ベイルートダイアリー第4回 ツインタワー
2010年3月27日9時。デルタ航空6453便がニューヨークJFK空港を離陸し高度を上げ始める。楕円形の窓を通して朝日に照らされたマンハッタン島の摩天楼が巨大な要塞のように遠くにかすれて見えてくると無意識に島の南端に目をやってしまう。かつてツインタワー、世界貿易センタービルが聳えていた場所に。
2001年9月11日の朝は、電話の音で目を覚ました。この日、ニューヨーク市長予備選挙が予定されていて、真夜中に発表される選挙結果の取材のため夜勤シフトだった私は、前夜、遅くまで友達と酒を飲んでいた。受話器をつかむと聞き覚えのない声が聞こえる。数秒してつい最近知り合ったペルー人の友達だとわかる。「今何が起こっているか知ってるよな」とスペイン語なまりの英語で彼は言った。いったい何のことを話しているのか見当は付かないが、「知ってる、知ってる」と不機嫌に言って受話器を置き、寝床に戻った。うとうとしはじめた頃、再び電話が鳴った。今度は勤めていた新聞社の写真編集長の声だった。「飛行機がツインタワーに衝突した。お前のアパートの窓から見えるか」と言う。冗談好きの人なので、また何か質の悪い冗談を言っているだろうと、「嘘ばっかり」と返答したが、相手は「冗談ではない」といつもと雰囲気が違う。ブルックリン区にある五階建てのビルにある私のアパートの窓は確かにマンハッタンに面している。しかし向かいのビルに視界を塞がれているので、屋上に上がるから少し待ってくれと返答した。コードレスの電話機をポケットにねじ込んで窓から外に這い出し、ビルの側面に設置された錆だらけの鉄の緊急ハシゴをトカゲのように這い上がる。
普段はビールをすすりながらマンハッタンの夜景を眺めている屋上に辿り着き、朝日に照らされたマンハッタンの南端を眺めると、一色のペンキでべったりと塗ったような青空に黒い煙がもくもくと南に向かって流れている。一瞬にして眠気が吹っ飛び、狼狽する気持ちを抑えようとしたが無駄だった。あわてて編集長に電話をいれ、写真を数枚撮った後、アパートから駆け出した。地下鉄はストップしていたのでタクシーを拾うが、マンハッタンへ向かうトンネルと橋は閉鎖されて行けないと言われた。仕方なくアパートの屋上に駆け戻るとツインタワーは姿を消して、灰色の煙が繭のようにマンハッタン南端を覆っていた。風向きが東に変わり、煙が約6キロ離れた高台に建つ私のアパートに流れ始めると、小さな紙片が映画セットの吹雪のように舞い、屋上へ降ってきた。
9.11テロ事件の現場に辿り着くのに3日かかった。報道関係者の立ち入りが一切禁止され、州兵と警察によって東西南北の全てのアクセスが厳重に警備されていたためだ。どこに警備の隙があるのか。他のフォトグラファーや記者と連絡を取り合いながら現場に入ることを試みたが、なかなかうまくいかない。中華街の一角からなら入れるかもしれないという情報を得て、行ってみたが、そこも州兵によって警護されていた。もしかしたら中華街の住民と勘違いされて通れるかもしれない。州兵が立っている道の反対側をうつむいて歩き続けた。
「おい。お前はどこに行くつもりだ!」。南部なまりの強い州兵が叫んだが、聞こえないふりをしてなお歩き続けた。「お前は英語が話せないのか?」とゆっくり幼児に話すような、私を馬鹿にするような口ぶりで、ライフルを片手にこちらに走ってきた。今捕まったら面倒だと思い、いらだつ気持ちを抑え、英語を話せない振りをして、にこにこしながら手をふって引き返した。
