現代政治の深層を読む法の支配と人の支配

▼バックナンバー 一覧 2009 年 4 月 20 日 山口 二郎

 今回は何と言っても、民主党の小沢代表の公設秘書が逮捕された件を取り上げざるを得ない。この件に関しては、予想以上に検察批判の声も大きく、小沢氏も持ちこたえている。鈴木宗男、佐藤優両氏に対する無理筋の立件と、彼らの勇敢な反駁のおかげで、検察は時として無茶なことをするというイメージが、世の中にある程度広がっているようだ。
 言うまでもなく、検察は法の支配の一翼を担うはずである。しかし、日本では法の支配という概念が的確に理解されていないように思える。
 法の支配とは、すべての国民が法を遵守し、正しい生活を送ることを意味するのではない。法の支配とは、もっぱら権力者の側を縛る理念である。国家権力が法を守り、恣意的な権力行使をしないことこそ、法の支配の意味である。法の支配の反対は、人の支配であり、権力者が自由に個人を拘束できる体制である。
 検察は常に法に照らして厳正に対処すると言う。しかし、ある人に対しては厳正に権力を行使し、他の人の同様な事案は不問に付すという恣意的な選択を検察が行っていることが、今回の事件から浮かび上がった。
 法の適用があまりに恣意的に行われるというイメージを国民が持てば、法の支配は崩壊するのである。検察が小沢資金疑惑について、政治資金規正法違反だけで決着したことは、人の支配の表れである。
 検察の行動を見ていると、日本における法の支配をめぐる二重構造が根底に存在することが分かる。法とは言うまでもなく、建前である。しかし、日本社会は建前で支配されているわけではない。インフォーマルなルールとフォーマルなルールの二重性という現象は日本だけのものではない。それにしても、日本ほど違法状態、違法行為が放任され、日常の秩序の一環をなしているという国はないように思える。
 最も分かりやすい例が、自動車の速度規制である。一般道路の上限速度は、日本では時速60kmである。アメリカやヨーロッパでは、80-90kmが普通である。およそ守れない、あるいは守る必要のないルールを設定することによって、普通のドライバーはすべてスピード違反をすることになる。違法の日常化の上に、道路交通の秩序が成り立っている。すべての人が何らかの違法行為をしている中で、警察や検察はその摘発について大きな裁量を持ち、その裁量こそが権力の源泉となる。一応違法行為だと言われれば、なぜ自分だけがやられるのだという抗弁は通らない。
 欧米であれば、守る意味のないルールはそもそも作らない。しかし、作ったルールは守らなければならない。イギリスでは、事の善し悪しは別にして、そこらじゅうに監視カメラが置かれてスピード違反の自動取り締まりを行っている。上限速度は緩やかだが、そのルールの適用は厳格に行われているのである。
 検察の恣意的な裁量を排除し、日本に真の法の支配を確立することがいかに困難なことか、今回の事件でよく分かった。まず我々の生活実感に照らして、守る意味のないルールを改めることから始めるしかない。政治資金の世界でも、守る意味のあるルールを作り、それについては厳格に適用するという方向に改めることが必要である。