ベイルートダイアリー第2回
レバノンのバレンタイン・デーはビター・スイート。毎年2月14日が近づくと花屋やお菓子屋さんの店頭、無秩序に街中に散らばる看板がバレンタイン・セールの宣伝で真っ赤に飾られる。しかしレバノン人の脳裏には苦い思い出が焼きついている。
2005年2月14日午後1時、ラフィーク・ハリリ首総の自動車行列が沿岸道路を走り抜く。装甲され車体がずっしりと落ちこんたベンツがヨットクラブにさしかかった瞬前、日本で盗まれた三菱カンターに詰め込まれた1.8トンの火薬が爆発、総理と21人の命を奪った。
「レバノンの父」、「ミスター・レバノン」の愛称で呼ばれていたハリリ総理の暗殺後間もなく、「Cedar Revolution(杉の革命、国旗に描かれているレバノン杉にちなんで)」と名付けられた運動が首都ベイルートで勃発する。レバノンの政情を事実上コントロールしていたシリア。ハリリ総理の爆破テロの関与の疑いに問われ、相次ぐデモや他国からの度重なるプレッシャーのためにレバノンに駐在していたシリア軍はレバノンから撤退する。政権も親シリア派から反シリア派(欧米恩恵派)へと交代することとなる。
今年のバレンタイン・デー。朝は青空に覆われ爽やかだった。普段乗っているバイクをアパートに置いて徒歩で家を発つ。いつもけたたましく鳴っているクラクションは聞こえず、辺りは日本のお正月のように静まりかえっている。ハリリ首総の5周期の野外集会のためにあちこちで道路封鎖されているからだ。集会が行われるダウンタウンに近づくにつれ、支流が合流して大河になるように人の流れが次第に膨れ上がっていく。レバノンに移ってから毎年この集会を取材してきた。チェックポイントで兵士に荷物検査とボディーチェックを受けたが、いつも見かける装甲車や戦車は見当たらず以前よりリラックスした雰囲気だ。もちろん兵隊は機関銃を肩に下げているが、毎日見かける風景なのであまり気にならなくなった。
ハリリ総理の遺体が地下に眠っているモスクを背景に数千の参加者がすでに集まり「フリーヤ、シヤダ、イスティクラル(自由、統治権、独立)」と、「杉の革命」時に唱えられたフレーズをアラビア語で叫んでいる。ブルー・モスクと愛称されているこの建物は、高台から見える地中海のように鮮明な青いタイルが屋根を覆っている。青い空と青いモスクを背景に、ハリリ総理の写真に混ざって多色多様な旗が振りかざされ、レバノンの複雑な政情を色鮮やかに描写している。この幾種類もの旗はレバノンの数多くある政党のものだ。この日目に止まるのは欧米恩恵派のものだけ。イスラム教シーア派の政治組織ヒズブラ(欧米では過激組織とみなされている)が率いる親シリア派の政党の数々の旗は見かけられない。
レバノンの政党のほとんどは同じ宗派によってまず大まかに区分することができる。その中に存在する個々の政党の多くは「ザイーム(Zaim)」と呼ばれる古くからの有力者とその家系(門地)に属する人間によって指導されている。レバノン人はまず初めにザイーム、宗派、そして最後に国家(レバノン)という順番に忠義を誓っているとよく言われる。昨年6月に総選挙が行われたが、投票所の外では候補者の名前がすでに印刷された投票用紙を各党から送られた人たちが配っていた。ある党(結果的にザイーム)に属する人たちはこれを受け取り折りたたんで投票箱に入れる。この忠誠の報酬として、ザイームのコネを使って商売や仕事口を見つけてもらったりするわけだ。1975年から1990年にかけてのレバノン内戦では、各政党の独自の武装ミリタの間で激しい戦闘が繰り広げられ、街は廃虚と化した。地元のサッカーチームの多くは、おおまかにはこの政党の系列で結成されている。各党のファン同士の衝突が懸念されるため、サッカーの試合の観覧は禁止されている。空っぽのスタジアムでのプレーがテレビ中継されるだけだ。レバノンでは中立したメディアは稀だ。経済力のある政党はテレビ局や新聞を所有し自らのプロパガンダを流している。
「レバノンの政情をはっきり理解していると言いきれる者は、本当は無知な人間だ」と知人から聞いたことがある。私がレバノンに来てから数ヶ月して、もやもやとしたレバノンの政情のイメージが少しははっきり見え始める。だがしばらくして何らかの変化が起こりぼんやりと霞んでしまう。こんなことを2年間半繰り返しているうちに、情勢に追いつこうとすること、遅れをとりもどそうとすること、どちらにも正直なところうんざりしてくる。親欧米派、親シリア派の双方の集会によく足を運んだが、望遠レンズで撮っても、広角レンズで撮っても、旗の色やデザインは変わるものの全てが同じような写真に見えてくる。
