エチオピアジャーナル(1)黄色い花の咲く頃

▼バックナンバー 一覧 2010 年 10 月 18 日 大瀬 二郎

エチオピア高原の雨期はそろそろ終わりそうだなと青空を眺めながら心の中でつぶやいた。鼻でゆっくり空気を吸い込むと、湿度が下がりはじめていることを感じる。私の思いと同じなのだろうか、鳥の鳴き声も普段よりはずんで陽気に聞こえる。
 
旧居ベイルートを発ち、雨期の最中にエチオピアの首都アジスアベバへ到着した。エチオピアと言えば80年代の干魃・飢餓のイメージが強烈に脳裏に焼き付いているが、国土の多くは肥沃な高原で、ナイル川の流量の85パーセントを占め、アフリカで第二の水力発電のポテンシャルがあると言われている。大飢餓は天災に加えて、当時の共産主義軍事政権による対応の不手際と内戦という人災が要因だったのだ。
 
首都アジスアベバは赤道近くに位置するが、2300メートルの高地にあるため、一年を通してとても過ごしやすい気候(年間平均最高気温は21,最低気温12度)だ。マラリアの心配がなく、幼児2人を抱えているので安心できる。もちろん発展途上国なので衛生上のことなどに細心の注意を払う必要があるが。高地だから空気が薄い。到着後しばらくは階段を上がったり駆け足をすると息苦しかった。ゼエゼエ息を切らしながら、エチオピアが優れた長距離ランナーを輩出する理由を実感した(現マラソン世界記録の保持者はエチオピア人のハイレ・ゲブレセラシェ)。エチオピアは地形も気温も“起伏”に富み、最高峰・ラスジャダランが4,533m、大地溝・ダナキル溝は海抜マイナス125mだ。避暑地のような高地とは対照的に北部エリトリアとの国境沿いにあるダロル村は居住地としては世界で一番暑い(年間平均気温が34度)。
 
アフリカで第二の人口を抱えるエチオピアの歴史は古く、紀元前2世紀以前にさかのぼることができる。ユネスコの世界遺産のサイトがアフリカで最多だ。そのほとんどの期間で君主政がとられ、アフリカ最古の独立国でもあり、エチオピアはアフリカで植民地化されなかった2国の1つ(もう一つはアメリカで解放された黒人奴隷によって建国されたリベリア)。このため第二次世界大戦後に独立を宣言した数多くのアフリカの国々はエチオピアの国旗の色彩を取り入れ、アフリカ連合や数多くのアフリカに関連する世界機関の本部は首都アジスアベバに本部を置く。エチオピアは人類の発祥地としても知られる。1992年に東北部に位置するアファール盆地に深く埋まった約440万年前の地層からラミドゥス猿人が発掘された。1974年に同盆地で発掘された有名なルーシーと名付けられた化石のアウストラロピテクス属が最古の人類とされてきた説を覆す発見だった。
 
毎年9月11日が訪れると憂鬱な気分になる。2001年にニューヨークで9.11テロを経験しているからだ。今年も例外ではなく、しとしとと降り続いた雨を眺めながらため息をついていた。しばらくして雨が止むと門の外で子供たちの歌声が聞こえ始める。なんだろうと思って外にでてみると少女たちがならんで歌を歌っている。
9月11日はエチオピアのお正月。
 
ちなみに独自のカレンダーを持つエチオピアでは一年に13ヶ月あり観光省のキャンペーンのスローガンは『1年で13ヶ月のサンシャイン』。西暦より遅れており今年は2003年。1日は12時間。朝の7時に一日が始まる。標準時より6時間早いことになり、地元の人と待ち合わせなどをするときは気をつけなければならない。
 
手をたたき上下にバウンスしながらリズミカルに歌う子供たちの姿は、中和剤のように憂鬱な自分の気持を緩和してくれた。数日後、正月にやってきた2グループの子供たちのビデオを知り合いの人に見てもらった。歌の意味を知ってすこし驚かされる。初めのグループの歌はこんな感じに訳されるらしい。「私は今日あなたの家に何かをもらいにやってきました。なぜなら私は何も持っていないから。このまま家に帰ると義理の母がなぜ手ぶらで帰ってきたのかとしかられるから近所であなたがお金持ちで有名だからやってきました……」子供達はとても陽気に歌っていたので、まさかこんな歌詞だったのかとは予想もつかなかった。これは正月の一般的な歌らしいのだがあまりにも切ない。旧居ベイルートでは中流階級としての匿名性をエンジョイしていたのだがアフリカに戻ってきてまた金持ちになってしまったことを痛感させられる。
 
