フォーラム神保町第19回「メディアと知識人〜第2弾」

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開催日時:7月8日 (日) 18:30〜

勉強会レポート

■和田春樹さんの講演
 第19回「メディアと知識人」は、和田春樹さんが登場された前回の論議の確認から始まった。前回の主旨は、次のようなもの。──日本の戦後体制は独特なものであったが、それなりの重要性を持つものだった。戦後体制とは、自由民主党執権とアメリカとの同盟、憲法9条下の自衛隊の存在、そして強力な野党が、万年野党ではあったがその機能を果たしていた、というもの。一方、知的な世界では左翼的な考え方が強く、右派陣営はそうした勢力によっておさえこまれていた。自由民主党が万年政権というのは議会制民主主義としては不健全であるが、この状況のもとで社会がバランスをとり、ある程度の自由が保障されていた。
 戦前の体制の中から軍隊だけをのぞいて天皇と官僚が残り、官僚を基礎にして自民党という政党ができた。したがって自由民主党としては共通の歴史認識はもたず、それは野党の間でも同様であり、更に日本の社会は国家的レベルでも共通の歴史認識をもたず、国民の間でも共通の歴史的認識がないという状態であった。
1980年代末、ソ連が崩壊して冷戦が終結し、アジアが台頭して北朝鮮危機が出来する中、日本の55年体制も終焉をむかえる。それまでの体制を精査し、活かすべきものは活かし、乗り越えるべきものは乗り越えながら、新しく出てくる問題(憲法問題、歴史問題、北朝鮮問題、北方領土問題)について解決していかなければならない。その意味で、知識人には冷戦時代とは違った新しい役割が要請される。政府と知識人が協力し、場合によっては知識人が政治の世界に入ることもありえる。つまり万年野党の、その外側にいる知識人、というあり方とは別のあり方を模索しなければならない。しかしそういう状況に、政府もメディア、知識人も混迷し、対応できていない。新しい状況のなかで、日本は進むべき道を見つけていないのである。

