エチオピアジャーナル(3)「チョコレートと石油」

▼バックナンバー 一覧 2011 年 4 月 8 日 大瀬 二郎

5カ国の大統領が、アジス・アベバ(エチオピア)に本部が置かれたアフリカ連合の会議ホールに到着し始める。ブルキナファソ、チャド、タンザニア、南アフリカ、モーリタニア。サイレンを鳴らした警察のバイクと共に高級車が到着し、ビジネス・スーツの群れが玄関ホールに入場する様子を2階のバルコニーから撮影する。彼らを見るのは初めてだが、群れの中の誰が大統領なのかは一目で見当がつく。渡り鳥の群れのように、一定のペースで動く人の塊にはいくつかの層がある。真ん中には一番高価そうなスーツを着て、ゆったりと歩く大統領。彼をとり囲み、そわそわとそのペースに合わせて歩く大臣や書記官達。一番外には、耳に無線のイヤホンを付け、スーツを着ていても体格の良さが見え見えのボデーガード。円の真ん中にカメラを向け、ピントを合わせながら数枚写真を撮った後、他のカメラマンに何処の国の大統領かと尋ねる。

Côte d’Ivoire:象牙の海岸

2010年10月、10年ぶりに大統領選挙がコートジボアール共和国で行われた。どの候補者も過半数が得られず、11月に行われた決勝投票で、野党を率いるアラサン・ワタラがと現職のローラン・バボが対決。独立選挙管理委員会は、ワタラの得票率が54.1%、バボが45.9%であったとして、ワタラの当選を認定した。しかしバボは、大統領として裁判官達を指名した憲法評議会に、自らを当選者として認定させ、大統領就任式を強行した。アジス・アベバにやってきた5カ国の大統領は、アフリカ連合の平和安全保障委員会によって招集された緊急スペシャル・パネルのメンバーだ。
 
西アフリカに位置するコートジボアールは、世界一のカカオの輸出国(世界生産量の40%)。1960年に独立後、30年以上に亘るフェリックス・ウフェボワニバボ大統領による親仏政策の下、輸出を基盤とした農業改革と外貨投資の奨励によって、「イボワールの奇跡」と呼ばれる高度経済成長を達成した。この経済繁栄は、他の西アフリカ諸国からの労働移民者を引きつけ、その大半はココア農場の労働者となる。強権な一党政を行い、「建国の父」と呼ばれていたウフェボワニ大統領の死後に政権を受け継いだコナン・ベディエ大統領は、移民の流入と農地開発によって職を奪われた南部人の支持を得るため(主にキリスト教徒)、移民を圧迫する政策を開始する。その結果、すでに国民の三割近くに達していた移民とその子孫、そして、人種的、宗教的に共通部分の多い北部のイスラム教徒の大反発を招き、コートジボアールの状勢は北と南に2極化する。2000年の選挙を間近に迎え、大統領候補者の要件を変更する憲法改正が行われた。大統領になるためには、両親がコートジボアール生まれであることが義務付けられたのだ。これは北部出身のアラサン・ワタラを大統領選から閉め出すことになり、当時野党派の候補者だったローラン・バボが大統領に就任する。南部出身のバボ大統領は、ベディエ政権と同様、移民を圧迫する政策を受け継ぐ。南北間の緊迫状態が極点に達した2002年に内戦が勃発。国の南半分を押さえていたバボ政権と、北部をコントロールしていた反乱軍との間で、2003年に和平条約が結ばれ、2年後に大統領選が行われることが合意される。5年間に6回延期され、昨年ようやく行われた大統領選挙には、内戦と政情不安に蝕まれた過去10年に終止符を打ち、かつて「西アフリカの優等生」とも称されたコートジボアールに、平和と経済復興をもたらす希望がゆだねられていた。