最終的に、現場に向かう救助のボランティアのグループを見つけ、道に降り積もった灰を頭や衣服にかぶせて、彼らに紛れることによって潜入に成功した。現場に到着したボランティアグループは、ツインタワーの向かいのバーガーキングの冷凍庫から食物を取り出す作業を始めた。軍手を渡された私も、黙々と冷凍のハンバーガーや魚の切り身を道に放り出す作業に加わった。遺体収容のためだ。それが終わると飲料水をトラックから降ろす作業に取りかかる。手を休めて目の前に広がる瓦礫の山を見あげると、あの巨大で雲まで届くような高層ビル2つがどこに消失してしまったのかと途方に暮れてしまう。ビル側面の薄っぺらな破片数枚を残して、計算されて行われた建物の取り壊しのように、全てが垂直方向に崩れ落ちていた。所々に立ち上がる白い煙からはプラスチックと金属が燃える刺激臭がした。
しかし、3000近い人々の、死の臭いを感じることはなかった。
瓦礫の山に向かって蟻のように人の列がいくつもできている。素手で掘り出されたコンクリートの塊やビルの残骸をバケツに入れ、それを隣の人に順番に渡し外に持ち運んでいる。人間のコンベアベルト、気の遠くなるような作業だ。生存者の探索のためブルどーザなどの建設機器は瓦礫の縁でしか使えない。突然叫び声が上がると、人々は一斉に作業をやめ、建設機器のエンジンがストップする。救助犬が何かを嗅ぎつけたので、生存者の声が聞き取れるかどうかを確認するためだ。人々は息の詰まるような沈黙のなかで耳を澄ませるが、しばらくするとまたエンジンがかかり人々が作業を再開する。時間との戦いに、人々は黙々と作業を行っている。騒音と沈黙が一定のテンポで繰り返される。
写真を撮ろうとしたが、どこからどう写真を撮ればいいのか見当がつかない。歴史を変えた事件を目の当たりにしていることは理解しているはずなのだが、自分の頭も心の中も、ツインタワーが建っていた空間のように虚ろになっている。アパートの屋上に紙吹雪が舞い落ちてからの3日間、とにかく現場に入ることだけを考え、ほとんど不眠不休で走り回っていた。だがいざ入ってみると腑抜けてしまったのだ。
その日、生存者は見つからなかった。
数日後、ニューヨークの病院の壁に犠牲者の顔写真のポスターが張り出され始める。その全ては行方不明の夫、妻、息子、娘、兄、弟、姉、妹を探していると書いてある。状況から察して壁に張り出された無数の人々は崩落するツインタワーと共に非業の死を遂げたのはほぼ確実だ。だがわずかながらの希望にすがりついている家族の心の痛みが、写真を一枚ずつ見るたび私の心に響き、ぽかんと空いていた自分の心の隙間を埋めはじめた。
消防士や警察官、その日の朝仕事を始めたばかりの人々の葬儀を取材する暗い日々が続き、フォトジャーナリストのビル・ビガートさんが9.11事件で命を落としたとの話を聞いた。名前を聞いてもピンとこなかったが、ニューヨーク報道写真家協会のホームページで彼の顔写真を見たとき一瞬、心臓が止まったかのような衝撃を受けた。
大学で報道写真を学んでいた1992年の夏、私はニュース雑誌『タイム』の研修員として働いていた。湿って粘度の高い空気が体にまとわりつくようなニューヨークの7月。私服警察官がドミニカ共和国出身の移民を射殺した。その事件をきっかけに暴動が勃発。報道写真家の駆け出しとも言えない私は、現場のスパニッシュハーレムに向かった。地下鉄駅から地上に出て目に入ったのは、群衆によって荒らされた店舗、火が放たれた車だった。要領もわからず、必死で走り回っていただけの私を見つけ、声をかけてくれたのがビガートさんさんだった。他の数人と車で移動しながら取材を行っていた彼は、ウブな私の姿を見て危ないと思ったのだろう。「俺たちと一緒に行動しないか」と誘ってくれた。後部席に座った私に、「お前を見かけたときは、びっくり仰天してすごくまん丸の目をしていたぞ」と笑いかけてくれた。彼の死を知って、その時の笑顔がくっきりと甦った。あの秋晴れの朝、彼は危険を承知でツインタワーに向かって駆けていった。ビガートさんは第二ビルの崩壊に巻き込まれ、愛した報道写真に命を捧げることになる。暴動の夏の日に、手を差し伸べてくれた先輩、そして今は報道写真の同志として、彼の笑顔を思い浮かべるたびに切なさが胸にこみ上げてくる。