 前回のこの議論を受けて、今回のフォーラム神保町では「韓国の民主化問題」と「ソ連社会主義の崩壊」という二つの問題が立てられた(議論の経過の中で、二点目については回を改めてということになり、前者の問題が集中的に論議されることとなった)。
 和田さんが開口一番、言われたのは、「民主化とは実現してしまうと当たり前に見えるものだ」ということ。しかし実際には、韓国には軍事独裁があり、それとの闘争をへて、民主化は実現された。現在の日本では、過去30年間にわたる韓国の民主化の革命があったことが忘れられている。そして日本人がその民主化に協力してきたことも消えてしまっている。更に韓国でもその経験がいきていない。そのために、両国の間に問題が起こっている。
 韓国の民主化をめぐるこうした歴史的把握のもとに、和田さんの話は韓国、日本、そして両国の関わりについての検証を行うものだった。
 韓国の「韓国民主化運動事業記念会」が出した年表を見ると、1954〜1992年の期間となっている。この年表は、そこでの「民主化」の定義とは何かについて、疑念を抱かせるものだった。韓国にはずっと民主化の運動があった。1960年に学生がたちあがって李承晩を打倒した革命があり、これは典型的な革命だった。1961年には朴正熙将軍が軍事クーデター(軍事革命)を起こした。この軍事政権がその後、民政にもどり、大統領選挙をやるようになって、60 年代末に金大中が登場する。金大中があわや勝利するかという事態になった時、大統領を直接に選ばないという憲法改正がなされ、維新独裁体制となる。極めつけの軍政ができた1972年、日本にいた金大中はそれを聴いて、断固戦うことを宣言、そこから新しい闘争がはじまる。
 ここで重要なことの一つは、朴正熙政権のもとでの経済政策によって韓国が経済成長したという事実。その変化の中で、民主化の革命を支えるための要素も出てくる。つまり60年の学生革命、そして61年から続いた朴正熙の軍事統治というものを経て72年にできた維新独裁体制への抵抗運動として、今につながる韓国の民主革命が始まった。
 金大中が東京で白昼、拉致されたのは73年8月8日。同年の『世界』9月号に、金大中への安江良介のインタヴューが掲載された。金大中という韓国の民主化を求める政治家の肉声を多くの日本人は聴いたのは、その記事が初めてのことだった。そしてTK生(池明観)「韓国からの通信」もまた、翌月号から毎月連載されることとなり、TK生は東京で韓国からの通信を書き続けた。
74年4月3日、「民青学連」という組織が摘発される。この組織を罰するための大統領緊急措置が出される。朴正熙大統領の維新体制に抵抗する人たちの背後に左派がいて、更にそのうしろに北朝鮮がいるという構図のもと、金芝河、人民革命党という韓国の左翼グループが摘発される。
 日本では、金芝河の逮捕に抵抗して文学者が立ちあがった。小田実、鶴見俊輔、大江健三郎。日本で初めて、韓国で民主主義を求めている人たちへの大衆的な関心が高まり、明治公園では3万人の集会がもたれるに至った。75年には『東亜日報』が弾圧される事件が起こり、東亜日報を助ける会が発足する。
 同年に金芝河が出獄し、3月1日に「日本の民主主義への訴え」を出す。「3・1」は重要な意味を持っており、これは1919年の「3・1独立運動」を指している。金芝河は、この3・1独立運動は、ただ単に日本を批判した運動ではなく、朝鮮人として日本をも救うという心持ちで声をあげたものであったと言う。日本はそれに対して弾圧をもってあたったのであり、日韓両国はそういう歴史を繰り返してはならないのだと。我々は韓国の民主化のために戦うが、日本の政府がこれを妨害してはならず、そうならないように日本人は努力してほしい。
「日本民衆への訴え」とはそうした内容をもつものだった。更に金芝河が言ったのは、「われわれは自己肯定でいく。日本人は自分たちの過去について自己否定でやってほしい」ということだった。
 しかし、そもそも、なぜ「日本を救う」なのか。3・1独立運動は、朝鮮は独立国だということを宣言したもので、その中では、日本が朝鮮を併合してきた歴史を批判すると共に、そうした日本の行動が中国に対して不安を与えているということが言われていた。中国では5・4運動が起こるが、日本は朝鮮の独立を認めよ、そうすれば中国人も安心させることになり、アジア全体が共に生きられる、という主旨だった。この3・1独立宣言を行い、それを総督府に通告した人たちはすぐに逮捕される。学生、市民も立ちあがるが弾圧され、武力が大事だ、つまり共産主義が大事だという流れになる。
 この3・1独立宣言の文章を起草したのは崔南善。満州事変のあと、親日派になり、満州建国大学の教授になった人物。東京にきて、韓国人に向かって、天皇のために戦えという演説をしている。韓国が戦後、独立した時に逮捕されている。
 共産主義は、この崔南善を裏切り者とした。「民族主義者は裏切る。親日派になってしまった」と。戦後の日本の歴史学では、北朝鮮、マルクス主義の影響が強かったために、3・1独立宣言はほとんど紹介されていない。あるいは、3・1で民衆が立ちあがって日本と戦ったという、単純化された紹介になっている。 3・1独立宣言は「非暴力」ということも訴えているのだが、それも問題にされていない。つまり、3・1独立宣言の真の歴史が消えてしまっていた。そして金芝河のメッセージは、そのことを気づかせるものだった。
 「自分たちは自己肯定でいくから、あなたたちは自己否定できてくれ」という金芝河にメッセージに対しては、和田さんは「自分はこれが気になった」と言われていた。日本が過去の歴史を反省することは必要だが、韓国人の方でも反省すべきところがある。そういうことを対話しながら議論を進めていくべきだ。対話をして連帯する、ということ。その意味で、金芝河のその言葉には賛成できないというのが和田さんの立場だった。
79年には朴正熙大統領が暗殺され、「ソウルの春」をむかえる。80年には全斗煥によるクーデターが起こり、金大中らが逮捕され、ソウルは完全に静かになってしまう。80年には光州で大学の学生、民衆が蜂起する。この弾圧は非常に厳しいものだったが、予想を超えた学生と市民の行動により、光州は完全に解放都市になった。民衆が武器をもって抵抗したのは、民衆と政権の間の決定的対立であったが、民主化運動が再生するためには金大中が殺されてはならないと、考えられていた。
81年、金大中は死刑が確定するが、減刑で無期となる。日本では司馬遼太郎、松本清張、大江健三郎などが支援した。宮沢喜一は全斗煥に密使を送り、レーガンもまた支援の側にまわる。82年に出獄した金大中はアメリカに行くが、金泳三には任せられないからと、84年、韓国に強行帰国。
 それから三年後、民主抗争が爆発する。この時は学生の行動を、ソウルのサラリーマンが支援する。このサラリーマンというのは、経済成長の中で出てきた新しい働き手だった。盧泰愚大統領は大統領直接選挙制をひくことを宣言。5・18は国家的な記念日になっていて、今年の5・18は光州の27年目の記念日。光州は民主化の聖地になっていて、博物館がある。5・18にそこに集う人達は、韓国の民主主義の実現を祝うために国旗をふり、国家をうたう。
 大統領の選挙が復活した後は、選挙を通じた革命になる。最初は盧泰愚が勝つ。次に金泳三。金大中は97年に当選。そのもとで南北首脳会談がもたれる。盧武鉉大統領は2002年。これはインターネットで勝った選挙だった。これからは「革命後の世界」である。
 最初は非暴力の直接行動による革命。次は選挙を通じた革命。これで1972〜2002年、30年間の韓国民主革命が完成した。