前回にも書いたが「杉の革命」後、欧米恩恵派と親シリア・イラン派との対立が悪化し、親欧米派の政治家の暗殺が続いた。私はベイルートに到着後しばらく、黒こげの車やその破片が散らばる爆撃の現場、その人たちの葬儀で人ごみにもまれ、夏は汗まみれで、冬は雨でずぶ濡れ(カメラ以外は)になって写真を撮っていた。ハリリ首相と政治家7人の暗殺を行った犯罪者を裁くための特別法廷が国連によって2006年にオランダに設立された。すでに4年の歳月が流れたがいまだ被告人無しの法廷だ。真実が暴露されることによって、火薬庫のようなレバノン内政とその隣国との間で保たれていたデリケートなバランスが崩れ、イスラエル・パレスチナ問題と混ざり合って(実質すでにそうなっているが)、ただでさえ混沌とした中東の情勢がさらに悪化することを、レバノン人だけはなく他国のリーダーたちも懸念している。このようなプレッシャーの下、特別法廷で真の犯人たちが起訴されることはないだろうと予測する人は多い。
バレンタイン・デーの集会で父親の跡を継ぎ、昨年総理大臣に就任したサアド・ハリリ(39)が会場に到着する。その様子が四方に設置されたジャンボスクリーンに映されると観衆はワーっと盛り上がり、シャッターチャンスだとカシャッ、カシャッとシャッターを切る。「独立した国家同士で、レバノン・シリアの外交関係の新たな時代を築くこと、その窓を開け続けることを本心から強く望んでいる」とハリリは防弾ガラス越しに群集に呼びかけた。これは今まで行ってきた、父親の暗殺に直接関わっていたとしてシリアを敵のごとく非難するスピーチとは対照的なものだ。彼は去年の12月シリアの首都ダマスカスを訪れ大統領のバッシャール・アル=アサードと対面もしている。「私はレバノンの総理大臣としてダマスカスに行った。過去に私が言ったことはこれとは関係がない。今日大切なことはレバノンがシリアと友好な関係を持つことによってレバノンに利益があると信じる者として行動することだ」と彼は父親同様、実利主義的にBBCのインタビューで語った。
政治家のスピーチが終わり観衆は旗を丸めて広場から解散していく。道路封鎖が解除され、またクラクションが叫び始める。お店のシャッターが上がりバレンタインデーのセールが再開される。ハリリが率いる将来党が所有する将来テレビ(Future TV)の敷地に黒塗りの背景にラフィーク・ハリリ総理の顔写真が描かれた大きな看板が立っている。この看板にはデジタルカウンターが付いている。ハリリ総理の暗殺から経過した日数をカウントダウンではなくカウントアップするためのものだ。しかしこの表示計には一年ほど前から電源が切られ、赤い数字は灯されていない。
命をかけないことには務まらない、過酷なレバノンの政治。その犠牲者となった人たち。ベイルートには暗殺された政治家たち、宗派の指導者たちの写真が大小所々に貼られ、街中を歩いていると彼らの亡霊に付きまとわれているような気分になる。恨みが晴らされることもないまま、彼らは幽霊のごとくベイルートのストリートを永遠にさ迷い続けるのだろうか?
追伸
2月19日〔金〕、ベイルートで行われたハンドボールアジア大会で、日本チームがサウジアラビアを延長戦で破り2011年の世界選手権出場権を獲得した。レバノンでは、日本の面影は道路で見かける日本車やバイク、ブームで最近増えてきた寿司屋ぐらいだ(握っているのはフィリピンから出稼ぎに来ている人たち)。レバノンには日本人は70人ほどいるが、そのほとんどは大使館のスタッフや国連関係者とその家族だと聞いている。ベイルートの郊外にある空っぽのサッカー場の近くにある体育館に到着するとレバノンの日本人総人口の半分以上が集まっていた。コートの向こう側にはサウジアラビアの応援団が大太鼓と鳴らして応援をしている。それに負けずと「ニッポン!(拍手)ニッポン!」とシャッターを切る合間に叫んだ。
トップページの写真について
2月14日、ラフィーク・ハリリ総理暗殺の5周期の野外総会に集まる人たち。ハリリ総理の顔写真の看板には「命を失った人たちのために我々は集まる」と書いてある。