グラウンドゼロと呼ばれていた現場から立ち上がる煙が途絶え、残骸撤去と行方不明者と遺体の捜索が断ち切られ、焦点は犠牲者の追悼から政争と利権争いへと移った。9.11テロ事件によって支持率が急上昇したブッシュ政権は対テロ戦争を宣言し、共和党の保守的な政策を進めていく。テロ事件後の恐怖感をあおり、脅され追い込まれて口をつぐんだ国民と、国旗を振りかざした愛国心にうまく乗せられたメディアにつけ込んで、ブッシュ政権は軍事予算を増大し、9.11テロとは無関係のイラク侵略を開始、アメリカをズルズルと泥沼に引きずり込んでいく。
この対テロ戦争の陰に隠れ、裏舞台でブッシュ政権に多大な影響力を持つ実業家に誘導され、金融業界の規制緩和が立て続けに行われた。その結果、サブプライムローン問題をきっかけに、2007年のアメリカの住宅バブル崩壊に端を発した世界的な金融危機を招いた。これはもちろん私の解釈だが、9.11テロ事件は保守派、軍事、石油業界、アメリカの大半の富を有する一握りの人間にとっては絶好のチャンスだった。ブッシュ政権は大企業の株価と利益を上げることのみが目的の外交政策を行い、それを支えた実業家達は巨額な利益を上げることに成功した。さらにアルカイダの生みの親・オサマ・ビンラディンは石油大国サウジアラビアのお金持ちの息子。世界の1/4以上の石油を消費するアメリカがサウジアラビアに支払ったドルがアルカイダに流れた。ビンラディンの思惑通り、9.11テロ事件後アメリカは対テロ戦争を始めた。イスラム世界を中心に欧米への憎悪、敵対意識が募り、同時にアルカイダは知名度を上げ支持者を急増させることに成功する。2001年の9月、グラウンドゼロの前に立ったとき、自分が目撃していることの歴史的な意味を理解できなかった。あれから9年の時間が経過し、9.11テロの意味を自分なりに消化し理解できはじめたような気がする。
アメリカはジキル博士とハイド氏のように二重人格を持つ国だと思う。自由で寛大、開放的で可能性に満ちた、独創性とエネルギーがあふれる移民の国。これが僕が好きなアメリカだった。しかし9.11テロ以降、政教分離原則を無視しアメリカ例外論をむき出しにした保守的な価値観がせり出た。そして資本主義が一人走りし、金儲けだけが目的の利己主義で醜いハイド氏がアメリカを乗っ取った。その後マラソンのように続いたテロ関係の取材、そしてイラク戦争を経験し、肉体的、精神的にも疲労の限界に達し、こんな国にはいたくない、どこかでまた一から始めたいと思い始めていた。やがてブッシュ大統領が再選され、妻と自分はアメリカを離れアフリカに渡る決心がついた。
父親になるためにベイルートからアメリカに戻ってきた。妻の実家に向かって飛び立ったデルタ空港6453便はさらに高度を上げ続けマンハッタン島は雲の下に消えていく。柔らかな朝日が飛行機の窓から差し込み長旅と妊娠で疲れてはいるが幸せそうな妻の顔を優しくなでている。さてこれから自分の人生、世界はどのような方向に向かって走り始めるのだろうかと考えながらため息をついた。
写真キャプション
9.11テロの現場、世界貿易センターで遺体回収を行う消防士達。2001年10月18日撮影。