 問題は、それが日本にはぴんときていないこと。日本は、韓国で起こったことへの畏敬の念が足りない。畏敬の念を持って、韓国人と議論をしていく必要がある。何を議論するのか? 他でもない、歴史問題、慰安婦問題である。87年に民主化が起こったために、韓国の中で慰安婦の人が名乗り出てくることができるようになり、慰安婦問題が日本に入ってきた。93年に日本政府が対応。日本が過去の植民地支配、歴史に反省的になり、それが慰安婦問題にあらわれるというのは、韓国の変化が日本に及んだということであり、そのことを日本は十全に受け止めなければならない。
 そういう良い変化を韓国は日本に与えてくれた。更に韓国に望むことは、それを徹底してやってほしいということ。慰安婦問題で日本がアジア女性基金という方式をとったことに対して、韓国で強い反対が起こった。キリスト教会も、女性団体も、民主化運動をやってきた人たちも皆、反対した。TK生も安江良介もそうだった。
 確かに、政府の決めたアジア女性基金は曖昧で、中途半端だった。しかしそういう不十分なものであっても、それを受け取りたいという人が出てきたら、その意思は尊重されるべきではないのか。韓国の民主化運動を戦ってきた人たちが、日本が自分たちの影響のもとで、不十分ながらも歩みだして変化し始めた時に、不十分なものはだめだといって、慰安婦がアジア女性基金を受け取ることを認めないというのは問題ではないか。
 日本で運動している人たちもそれに同調している。反対というが、自分の責任はどうなるのか。戦後50年もたち、これだけのものしか日本の政府が出せないのだとしたら、それは自分たちの責任である。反対してすむ問題ではない。このことは、韓国人の問題でもある。あれだけの輝かしい民主革命をなしとげた韓国人が、更にもう一歩進んで、日本に影響を与えて欲しい。そう願っている。

■佐藤優さんのコメント

 佐藤さんからは、ご自身の同志社大学神学部時代の経験が語られた。
 学生時代において、在日朝鮮人・韓国人の学生との付き合いは、自身の思想形成に大きな影響をもつものだった。神学部の教授・学生ら全学の課題となっていたのは、1975年の「11.22 学園浸透スパイ団事件」であり、この事件で死刑判決を受けていた同志社大学神学部の先輩の金哲顕を救うことだった。金氏は、佐藤さんが神学を学んだ緒方純雄教授によってユルゲン・モルトマン『希望の神学』を知り、読んでいた。佐藤さんは、金氏が北朝鮮にわたっていたとされる時期に、それとはつじつまの合わない証言があるとの立論をもって金氏を擁護しようとしていたが、 ある時期に緒方教授から、金氏が北朝鮮にわたっていることを聞かされると共 に、「嘘をまじえた運動をやってはならない」と諭された。
 佐藤さんにとって在日朝鮮人・韓国人の学生との付き合いは数年間のものであったが、真剣な数年間だった。知識人としてどうやって生きていくかということを真剣に悩んでいた彼らのことを、和田さんの話を聞きながら思い出していた。

