情況サブプライムから世界金融恐慌へ

▼バックナンバー 一覧 2009 年 5 月 18 日 伊藤 誠

伊藤 誠
経済学者

1 マルクスの逆襲

 サブプライム危機から世界恐慌へ、二〇〇八年九月の大手証券会社リーマン・ブラザーズの破産を一契機として、世界中の憂慮が深まっている。株式市場は暴落をくりかえし、欧米の銀行はあいつぐ公的資金投入にもかかわらず、経営危機を容易に脱しえず、救済的な買収や合併により消滅してゆく金融機関も数を増している。
 金融恐慌は、実体経済にも破壊的影響をおよぼし、それがまた金融市場に反作用して、金融と産業の崩壊が悪循環を形成しつつある。国際通貨基金(IMF)は、その経済見通しを最近大幅に下方修正し、アメリカ、EU、日本に二〇〇九年はいずれも実質経済成長がマイナスとなるとみている。国際労働機関(ILO)は、世界の失業者が二〇〇七年の一億九〇〇〇万人から、二〇〇九年には二億一〇〇〇万人に達するものと推定しているが、それも暫定的な数値で、過小評価となりうることもみずから認めている。
 こうした世界的な経済危機ないし経済恐慌(英語ではともにエコノミック・クライシス)は、なにに由来し、どのような経済理論によってその解明がおこなわれうるのであろうか。一九八〇年代からすでに三〇年近く資本主義世界の支配的潮流をなしてきた新自由主義やその理論的基礎とされた新古典派ミクロ経済学には、その解明は期待できないのではなかろうか。そこでは市場での自由な取引の作用にゆだねることが、国内的にも国際的にも最も効率的で合理的な経済秩序を形成する方途であると信じられているからである。そのため、最近の金融危機の原因も、市場での取引に十分な情報を与えない金融商品の欠陥、レバレッジ効果による投機的利得を期待したヘッジファンド(大口投資信託)の運用責任者やその親会社の銀行経営者などの財務上の隠蔽、詐欺、さらには怠惰、無能、強欲などの局部的問題に還元される傾向が強い。メディア、新聞などの多くもその傾向に流されて、金融危機の原因追及を、市場のルールや法規に違反する財務会計上の隠蔽行為や、過度の投機取引により巨額な損失を生じて、社会的に被害をおよぼす罪をおかした経営者や責任者の追及に関心を集中し、しばしば犯人捜しのような報道に終始していることが少なくない。そこからふりかえってみても、新自由主義や新古典派経済学の見地に依存するかぎり、今日のような経済危機が現実に生じても、それをもたらす資本主義市場経済に内在的な矛盾や困難の理論的解明には、認識が深められず、むしろそのような根源的な探求には認識上の障害が与えられるおそれが大きいとみなければならない。
 むろん、メディアの一部には、こうした制約をこえる批判的見地の可能性に目を向けようとする論調もみられる。一方で、こうした金融危機を招いた新自由主義的政策を反省し、社会経済生活への破壊的打撃を緩和する方向において、市場経済への社会的統御や介入を重視するケインズ主義や福祉政策の再評価が論議される方向がめだってきている。アメリカにおけるオバマ民主党政権への民衆の選択もこれに支援されてのことであり、それが新自由主義の世界的な終焉の始まりとなる可能性も強い。他方で、さらに問題の根源にさかのぼり、今日の世界恐慌を解明し理解する枠組みとして、マルクスの先見性を強調し、あるいはこれをマルクスの逆襲とする論調もみられるようになっている。
 たとえば、ジャパンタイムスの二〇〇八年三月二五日に転載されているイギリスの日刊紙ガーディアンのサイモン・コールキンの論説も、その一例といえる。そこでは、現代のグローバリゼーション、格差の拡大、貧困な人びとの搾取、中央銀行による諸銀行の救済、資本への人びとの隷属化などをあげて、それらすべては、それらを変革する可能性と必要性とあわせ、今日の世界恐慌へのマルクスの先見性を示していると論じている。
 実際、現在進行している深刻で全面的な世界金融恐慌の解明のために、適切な理論的基礎を豊かに与えてくれる古典的著作として、なによりもまずあげられてよいのは、マルクスの主著『資本論』であろう。二〇〇八年一一月一六日付『朝日新聞』では、日本の『蟹工船』ブームのような風潮で、ドイツでは『資本論』の売れ行きが増し、約三〇大学でその読書会の輪が広がっているという。こうした現代世界の危機とマルクス理論再評価への機運を予見するかのように、二〇〇七年七月にいいだももの大著『恐慌論』(論創社)が上梓されている。そこでは、宇野弘蔵の恐慌論を継承して『資本論』の恐慌論を完成させる試みをすすめるうえで、最も深い理論的示唆をえられる著作として、拙著『信用と恐慌』(東京大学出版会、一九七三年)があげられている。とくに、宇野が事実上重要な現象として指摘しつつ、理論上は捨象した投機取引とそれを媒介する信用の役割とを、拙著が恐慌論の原理にくみいれて考察をすすめた意義が強調されている。具体的には、古典的景気循環の好況末期に、労働力商品に対する資本の過剰蓄積にともなう労賃の上昇から、商品生産物の市場価格にも特殊な変動が生じて、投機的取引が促進され、それを媒介する信用の過剰な拡大によって、利潤率の低落と衝突する利子率の上昇が促され、それを介して、周期的恐慌の発端が投機的在庫商品の投げ売りからはじまる論理を追究した、拙著の試みが評価されているのである。もっとも、その見解を拙著に論及しつつ展開するさいに、好況末期の労賃の上昇から商品生産物のなかに特殊な市場価格の上昇をみるものが生ずる論理をどう理解すべきか、あるいは、マルクスが貸付可能な貨幣資本に特有な表現としていた「資本の過多(プレトラ)」と現実資本の過剰蓄積の規定とを区別して用いるべきではないか、といった問題点もいいだ説には残されている。しかし、いいだ恐慌論が拙著を介して重視している『資本論』の恐慌論の一側面は、投機取引の過度な拡大とそれを助長する信用制度の役割のうちに、資本蓄積全体の自己崩壊をもたらす重要な契機を理論化しようとしていたところにあり、それはむろん同意できる論点である。
 現在進行している金融恐慌をふくめ、新自由主義的グローバリゼーションの時代に反復されているバブルとその崩壊にも、その側面は不可欠な考察の理論的基準となるところであろう。とはいえ、いいだ『恐慌論』は、そのことを終始強調しながら、今日の世界金融恐慌の分析は直接の課題の外としており、その課題にはほとんど本格的に論及していない。原理的な恐慌論としての考察基準が、現在の焦眉の問題にどう適用され活かされるのか、マルクス学派としてさらに協力して取り組まなければならない緊急の現実的課題がそこに浮上しているわけである。

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