊員が極端な右翼国粋主義的思想を表明し、かつての北一輝や西田税のようにクーデター(自分たちも参加した軍事力行使)による政権獲得を正しい政治的信念として表明している場合、これをも認め、また反対の方向から共産主義革命を信奉し、毛澤東やトロツキーの軍事論みたいなものを自衛隊に適応すべきだ、ボリシェビキ革命の母体として軍隊(自衛隊)を活用すべきだとの政治的見識を表明している場合(革共同中核派から離脱する以前の小西誠氏は、軍事思想に通暁した共産主義者というべきで、「反戦」自衛官というよりは、むしろ、世界革命にともなう革命戦争を肯定するこの種チェ・ゲバラ的思想の持ち主だった)それをも認めなくてはならなくなる。これでは軍事組織とその構成員の政治的中立性がまるで担保されなくなってしまう。
 
226事件や政治軍人の典型とまで言われた統制派の武藤章をはじめ、武力での実力行使をちらつかせたその露骨な政治的介入が結果として国を誤らせ、破滅へと導いた・・・現代史を学ぶ日本人なら万人に共有されるべきこの貴重かつ痛苦な教訓は未来永劫にわたって継承されるべきだろうが、田母神氏の論説にはこのような歴史的反省がまるで皆無である。
 
私は、これも左翼の軍事批判というより、226事件の青年将校たちの逮捕後の取調べに現場で立ち会った元東部憲兵隊指令官・大谷敬二郎氏の痛切な歴史的メモワールともいうべき重厚な著書「天皇の軍隊」(図書出版社, 1972)をはじめとする諸著作から学ぶところが大きかった。けっしてコミンテルンの影響を受けた左翼史観の受け売りではない。
 
現場での歴史の生成過程に当事者として関わった人の証言の重さと田母神氏の言説を比較するとき後者における著しい反省的歴史意識の希薄を感じざるをえない。大谷氏は、天皇への絶対的忠誠心を有し、徹頭徹尾、職務に忠実であった元東部憲兵隊指令官(大佐)の立場から、戦前の政治軍人たちの跳梁跋扈が何を招いたか、天皇陛下の大御心を、勝手に歪曲解釈し暴走した結果が、国家の破滅へと直結、逆に天皇陛下の御心に反する結果となり、つまり「統帥権干犯」を犯したのは彼ら政治軍人(皇道派、統制派を問わない)たちにほかならず、帝国陸海軍が「天皇の軍隊」ではなくなった軌跡を克明に追っている。
 
田母神俊男氏の「真・国防論」や今回の講演内容と林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」とでは、多くの共通項が見られるが、後者には多少なりとも存在した反省的視点が前者にまるで見られないのは驚きである。著名な歴史家の言葉にもあるとおり歴史から謙虚に学ぼうとしない者は同じ過ちを二度三度繰り返すことになる。今次大戦の貴重な体験から導き出された教訓を創設基盤となすべき現在日本の自衛隊とヴィクトル・アルクスニス大佐(Viktor Alksnis、ロシア語: ВикторИмантовичАлкснис)が出現してくる現代ロシアその他の諸国の軍隊とでは、背景にある歴史的事情が根本的に違っていると言わざるをえない。
 
さて今回の田母神氏の講演内容やその著書に見受けられる言説の数々を批判してきたが、その言説の総体や人物までをも全否定するのでは勿論ない。田母神氏は、その人物に関してなら現在の航空自衛隊内部でも誰一人悪くいう人がいない正真正銘の「いい人」である。幹部研修の直前3時間前で、末端にまでいたるまで隊員の名前すべてを暗誦し、ひとりひとりに語りかけ、きわめて面倒見もよかったという。人情に厚い感じだ。しかし同時に、田母神氏のデマゴギー的思想が、自衛隊内部において圧倒的多数からは支持されておらず、「いい人だけども同時に大変困った人だ」というのが多数者の総合的評価だとも聞く。最大限善意で解釈するならば、田母神氏のデマゴギー的思想が派生してくる要因として、自衛隊の組織内部での士気の低下、組織の腐敗、教育の質の低下に直面する現場教官の苦悩が影響していると見なせなくもない。
 
今次大戦が、アジア・アフリカの民族解放運動に間接的な影響を与えたのは歴史的事実であるし、日本は「五族協和」の旗印のもと、国家神道の押し付けという負の側面を伴ったとはいえ旧満州(中国東北部)にて日本国内ですら行われたことのない斬新かつ壮大な都市計画を企画・実行した。日本の旧植民地統治とりわけ台湾統治の失敗に責任のある後藤新平を手放しに再評価することはできないが、功績がまったくなかったとまで酷評することは史実に反し歴史の歪曲と言うべきであろう。山室信一氏が名著「キメラ」(「キメラ増補版 満洲国の肖像」山室信一 中央公論新社 2004年07月)で描いた旧満州帝国の怪物とも称すべき政治的多面性は、そのユートピア的側面も、過酷な罪業の側面も、そのどちらの側面に対しても実証的認識を捨てるべきではないのである。
 
田母神氏が指摘した情報戦における日本の敗北は、結果として見た場合事実であり同じ実情や問題点が現代の日本や自衛隊にも存在している。ここの部分は、むしろ問題点の単なる指摘にどどまらず、ハルピン特務機関や陸軍中野学校への自衛隊内部からの検証、戦前「藤原機関」の伝説的活動のみならず戦後の自衛隊調査学校創設にも深く関わった藤原岩市陸将の再評価、ひいては、これから先、自衛隊における情報機関はいかにあるべきかの実務的政策提言といった角度からさらなる踏み込んだ言及こそが必要とされており、田母神氏のみならず、我々も共有すべき将来にわたる最重要な研究課題と言うべきであろう。また最近の地政学的世界情勢に合致した形での自衛隊の戦略的・戦術的立案や組織編制という問題もある。ここの部分では、田母神氏の「真・国防論」よりも明治期の軍人で石原莞爾にも影響を与えた佐藤鉄太郎の『帝国国防論』『帝国国防史論』、『海軍戦理学』、『国防新論』などがむしろ再評価・再検討されてしかるべきだろう。「安易な受け」を狙ったデマゴーグではなく歴史的体験を生かした地道な研究活動とその実践的応用、後世からの度重なる検証に耐えうる重厚緻密な教訓の集積、「自衛隊は自衛隊を守るためにこそ存在している」と悪口を言われないよう国際スタンダードに達した真の国防論の構築といった側面こそ急務であり、田母神論文を批判的に摂取しそれを乗り超えるべき我々が正面から取り組むべき今後の課題がそこに存在しているのではないだろうか。
 
(自営業 筋田秀樹)

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