まず我が家ではエチオピアの4家族を養うことになった。24時間の警備員として男性が3人(近所の兄ちゃんなのだが)と家事洗濯のお手伝いの人が一人。以前からこの家で働いてきた人たちだし、解雇すると4家族が途方にくれることになる。人件費は安いので解雇せずになんとかやっていけるのだが。地元の人(私も含めて)が利用する通りを行き来するミニバスの運賃(そのほとんどが日本から輸入されたトヨタハイエースの中古車)は一区間5円ほど。だがお金持ちのエチオピア人や外人を対象としているスーパーマーケットでは一回買い物をすると、我が家で雇っている人一人の月給とほぼ同じ金額を払うことになり、貧富の差というものを考えさせられる。買ってきた缶詰やチョコレートに張ってある値段シールを家事のお手伝いさんに見られると気の毒なのでそれをはがすことにしている。
 
エチオピアは地下資源に乏しく、輸出のほとんどは農産物だ。現政府の経済改善政策によってエチオピア経済はおよそ100万人の犠牲者を出した大飢餓のダメージから徐々に回復しつつあるが人口増加のペースには追いつかない。国際援助に大いに頼っている世界で指折りの貧しい国でもある。だが今まで訪れた貧しいアフリカの国とは明らかに違うところがある。それはエチオピアの人々は貧しいが「誇り」といえるものを持っているように感じられることだ。その要因はエチオピアが植民地化されなかったことにあると自分勝手な解釈している。(1935年に勃発したイタリアとの戦争に敗北しその後占領された5年間をエチオピアが植民地化された期間だという論もあるが、断定はできない。占領期間中、イギリス軍の援助を受けたエチオピア反乱軍はイタリア軍を破り再度独立を取り返した。したがって、この5年間は植民地化されたとは言えないというのが主論になっている)
長年フランスやイギリスに植民地化された国々では迫害された白人や外国人を『ボス』とみなす思考・態度がいまだに残っているが、古い歴史を持ち自らのアルファベット、カレンダー、そして時間制を持ち、ムッソリーニのイタリア軍を相手に真っ向から戦ったエチオピアはそうではない。言葉を変えれば、すこし頑固なところがある。貧しい人々でもぼろは着てても心は錦といった感じだ。
 
お正月に訪れた2つめのグループの歌詞の翻訳を聞いてすこしほっとする。それは雨期の終わりが近づくお正月を迎える頃に咲くアディ・アベバの花の歌だそうだ。ヒナギク科の黄色いデリケートな花はマスカルの花とも呼ばれる。アマハラ語でマスカルはイエス・キリストの磔刑に使われたとされる聖十字架が発見されたことを祝うエチオピアのお祭り。9月下旬に行われるマスカル祭のころに咲くこと、そして黄色い花びらの端にうかぶ赤っぽい模様がイエス・キリストが釘で手首を十字架に貼り付けられたことを象徴しているからマスカルの花と呼ばれるという説明も聞いた。
 
エチオピアは古くからキリスト、ユダヤ、そしてイスラム教との関連がある。キリスト教を正式に国教と定めた世界で初めての国でもあり、現在もキリスト教徒が大半を占める。アフリカで最古のイスラム教徒の入植地もエチオピアにあり、イスラム教徒は現在人口の3分の1と推定されている。1980年代までは多数のユダヤ教徒がいたがそのほとんどはイスラエルに移住させられた。エチオピアはラスタファリズムの聖地でもあり、どの宗教にせよ宗教との縁が深い国だ。
 
数日前に八百屋さんで黄色い花の束を見かける。これはマスカルの花ですかと聞くと、彼はにっこりと微笑んだ。一束譲ってもらって家に帰り、小さな花瓶に生けたマスカルの花を見て、新天地で新しい年を迎えたのだな、お正月が年に二回あってもいいなという気持ちになった(ちなみにアジスアベバはアマハラ語で『新しい花』という意味だ)。

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