ベイルートダイアリー第1回
パソコンの前に座って国連のレポートとにらめっこをしている。去年の11月に発表されたコンゴ(民)についてのレポートは合計287ページ。それ以前に発表された2つのレポートも読まなければならず、総計441ページのドライで整然と書かれた文章を一行ずつ読み進めていくには、かなり時間がかかりそうだ。自分の本職は報道写真。カメラを持って一日中歩き回ってもまったく疲れを感じないが、長時間じっと座って読み書きをすることには慣れていない。そのうち腰が痛くなってくる。ものの10分もしないうちに台所に行ってお茶をいれる。レバノンの首都・ベイルートにあるアパートの6階。いまの私の住まいだ。
2005年から2007年の2年間、コンゴに滞在し国中を駆け回って写真ルポを行った。写真では表現できなかったものを書き残したいとコンゴでの体験記を去年書き上げ、幸いにも第一回「田原総一朗ノンフィクション大賞」で佳作をいただいた。この原稿を単行本化するため、昨年10月に2年ぶりにコンゴを訪れた時のルポを追加しようと、今コンピューターのモニターとにらめっこをしている。このレポートは武装グループ、コンゴ政府軍、希少貴金属の売買、そして武器の不法取引について詳しく記された最新のレポート。私が現地で体験したことの裏付けとして大切なものだ。1998年に始まったコンゴ第二大戦はアフリカ大戦とも呼ばれ、第二次世界大戦以降最多の犠牲者を出している。
アパートの外からけたたましくクラクションの音が聞こえてくる。地中海から吹いて来る甘く湿った海風と、煤っぽい排気ガスが入り混じった空気を吸いながらバルコニーから外を眺める。ガラス張りでモダンなデザインの銀行のビルやしみだらけの古びたコンクリートのビルが無秩序にびっしりと立ち並んでいる。下を見下ろすと新品ピカピカのベンツとクラシックカーに近いペンキのはげたベンツが押しあい圧し合いしている。車と車の間を日本から輸入されたスクーターが蟻のように行き来している。
レバノンの首都ベイルートに移住して2年半。15年間続いた内戦、2006年のイスラエルとの戦争、政治的暗殺テロなど常に戦火に晒されてきたためだろう、ベイルート人はいらいらして落ち着きのない人が多い。前の車が5秒もつっかえるとクラクションを鳴らし始める。国民の半分以上が鎮静剤を飲んでいるとジョークを言う人もいる(薬局の数がやたら多く、医者からの処方箋無しで何の薬でも手に入る)。この騒がしいコンクリートジャングルとコンゴの深緑のジャングル。ジャングルはジャングルだがお互いまったく縁がないように思えるが、実はそうではない。
私とレバノンとの親密な付き合いはコンゴで始まった。
レバノンは昔から貿易で栄えた地域だ。古代から世界各国を相手に通商を行なってきた。1975年に内戦が勃発するまでは中東のスイス、首都のベイルートはパリと呼ばれていた。15年間続いた内戦中に多くのレバノン人は母国を離れ世界中に散らばっていった。その結果、レバノン人の8割近くは国外に在住している。私がコンゴ(共)の首都ブラザヴィルに到着後、冷蔵庫はどこで売っているのかと聞くとレバノン人の店に行けとそっけなく言われた。アフリカ各国へ移住した商売上手のレバノン人は家庭電化製品、自動車、発電機などアフリカで手に入れにくい物資の市場を牛耳っていた。戦争で鍛えられたレバノンの人たちのタフさはアフリカでも十分通用する。取材のためにコンゴ河を渡りコンゴ(民)の首都キンシャサに渡るたびに、まずレバノン料理屋で昼食を済ませ、その後レバノン人がやっている床屋で散髪を10ドルでしてもらうことが習慣になっていた。ここベイルートでも近所の床屋で同じく10ドルで毎月散髪をしてもらっている。
6階にあるアパートのベランダから見下ろせる交通渋滞は日々、悪化している。その理由は、時化のように大きく激しく揺動するレバノンの政情がここ数ヶ月安定しているからだ。レバノンの夏、オレンジの花が一斉に開き甘い香りが漂うように、ホテル、レストランや飲み屋が開店、電灯が明るくともり賑やかになった。それゆえ車の数も増えるわけだ。サブプライムで世界経済が麻痺した最中でもレバノンの景気は衰える気配を見せなかった。その主な理由の一つは世界中に散った、特に影響の少なかったアフリカや南アメリカに在住しているレバノン人からの送金のためだ。ほんの一年、数ヶ月前までは鉄砲の弾が飛んでくる現場や、揮発性の高い選挙、政治家の車爆弾による暗殺などを取材していた。
揮発性の高い選挙というのは、Volatileと形容された2009年の総選挙を、私なりに和訳した表現だ。イスラム教、キリスト教ともに複数の宗派が共存するレバノンでは、政治的バランスを保つことを目的に、宗派ごとに政治権力を分け合っている。キリスト、イスラムの各宗派、そしてその他の宗教徒の間で、国会での席の割り当てが決められているのだ。さらに大統領はキリスト教マロン派(カトリックの一派)、首相はイスラム教スンナ派、国会議長はイスラム教シーア派から選出される。しかしここ数年、親欧米派のスンナ派とマロン派大半の連合と、イランやシリア寄りで人口が急増しているシーア派が中心の連合との対立が悪化している。私が暮らし始めた2007年から2008年にかけて、国会で過半数を占める親欧米派の議席を覆さんと、スンナ派、マロン派の国会議員を標的にした車爆弾による暗殺が数々行われ、2008年5月には武力対立に陥った。そのような状況で行われたのが2009年6月の総選挙だった。
