排除の構造第二回

▼バックナンバー 一覧 2009 年 6 月 3 日 香山 リカ

 新型インフルエンザは日本国内でもじわじわ広がりつつあるが、社会のパニック状態は少しおさまったようだ。何しろ一時は、マスクも売り切れ、手洗い用の消毒液も売り切れ、ネットではこういった品が5倍、10倍の値段で取引きされていたという。
 町中の薬局に勤めている女性から、興味深い話を聞いた。店長に「従業員はみなマスクを着用するように」と言われた。彼女は、店頭でもマスクをつけて業務にあたっていた。マスクは店長から配布されたものだ。
 しかし、マスクを買いに来たお客さんに売るマスクはない。すると、何人かのお客さんにこんなことを言われるようになったという。
「どうしてこの店の人たちがつけるマスクはあって、お客に売るマスクはないのよ!おかしいじゃないの。あるなら売りなさいよ!」
 クレームの声は次第に増えてきて、結局、店長は従業員に「もうマスクはしなくていい」と指示を出したそうだ。ちょうど感染者数がどんどん増えているときのことであった。
 実は、その薬局の女性とは、かねてから軽度のうつ状態でクリニックに通っている“患者さん”だ。私は診察室でこういった話を聞いたのだが、ただでさえ気持ちが滅入りがちな彼女は、このクレーム攻撃やマスクをつけろ、はずせ、といった騒動で、すっかり参っているようだった。
「こうなると、もう感染予防とか拡大予防とか、そういう話じゃなくなってますよね…」
 まさに彼女の言うとおりだ。従業員もお客さんも、空中に漂っているのかどうかわからないウィルスに、そしてお互いに対して疑心暗鬼となり、あえて死語を使うならヒステリックにマスクをつけたりはずしたり「売れ!」とすごんだりしている。それはすでに感染云々といった次元を超えた警戒のための警戒である。

 これまでも日本では周期的に、“見えない敵”を過剰におそれ、それを躍起になって排除しようと虚空に向かってナギナタを振り回すような集団的行動が起こった。
 あなたのマンションにも忍び寄る毒グモ、セアカゴケグモ。建材から漂い出て健康被害を及ぼす化学塗料や携帯電話から発せられる有害電磁波。そして、すでにこの町内にも入り込んでいるかもしれない性犯罪者やテロリスト…。
 そういった“見えない敵”がたまたま顕在化したような事件でもあると、私たちのパニックはすぐに極限にまで達し、「危険なものを探し出して、つまみ出せ!」という大合唱が起きる。
 繰り返すが、この“見えない敵”は今はまだ遠方にいるとか、はっきりと特定できる形をしているとかではない。あるものはあまりに小さく、そしてあるものは私たちにそっくりだ。だから、ふつうの感覚ではそれを判別することはできない。
 さらに、私たちはそれが自分の生活の内部に侵入するのを防ぐ“水際作戦”にはすでに失敗し、“見えない敵”はごく身近なところまでやって来てしまっている、という実感を持っているのも特徴だ。
 だからこそ、まさに目に見えないウィルスにより引き起こされるもので、しかもやっぱり水際作戦には失敗して国内への侵入を許した今回の新型インフルエンザは、常に“見えない敵”の脅威におびえる私たちにとっては、ある意味で非常に慣れ親しんだ感覚をもたらすものでもあったのだ。
——ああ、あれね。
——やっぱり、またか。

 イギリスの社会学者ジョック・ヤングは、『排除型社会——後期近代における犯罪・雇用・差異』(洛北出版、2007年)の中で、市場競争が激化し始めた70年代以降を「後期近代」と呼び、その特徴をひとことで「排除型社会」とまとめている。
 排除の前にあるのは、まずランク付けと分断である。それまでは欧米であっても、地域、職場、学校は、いわゆる“ウチの会社”といった言い方に代表されるひとつのまとまったコミュニティを形成していた。犯罪者や逸脱者にまで、そうなった原因を追究して更生させれば、社会への再び取り込んで行くことも可能、と考えられていた60年代までの「近代」を、ヤングは「包摂型社会」と呼んでいる。
 それが、後期近代になり様相は大きく変わった。
 人々は、「私はこの社会の中でどんなランクにいるだろう?」と考え、同時に「あの人は?」と他者を格付けしたり、「あの人のおかげで私は不当な目にあわされているのでは?」とその他者を自分に不利益を与える有害な存在だとみなすようになる。
 そしてその有害性——それはあくまで仮定でしかないのだが——が明らかになり、周囲の人たちもそれに同意してくれたとなると、「私のランクは?」と戦々恐々としていた人が一変する。「あんな危険な人物はここから出て行ってもらうしかない」と立ち上がり、排除する者となるのである。
 しかもその排除の背後にあるのは、「これは私のためではなく、みんなの安全と幸福のためにやっているのだ」という正義感の大義名分があるから、事態はよけいに厄介だ。 
 ヤングは、排除型社会で見られる排除を次の三つに分けて考えた。
(1)労働市場からの経済的排除
(2)市民社会の人々のあいだで起こっている社会的排除
(3)防犯・安全対策の名の下に進められる犯罪予防における排除的活動

 しかし、実は排除にはもっとさまざまな種類、レベルがあると考えられる。たとえば、今回述べた「新型インフルエンザウィルスの排除」という問題。これは社会的排除ではなくて、単純に健康や保健の話だろう、という人もいるかもしれないが、そうではないことは冒頭のマスクをめぐるエピソードを見ても明らかだろう。
 では、これらの本質には何があるのか。私たちはいったい何をどう排除して、私たちの生活をどうしたいと思っているのか。また次回、考えてみよう。