ベイルートダイアリー第3回

▼バックナンバー 一覧 2010 年 3 月 23 日 大瀬 二郎

イラクの総選挙が行われた7日、ベイルートに熱風が吹いた。普段の優しくなでるような湿った海風ではなく、カーッと暑く乾燥した空気だ。この砂漠の風はイラクから吹いてくる。日本に中国から飛んでくる黄砂のようなものだ。熱風が吹くベイルートの市街地を歩きながら、イラクに思いを馳せた。
 
2003年の3月、ニューヨークの新聞社の専属カメラマンをしていた頃、アメリカによるイラク侵略の取材のため、現地に2ヶ月間送られた。その当時のことを思うとき、最初に浮かぶイメージはタクシーのボンネットに横たわる少年の遺体だ。
 
イラン経由でイラク北部のクルド自治区に入り、丘から遠くにかすれて見える油田都市キルクークの陥落をじっと見守っていた。アメリカ軍による空爆が途絶えると、ペシュマルガと呼ばれるクルド人民兵がキルクークに侵入した。私も彼らに同行して市内へ足を踏み入れた。
 
アメリカ陸軍の侵略を予期していたのだろう。キルクーク市の周りに慌てて作られた堀には、原油が流し込まれていた(敵軍の侵入を防ぐために火を放つ計画だったのだろう)。ペシュマルガが侵入を開始すると、イラク兵達は軍服を脱ぎ捨て群衆に溶け込んだ。キルクークの陥落後、街の広場に立っていたサダム・フセインの銅像が倒され、数日間、日夜を分かたずその周りでどんちゃん騒ぎが行われた。ある夜、泊まっていたホテルの表で群衆が何か騒ぎ立てている。何事かと外に出てみると、少年の遺体がタクシーのボンネットに乗せられ、それを取り囲んだ群衆がけたたましく叫んでいた。慌てて部屋に戻りカメラと防弾チョッキをつかんで外に出る。
 
膨大な埋蔵量の油田に乗っかっているキルクークは、もともとクルド人が過半数を占める自治区に位置し、そこにトルクメン人、アラブ人、アッシリア人が混在して暮らす多民族都市として知られていた。1980年代にサッダム・フセインのアラブ化政策にともない、クルド人やトルクメン人は郊外の村々に強制的に移住させられることになる。亡くなった少年はトルクメン人だった。憤慨した口調で話す人々によると、少年は数日前に乗り込んできたクルド人民兵によって射殺された。それを訴えるために死体をジャーナリストが泊まっていると聞いたホテルに運んできたそうだ。
 
悲憤のやり場がなく、何かに憑かれたかのような叫び声をあげる群衆にしばらく気を取られていたが、じっくりと遺体を見てみると頭の上半分がすっぱりと消え去っていた。ハイパワーのライフルの弾が当たったのだろう。あまりにもグロテスクな光景に吐き気を催し、思わず目を逸らしてしまった。だが戦争の実態を撮るために自分はここにいるだと言い聞かせ、シャッターを切り続けた。ローアングルで遺体を写真のフレームの下、殺気がみなぎる群衆を上に入れる構図をつくるためにしゃがみ込むと、足ががくがくと震えているのに気がつく。大きく深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとするが、足の震えは止まらない。しばらくして群衆はホテルの前から去っていき、路上には頭を半分失った少年の遺体だけが残された。ホテルの従業員に頼んでシーツを掛けてもらい、彼の遺体を引き取ってくれる人を探してくれと頼んだ。それから3時間、少年の遺体は路上に横たわったままだった。
 
フセイン政権の崩壊はイラクの民衆やクルド人たちを解放した−−−−祝福の気持ちや少数民族が受けてきた抑圧に対する同情などが入り交じった私の酔いは、その夜を境に一気に冷めた。数日後、米軍がサダム・フセインの出身地・テクリートを占拠したとの情報が入り、他のジャーナリストと共に車数台で移動中、アラブ人とクルド人の間の銃撃戦に巻き込まれた。独裁政権が崩壊しても、秩序が回復せぬまま混迷の度を深めてゆくイラク。そんなイラクの行く末を見たような気がして、重苦しい気分だけが募っていった。
 
あれから7年の歳月が流れた。2005年にニューヨークの新聞社を退職してフリーになり、コンゴで2年間すごした後、レバノンに移住した。誘拐と爆撃テロが日常茶飯事となったイラクから脱出した難民の数は220万人にのぼる。首都のベイルート、隣国のシリア、ヨルダン、そしてアメリカでイラク難民の写真を撮り始めた。その中で一番心を揺さぶられたのはヨルダンの首都アンマンで出逢った、イラクでの爆撃テロの被害者たちだった。
 