Peace Negotiation: 和平交渉

 
大統領5人の到着を写真に納めたが、お目当ての人物はまだ到着していない。平和安全保障委員会の緊急会議と同時に、和平交渉を行うために、ワタラをとバボが招かれていた。落選後に大統領公邸に居残っていたバボは出席を拒否し、与党の党首パスカル・グエサンを代表として送るという情報が入っていた。一方、海沿いの高級ホテルを新政府の臨時公邸としていたワタラは、バボの指揮下にある空港から出国できず、彼をバボがコントロールする軍隊や警察から護衛していた国連PKOのヘリで隣国へ飛び(どの国かは明らかにされなかったが)、そこからチャーター機でアジス・アベバに昨夜到着していた。ワタラの出国のニュースが流れると、国連の航空機の飛行禁止令をバボは宣言し、国連のヘリを見つければ打ち落とすと声明を発表する。ワタラの帰国を阻止しようという企みだ。
待ち構えていた報道陣に歩きながら両手を振るワタラからは、祖国での深刻な局面におかれていることをうかがわせない、クールで落ち着いた感じが伝わってきた。到着後、ラウンジで各大統領と挨拶をかわす。バボの代表として送られた与党の党首は、ラウンジの端にあるソファで、ひっそりとその様子をうかがっている。挨拶が終わると、大統領達は会議室に入り、ウェイティング・ゲームが始まる。IMF(国際通貨基金)の重要ポスト、西アフリカ諸国中央銀行の総裁、そして1990年から93年までコートジボアールの首相を務めたワタラは、iPadを取り出し、タッチスクリーンに指を踊らせながら、側近達と話を始める。いかにもテクノクラートといった感じだ。その様子を数枚、写真におさめた後、床にしゃがみ込み、会議の終了を他のジャーナリストやカメラマンたちと話をしながら待つ。
 
午後にスペシャルパネルでの会合が終わると、大統領達は、各国の代表が集まっていた大集会場に移動した。アフリカ連合による決議の可決セッションが始まる。その日撮った写真の編集をノートパソコンで行っている最中に、意外にも、ジンバブエの大統領のロバート・ムガベが到着する。慌ててカメラを掴んでムガベに追いつき、後ずさりをしながら写真を撮る。
 
バボとムガベは似たような道を歩んできた。
 
87 歳のムガベは、1960、70年代には、当時ローデシアと呼ばれていたジンバブエの内戦で、白人政権に抵抗・闘争し、アフリカのフリーダム・ファイターとして尊敬されていた。しかし、和平条約が結ばれ、1980年に総理大臣として選出され今日にいたるまで、暴行、虐殺、拉致などを重ね、野党勢力を迫害する独裁政治体制を敷いてきた。2000年に開始された白人所有大農場の強制収容の政策などの、無鉄砲な経済政策の結果、「アフリカの穀倉」とも呼ばれていたジンバブエに、食糧危機と第二次世界大戦後最悪のインフレーションとも呼ばれる経済崩壊を招いた。国際社会から非難を浴び、欧米による制裁が課されるが、それに対して、元植民地主義者による陰謀だとムガベはなじる。2008年に行われた大統領選・一般投票での最多得票は、対抗馬のモーガン・ツァンギライだったが、過半数には達せず、決勝戦が行われた。切羽詰まったムガベは、野党のメンバーや支持に対して暴力的な弾圧を投票前に行った。これでは公平な選挙は行われないとツァンギライは出馬を拒否する。その後、ムガベは候補者一人の決勝戦を強行し、自分のパーティーメンバー、家族と側近のみが参加する大統領就任式を行い、ジンバブエの政情は危機に陥る。南アフリカの元大統領タボ・ムベキによって、パワーシェアリングの仲介がなされ、ムガベが大統領、第一選で最多の一般票を得たツァンギライが、権力を制約された総理大臣となった。国民の意志を表示する大統領選挙には敗れたものの、裏口から権威を取り戻すという、大変危険なトレンドが始まる。
 