ここ最近は旅行雑誌、航空会社の機内誌などの依頼を受けて、「中近東のパリが蘇った」という類の写真を、レストランやナイトクラブの賑わいに託して撮ることが多くなった。こうした選挙後のハネムーンの期間がどれくらい続くのだろうか、というのがレバノン人の最大の話題。とにかく平穏な間に儲けるだけ儲けようという雰囲気だ。
窓を閉め、街の騒音を和らげ、国連レポートのリサーチと自分の経験を頭の中で整理し、それらをどう組合せて文章を書くかをしばらく考える。するとまたいらいらして、中断。電子メールをチェックすると、お前は大丈夫か、無事かとの内容のものが何通も届いている。いったい何のことだと読み始める。
月曜の(1月25日)午前2時30分にベイルート空港を発った首都アジス・アベバ行きのエチオピア航空のボーイング737−800が離陸数分後に地中海に墜落した。お前は乗っていなかったのかと友達からメールが届いたのだ。昨年の10月にコンゴを訪れた時も同じ便で飛び、アジス・アベバから乗り継いでルアンダの首都キガリへ。そこからは車で国境を越えコンゴに渡った。この夏ベイルートを離れアジス・アベバに転居することが決まり、同じ便で早朝にアジスへ飛ぶ予定だ。エチオピア航空はアフリカの航空会社の中では安全性とサービスがよい会社の一つ。ここ20年で墜落事故は2件。そのうちの一つはテロ、もう一つは鳩の群れによるエンジントラブル。墜落の原因は悪天候だろうと今のところ言われている。偶然とは言えそれにしても気味が悪い。新聞社で働いていた頃は飛行機の墜落事故の取材は幾度もやったし、事件があるとニューズルームから連絡が入り次第、現場に駆け出していたものだ。しかし今回は腰が上がらなかった。フリーになってから事件ものの取材は、依頼があればする程度。現在は、雑誌に掲載される大きなルポの類か、長期間じっくりと腰をすえて取材できるものを中心に仕事をしている。
しばらくして、掃除の手伝いをお願いしているエチオピア人の女性ハヤットさんがアパートにやってきた。すぐさまテレビのスイッチを入れ墜落事故のニュースを見はじめた。「私の友達があの飛行機に乗っていました」と痛々しい表情で語る。彼女の友達はレバノンへ家政婦として出稼ぎ渡航。15年後、やっと故郷へ帰ることができる、その途中であった。「探索隊はレバノン人しか救助しないに決まっている」とハヤットさんはポツリとこぼした。レバノンや湾岸の富んだ国々にエチオピア、バングラデッシュ、フィリピンなどの貧しい国から出稼ぎに来ている人は数多い。レバノンへ出稼ぎでやってくるほとんどは女性で、下層階級として扱われ人権侵害が絶えない。彼女のコメントはそういう事実から出たものだ。このアジス行のボーイングにはアフリカでビジネスを行っているレバノン人と帰郷途中のエチオピア人がほぼ半々の割合で乗り合わせていたようだ。「レバノン海軍だけではなくフランスやアメリカからも捜索隊が送られたそうだから生存者は差別されずに救助されるよ」と私は彼女をなだめようとする。「フランス大使の奥さんも乗っていたそうだから」と言いかけたが、大使婦人を探すためにフランスが捜索隊を送ったのだと受け止められかねないので思わず口をふさいだ(それが主な理由ではないとは言い切れないだろうが)。
飛行機が墜落した近くの海岸に破片らしき物や椅子のクッションが流れ着いている様子を地元のテレビ局が流していた。それを見ていると、私がほぼ一年前に目撃した、溺死したソマリア人とエチオピア人の遺体が転々とするイエメン南部の砂浜の様子が思い浮かんだ。毎年、貧窮極まった人々は密輸者に全財産を払い、命を賭けソマリア北部の海岸から小さな木船に詰め込まれて、対岸の中東・イエメンを目指し、エデン湾を渡る。真夜中に浜辺に近づくと密輸者が乗員を真っ暗な海に蹴落とす。方角を見失った人、泳ぎの知らない人の遺体が朝浜辺に打ち上げられる。
濡れてはいるが服装の整った若い女性がハンドバックを握り締め、砂浜に横たわっていた。パッチリと開いた彼女の瞳は早朝の深紅色の空を眺めていたが生気は失われていた。命を海に散らしたハヤットさんの友達のことを考えているうちに、イエメンの砂浜で遭ったこのイメージが頭に浮かび、なんともやり切れない気持ちになる。けたたましいクラクションの演奏が始まり、我にかえる。今でも遺体はイエメンの海岸に打ち上げられ、コンゴでは終わりの見えてこない紛争にために多くの人々が命を失っている。
とにかくこの国連のレポートを読み終えなければ、とパソコンの画面をにらみつける。
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武装グループによってコントロールされている金鉱で奴隷同様に働く少年。希少、貴金属がコンゴの紛争の根源となっている。広島に落とされた原爆に使われたウラニウムもコンゴで採掘された。