イラクの医療施設が麻痺状態に陥っているため、アンマンで国境なき医師団によって運営されるクリニックが、イラク爆撃テロ被害者の治療を行っていた。そこで大火傷を負ったキルクーク出身のマラックちゃんに出逢った。そのとき、7年前に目撃した少年の遺体が路上に横たわる光景が脳裏に蘇った。どちらも幼き無実の子ども。ピンクのパジャマを着た9歳のマラックちゃんは手術後のリハビリをしていた。彼女は2005年にキルクークで遠隔操作された爆弾によって全身に大火傷を負い、両手の指先は爆発の高熱で溶けてしまった。
 
理学療法士が施術のために病室に入ってくると、火傷で皮膚が引きつり、感情を表せない彼女の顔のなかで、瞳だけは恐怖の色を宿していた。必要だが苦痛を伴う理学療法。理学療法士は人形を使ってマラックちゃんを宥めながらケロイド化した指先を一本ずつほぐしていく。命は取り留めたが彼女の将来に立ちはだかる困難を想像しようとした。焼け爛れた彼女の顔と体を整形手術によってどこまで修復することができるのだろうか? 彼女はいつ痛みを感じることなく大声で笑うことができるようになるのだろうか? 施術の合間に人形をみつめる少女の口許に、つかの間、頬笑みが浮かんだ。このわずかな少女の頬笑みは取材中に落ち込んでいた自分の心の暗闇に、かすかだが希望の灯火をつけてくれた。
 
今月7日に行われた選挙の翌日、シリアの首都ダマスカスで親しくなったフィルムメーカーのネザールさんから電子メールが届いた。彼はイラクでドキュメント制作中に拉致され、9日間監禁された後、命からがらダマスカスに逃げてきた。ダマスカスでは彼とアラックとよばれる中東独特の蒸留酒を飲んだ。氷の入った小さなグラスにアラックを水割りにして一杯、また一杯。酔いがほどよく回り始めると、彼はぼんやりとたばこを吸いながら、煙で曇った空間を見つめ故郷イラクの話をしていた。母国から追放され難民となったネザールさん。できるだけ早くイラクに戻り撮影を再開したいと熱く僕に訴えた。一年前、ネザールさんは危険を承知でイラクに戻った。その彼がほろ酔いで送ってきたメールには詩のようなものが書かれていた。
 

drank……. 
 
it was good, 
 
the great Iraqi day was good, in spite of the blood we wrote our history, by our small fingers. 
 
we wrote the huge page of the new Iraq that refuse the death culture, 
 
we believe in life, we believe in love, we create the life around,
 
no scene could be closer to life than us, we believe, we vote, we are here, here, around, between, among, always exist
 
happy new Iraq! 
 
Halhoula!!!!! 

 

(翻訳)
今酔っ払っている
 
最高だった
 
大いなるイラクの日は最高だった、流された血にもかかわらず、私たちの小さな指で歴史を書いた(二重投票を防ぐために投票後指をインクに浸されるため?)
 
私たちは、死の文化を拒む新しきイラクの偉大なるページに記した。
私たちは生を信じ、愛を信じ、命をうみだす、と。
 
いまの私たちほど生そのものに迫っている光景はない。
私たちは信じた、私たちは投票した、私たちはまだここにいる、ここに、この周りに、この間に、この中に、いつもどこにも存在する。
 
幸せなる新たなイラク
 
ハルハウラ(歓声)!

 
選挙当日に38人の命を奪う爆破テロがあったにもかかわらず、イラクの人たちは命がけで投票所に集まった。選挙の最終結果はまだ発表されていないが、どの政党が連立しても過半数を獲得できないと予想されている。そのため総理大臣と大統領を選出し政府を組織するためには、政党間で長期間にわたる交渉が予想される。アメリカ軍の完全退却も2011末に予定され、宗派や民族間の争いが激化するかもしれない。  
 
侵略後どん底に落ちたイラク。ネザールさんのメールは傷だらけの少女のかすかな頬笑みのように、私の心に、小さいが暖かい希望の火を灯してくれた。イラクから吹いてくる熱い風は爆風ではなくイラクの人たちの熱い愛がこもった情熱の風だと信じた。
 

写真キャプション

2005年に爆破テロで大火傷を負った9歳のマラックちゃん。人形を唯一のなぐさめとして、長くつらい理学療法を耐える。ヨルダン首都アンマンにある国境なき医師団のクリニックで2007年11月に撮影。

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