一方、元歴史学者・大学教授だったバボは、コートジボアールが1960年に独立後、30年以上続いたフェリックス・ウフェ=ボワニバボ一党強権に、野党の大統領候補と立ちはだかった人物として、西アフリカでは民主主義のシンボルと見なされていた。だが2000年に大統領に就任後、ムガベと同様、権力に陶酔した独裁者の道を歩み始める。ワタラの当選が国連によって認められると、それは欧米、とくにフランスによる陰謀だと宣言。選挙の結果を否定し、ムガベに倣って、大統領官邸に腰を据えた。国際社会、とくにアフリカのリーダー達が、パワーシェアを妥協案として提示し、分け前として大統領職にありつくことを目当てにしているのだ。バボにとって、ジンバブエのムガベは、権力維持のお手本になる先輩といったところだ。バボは、アドバイスとサポートを得るために、顧問をジンバブエに送った。ムガベには、バボ支持派の軍隊に武器を密輸した疑惑が持ち上がり、国連が調査中だ。ムガベとバボ、両者ともに、人民のために立ち上がったヒーローだったが、苦闘の末に、勝ち取った権力に陶酔し、翼を失った天使のように堕落した。
 

チョコレートと石油

平和安全保障委員会のドアが開き、決議の結果が発表される。アフリカ連合は、ワタラの当選を再度是認した。バボが率いる与党のメンバーを含めた和合政府の設立をワタラが約束する。だがバボはそれを即座に拒否。アフリカ連合の決議はほとんど効力を失い、「コート・ジボアール危機」が継続することとなる。
 
その日、平和安全保障委員会で論議されていたもう一つのトピックはリビアであった。「アフリカの王様の王様」と自称し、「アフリカ合衆国」の創立という笑劇的なアイデアを謳っていたカダフィは、後にイギリスに亡命することになったムーサ・クーサ外務大臣をアジス・アベバに送る。平和安全保障委員会が、リビア問題を議論している間、ワタラから少し離れた応接セットに座り、いかにも疲れきった表情のクーサは、うつむきながらアドバイザーの話をきいている。アフリカ連合は、市民に対する暴力をすぐさま中断し、和平交渉を行うこと。アフリカ連合から、リビアの首都トリポリに監視団を送ること。そして外国による進軍や軍事サポートには反対する声明を採択するが、国際社会やメディアからはほぼ無視されることとなる。
 
リビアで反乱が勃発してから1ヶ月もたたないうちに、フランスに後押しされた国連安全保障理事会は「No−fly Zone(飛行禁止空域)」の設定を可決し、リビア軍の軍事施設に一発100万ドルのクルーズ・ミサイルによる攻撃が開始される。一方、コートジボアールでは、危機の勃発から4ヶ月も経った後に、民間人を守るために必要な武力を行使する許可を、現地に駐留するPKOに与える国連決議が可決される。この文章を書いている時点で、コートジボアールで政治危機が始まって5ヶ月が経過した。その間、1500人以上の命が失われ、100万人以上の人々が家を追われている。難民の緊急援助に必要な、3200万ドルの提供が国連のメンバーに呼びかけられたが、3月22日までにわずか700万ドルが寄付されただけだ。(ちなみに、リビア内戦による20万人の難民危機に対して、ヨーロッパ連合のみでも4200万ドルが提供される)。ワタラを支持する武装勢力は、しびれを切らし、北部から進軍し、3月31日に大都市のアビジャンに入る。敗北を認めず、追い込まれた野獣のように大統領公邸の防空壕に立てこもったバボに対して、「最後の攻撃」が4月7日、開始された。国連PKOとフランス軍は、ワタラ派武装勢力に「おんぶ」されて、バボの圧政に反対する市民を弾圧してきた重武装の軍隊壊滅作戦を開始した。
 
産油国の悪名高き独裁者のムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)打倒を狙う勢力への援助の決断は、国際社会によって瞬時に下された。だが白いカカオの花が咲く西アフリカの小国は、同等に扱われなかった。平等であるはずの人命に、石油やカカオと同じように値段が付けられた。
 
窓の外からサイレンの音が聞こえる。どこかの大統領か大臣が空港に到着し、アフリカ連合に向かう途中なのだろう。それとほぼ同時に、知り合いのジャーナリストから、アフリカ連合で緊急委員会が行われているとのメールが入る。「いずれアビジャンで銃声が途絶えるだろうが、果たしてそれまでに何人の犠牲者がでるのだろうか?」と、さえずる赤い小鳥を眺めながら考えた。

写真について

コートジボワールで2010年11月に行われた大統領決勝戦の勝利者アラサン・ワタラが、緊急会合が行われているアフリカ連合の本部に到着した。

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