■東郷和彦さんのコメント

 東郷和彦さんからは、次のような問題提起があった。
 東郷さんは、ライデン、プリンストン、台湾、カリフォルニアの各大学で学生たちに、アジア問題を考える真剣な講義をもってのぞんできた。特にアメリカでは、在米韓国、中国人学生、また中国、韓国本国から来ていた多くの学生たちは非常に元気だったが、日本人学生は元気がなかった。
 韓国、中国の学生たちの心をつかむにはまず頭を下げないといけない。しかしそれだけでは駄目で、歴史の真実を客観的に語る必要がある。
2005年春休み、プリンストン全米韓国人学生協会で講演する機会を得た。そこでは、日韓関係の陰影のある多面性を話したいと考え、次の三点について話をした。
(1)安重根について。2005年は日露戦争100周年だったが、安重根の『東洋平和論』には、日本がロシアに勝った時に、わがことのように喜んだという記述がある。自叙伝と自身の哲学を書き残すはずだったのだが、書き終える前に処刑され、その未完の本が『東洋平和論』となった。長い間、東洋を圧していたロシアに日本が勝ったことを、韓国人がどれだけ喜んだか。しかしその日本が我々を圧したために、我々は立ちあがらざるを得なかった。こうした安重根の思いと、彼の看守であった「千葉」という日本人憲兵との関係も、今の韓国人は知らない。千葉は、日本人として申し訳なかったと安重根に謝罪している。
(2)映画『蛍』。高倉健、田中裕子が出演している映画。自分は死ぬが、それは天皇陛下のためであるとともに、韓国のために死ぬのだと主人公の朝鮮出身の特攻隊の兵士は言う。そうした青年の存在は事実だっただろうと思うが、これも韓国には知られていない。
(3)薩摩焼のふるさとである鹿児島・美山は、1598年に朝鮮から陶工たちが連れてこられた地であり、東郷さんの祖父である東郷茂徳氏の生地である。その400周年の際、美山において、東郷さんは日本人と韓国人の、ある「和解」とも言える体験をした。それは感動的なものであった。司馬遼太郎の『故郷忘れじがたくそうろう』が美山のことを書いています。」

 こうした三点を通じて学生たちに伝えたかったことは、日本は頭を下げるだけではなく、いいこともあったのだ、ということ。

■感想

 三名の論者の方々の話の膨大な情報量とそれを語る熱さにめまいを覚えつつ、の数時間でした。いくつも記憶に残ったことがありました。
 和田さんが「民主化の困難」ということをおっしゃったのは韓国についてのことでしたが、拉致問題による北朝鮮バッシングの中で、同国を奇怪な国であると我々が言いつのり、現体制の打倒を安直に口にするとき、「民主化というのはいったんできてしまえば簡単に思えるのだが、本当はそうではないのだ」という和田さんの言葉は、北朝鮮という国家が今後、現下の世界の中でソフト・ランディングしていくために、同国と世界、アジアが耐忍すべき「困難な時間」を語っておられるようにも思えました。
 深く重い、そして過酷な歴史的経験の幾つもの破片が、各個人の体の肉の中に巻き込まれていて、その破片は、本人が生きている限りうずくものだろうと思います。アジア女性基金に、戦後日本民主主義のいわば「水準」を示すものとして言及し、アジア女性基金は十分なものではないと和田さんが言われる時、市民活動家としての和田さんの視線が、その個々の人間たちのいつまでも終わらない経験の深さと重さに触れているような印象を持ちました。
 東郷さんの言われた「元気のない日本人学生」たちは、どうにも他人事とは思えませんでした。私は、彼らや彼女らよりまず間違いなく年上のサラリーマンですが、やはり元気がない(自分で言うのも変ですが)。うつむき加減になってしまう自分のあり方は、一体何なのだろうかと思います。私が忘却し、忘却したことすら忘却しているような何事かがあるのではないか。そんなことを思う時が非常にしばしばあり、猛烈に不安になる。そこからどうやってバランスを取り戻すか。佐藤さんの言われた「自分の頭で自由に考えること」に、どこか吐き気を伴うような飢餓感をかき立てられるのは、そんな時です。

(角川学芸出版・第一編集部一般書グループ 小島直人)