ベイルートダイアリー第6回 ベビー・テロリスト
デルタ航空のチケットカウンターで交渉を始めて1時間が経過した。
妻・ジュリアの出産の翌日に病院からデルタ航空に電話を入れ、双子達のベイルート行きの航空券を購入した。だが出発が数日前に迫っても航空券は届いていない。心配して電話すると、ちょっとした問題があるので最寄りの空港のカウンターに出て来てくれないかとのこと。
カウンターでなぜ子どもたちの航空券が発行されなかったのかと聞くが、はっきりとした回答がない。妻と私はベイルート・ニューヨーク往復の航空券をすでに持っているので、ただ赤子の片道の航空券を購入するというシンプルなやりとりのはずだった(国際線では幼児は大人の10パーセントを払わされる)。いらだちとともに時間が経つうちに、“ちょっとした問題”が何だったのかがわかった。行き先がベイルートであることが問題だったのだ。
チケットエージェントが、数回デルタ航空のアトランタ本社に電話を入れ、さまざまな部署をたらい回しされた後、チケットの購入は可能だが往復切符を買う必要があると言われた。我々はベイルートで3週間滞在したあと、エチオピアのアディスアベバに引っ越し、子ども達は片道切符しか必要がないと説明するが、ベイルート行きの旅客には往復切符を発行することが政府から義務付けられると説明された。なぜそうなのかと聞くが、説明できないと言う。おそらく中近東を行き来する旅客の行動を監視するという反テロ対策ためだろうと推測がついた。幼児なのでそんな必要はないだろうと問い詰めてみるが、政府から罰金を課される恐れがあるのでそれはできないと応じられ、埒があかない。
今まで3年間中近東に滞在し、アメリカとの間を行き来していたので通常以上のセキュリティーチェックや多少の旅行規制などの不都合は仕方がないと割り切っていた。だが生まれたばかりの我が子に強いられた常識外れの規制に対しては頭にきた。テロ防止にはおよそ効果が期待できず柔軟性のない、このようなルールを突きつけられて、いらだちを隠すことに苦闘した。普段はクールのなだが。
渋々、往復切符(2人分)の料金を支払った後、出産をベイルートではなくアメリカでした判断は正しかったなと確信した。出産時の緊急事態を考えれば、レバノンより医療設備の整ったアメリカのほうが安心できる。加えて、子どもたちの出生地がベイルートになることを懸念していたことも理由のひとつだった。ベイルートでの出産を選んだ場合、パスポートやその他の旅行文書にベイルート出生と生涯記載されることになる。後々、特にアメリカなどではクレームをつけられる可能性が高くなり、子ども達にはかわいそうだ思っていたからだ。
9.11テロ事件以降に発効した横暴な米国愛国者法の下、テロの容疑がかけられた入国者を留置・追放し、また裁判なしに無期限に監禁するなどアメリカ政府の権限が拡大された。私のパスポートには、アメリカが「ならずもの国家」と見なし、外交関係が断たれたシリアの入国スタンプがあちこちに押されている。イランの原子力発電所にも行ったことがある私は、アメリカ入国時にテロの容疑をかけられ、監禁される可能性はないとは言い切れない。アメリカ入国時は妻のアメリカのパスポートと結婚証明書のコピー、以前ニューヨークの新聞で専属カメラマンとして働いていた時のプレスパス、自分の写真が掲載された雑誌の切り抜きなどを念のために持ち合わせている。もしかしたら電子メールや携帯電話はすでに盗聴されているかもしれないと考えるのは単なる妄想なのだろうか?
ベイルートへ出発する日、綺麗に舗装された6車線のハイウェーを車が空港に向かって滑るように走る。助手席の窓を通して流れる素朴なアメリカの風景を眺めていると、妻の姪が通っている高校が視界に入ってくる。青々と茂った芝生が敷かれたアメフト球場、広々とした煉瓦づくりの校舎。アメリカで生まれたわが子たちはここで気ままなハイスクールライフをエンジョイすることはないだろう。
人道支援の仕事に携わる母と報道写真家を父にもつ子どもたちは数年毎に発展途上国を転々としながら育つことになる。子育ての経験が皆無の私たちには、乗り越えなければならない壁がたくさん待ち受けていることだろう。その中でも一番心配なのが言葉だ。子どもたちに対しては、英語以外に私の母語である日本語のみを話そうと、妻と合意している。だがじっと私を見つめる赤子たちにいざ日本語で話しかけようとすると、戸惑ってしまい、子守歌の歌詞さえ出てこない。長い外国暮らしで日本語が鈍っていることが理由のひとつだが、こんな調子では、わが子たちに日本語で読み書きまで教えることができるのか不安だ。
子どもたちにとって母国と呼べる国はいったい何になるのだろうか? 私は人生の半分以上を海外で過ごしてきたが、日本人であることを強く自覚している。日本を離れているがゆえに、日本で生まれ育ったことを貴重に感じ、それを支えに今まで何とかやってこられたと思っている。
しかし我が子たちはいったい何をよりどころにして人生という荒海を渡ってゆくのだろうか? 私たちのようなライフスタイルを持つ人間がお手本なしに子どもを育てようとすること自体が無責任なのだろうか? いや、それとも過保護に育つ可能性の高い豊かな国ではなく、発展途上国で毎日貧しさに直面しながら懸命に生きている人々と触れ合いながら育つことによってバランスのとれた人間になってくれるのだろうか。
車が飛行場の出発ロビー前に到着する。普段は預け荷物は一つ、機内持ち込みの写真機材の入ったバックパックとラップトップだけの、できるだけ「軽く」旅行することがモットーだった。だが今回は事情が違う。妻の持ち物とベビーグッズをぎっしり詰めた預け荷物が6つ。それに双子用のベビーバギー、ベビーカーシートが2つ。荷物が歩道に山積みになった。妻と私の2人だけでは運べそうにない。ポーターを雇うことにした。
ローチェスターからベイルート、そして最終目的地・エチオピアへの大移動が始まった。
これは父親として先がよく見えない、不安に満ちた新たなる旅の始まりでもある。予期できないからこそエキサイティングで希望に満ちた未来を期待したい。つまずきながらでも一歩ずつ歩んでいけばなんとかやっていけるような気がする。職業上、現実的、悲観的な見方をすることが多いのだが、42歳で父親になって、新たに生まれ変わったような明るい自分がとても気に入っている。若返ったような気持ちで、ポーターに遅れをとらないように乳母車を押す足取りは弾んでいた。
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ベビー・テロリスト?生後12日のソフィア真有美。彼女の将来のことを既に思案しているのだろうか?