戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第十三回 労働と実存

▼バックナンバー 一覧 2010 年 3 月 2 日 東郷 和彦

 私の原風景、それは、物心がついた私が住んだ東京の広尾の家の前、道路を隔てた反対側の敷地一杯に荒涼として広がる焼け野原の風景だった。爆撃で崩壊した洋館の瓦礫のかなたに、赫々と空を覆う夕焼け空の広がりがあった。
 その廃墟の中から、戦後の日本は復興していった。
 かつての焼け野原の跡には、その後、次々と新しい家がたち、その一角が天をきるような億ションとなって、いま聳え立っている。
 戦後の日本の復興は、そういうとてつもない、開発と発展の歴史であった。
 私は、人生の大半を、そういうとてつもない「右肩上がり」の経済成長の中で過ごしてきた。
 どうして、そのような成長が可能になったのだろう。
 日本人が、一生懸命働いたからである。
 貧しい中で、とにかく、今日は昨日より、明日は今日より、少しでも豊かな生活をしたい、もう戦争はいやだ、戦争はこりごりだ、富国強兵と信じて、大日本帝国の栄誉のために幾多の有為な若者を「特攻」という崇高な自己犠牲にまで駆り立てて、あんな悲しいことはなかった。全国主要都市は悲惨な空爆をくらい、東京は一晩にして十万の都民が焼き殺され、広島と長崎に原子爆弾をくらい、もうたくさんだ。これからは、とにかく、平和の中で必死に働く、自分の生活を少しでも豊かにする、富国強兵から富国平和をめざして、必死に働く。
 大部分の日本人は、そうやって、働いてきたのだと思う。そうやって、戦後日本という歯車が回り始めた。
 製造業は、大企業から中小企業まで、談合と系列という組織の元で、優良な品質をもった製品を少しでも安く生産するために、必死の努力を重ねた。商社マンは、そういう日本製品を世界のマーケットに押し出すために、なれない英語を使いながら、頭をさげ、お百度をふみ、アメリカやヨーロッパを駆け回った。
 国内にあっては、そういう生産の効率を高め、日本列島を巨大な生産基地にするためのインフラ整備が、着々と進行し始めた。緻密で優秀な日本人労働者がつくる新幹線は、世界の新幹線として知られるようになり、日本全土に展開し始めた高速道路は、産業発展の大動脈と化してきた。
 そういう日本人の労働を内部からささえていったのが、日本社会全体に根をおろした終身雇用制を軸とする、安定した労働環境だった。
 このことは、強調しすぎてもしすぎることはない。
 受験勉強という荒波をのりきり、大学新卒として社会に送り出された若人は、最初に就職した場所を生涯の職場と心得て、あらゆる職場で、全精力を傾けて働いた。卒業と同時に就職した組織が、忠誠心とエネルギーを傾ける場所になった。その組織を発展させることが、自分の仕事を、自分の人生を発展させることと同義になった。大部分の日本人女性は、組織の戦士たる日本人男性と結婚し、子供を生んで家庭を守る、専業主婦としての人生をつくっていった。
 組織の中で、多くの日本人が、男性も女性も、雇用・生活の安定・福祉・社会保障といったものを獲得し、その内部構造が、日本社会発展の巨大なエネルギーとなった。
 そういう企業集団が、いわゆる財界として、日本社会の一極を構成した。もう一つの極に、選挙による国民からの付託に基づく政治政界があった。法律制定権の実質をにぎり、国の方向性を形作る官僚集団が第三の極となった。政・官・財の三極構造が形成され、これに、マスコミ言論集団を加えた四極構造が、戦後日本の開発と発展を支えてきた。
 しかも、官界は政治の下に、政治はマスコミの下に、マスコミは財界の下に、財界は官界の下に、という形で構成される、チェック・アンド・バランスが働き、コンセンサスを基礎とする日本社会の意思決定のありようが決まってきた。。
 この四つの構造を抜け出す、チェック・アンド・バランスのきかない、なにものにも掣肘されない第五の権力としての、警察・検察・法務権力の問題が日本社会の中に無いわけではなかったが、総じて、この体制はうまく機能したのである。
 そう、少なくとも、昭和の日本は、そうやって、とてつもない成功を収めていった。
 1989年、昭和の終了は、冷戦の終了と重なった。
 昭和の時代、富国平和・経済大国をめざして、日本人は、必死に働き、日本のものづくりは世界を席巻し、日本のGDPは不動の世界第二位となり、アジアの唯一の代表としてG7の一角をしめ、80年代、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」のイメージと円高と土地バブルの高騰が続いた。
 冷戦が終わった時、日本はアメリカの最大の脅威国となった。おりしも発生した湾岸戦争における「金はだすが人はださない」という日本の不作為が、日本の自分勝手さに対するアメリカ人の怒りをかったこともあったが、90年の初頭、なによりもアメリカは日本の途方もない経済力の発展に、恐怖感をいだいたのである。アメリカ人エリートの間に、日本人たたきの言論が先鋭化し、アメリカでつくられる映画に頻繁に登場する主敵イメージが、ソ連の秘密警察(KGB)から、日本の日本企業と結託した「ヤクザ」に代わったのが、九十年代の初めであった。
 冷戦における最大の勝利者は、アメリカでもない、ドイツでもない、ほかならぬ日本だったのである。

 なみいる世界の大国の中で、日本は、冷戦後の世界の権力構造の変化とグローバリゼーションへの適合に最も失敗した国になった。バブルの崩壊によって生じた不良債権の処理に巨大なエネルギーを費やし、ようやくその課題が済んだ後には、小泉改革による新自由主義社会が登場した。しかし、そこに格差社会が登場し、この弱者直撃は耐え難いということになった。社会の中に、現状に対する鬱積した感情が蓄積し、それは、歴史認識に関する排外感情に転化されがちであった。「日本は元気がない」という印象が内外に定着し始め、なによりも、国民全体が、共に進むエネルギーの糾合ができなくなったのである。
 この二十年、日本がエネルギーを糾合できなくなった、大きな理由の一つは、日本の発展を内側から支えてきた、労働の内部構造が壊れたことによる。
 2008年秋、リーマンショックで世界の同時金融不況が日本をおそった時、幅広い「派遣切り」の報道に接した時、日本に帰ってまだ一年もたっていなかった私には、戸惑いがあった。
 私の身体の中には、右肩上がりの経済成長をささえてきた社会構造が組み込まれているのだと思う。
 私の育った外務省という官僚組織も、その時代の労働環境の下で、仕事をしていた。土曜日は、半日勤務が夕方にのび、日曜日が確実に休めればラッキーな時代だった。一ヶ月の残業時間が二百時間をこえ、残業手当は限られた予算の範囲内で極端に抑えられ、在外勤務となれば、給料の相当部分を外国人を自宅に呼ぶことに費やしていた。そうやって働き、日本という国家の利益を確保することが、職業人としての目的だと固く信じていた。しかし、豊かではなくとも、平均的な日本の中流としての生活・医療・年金は保証されていることを、疑ったこともなかった。どの組織で働く日本人も、多かれ少なかれ、そういう社会全体の保障の下で、必死に働き続けているという感覚があった。
「派遣切り」というのは、戦後日本の発展を支えてきた、私たちの世代の根本的な労働のモラルを直撃していた。
 派遣契約を結ぶ人たちは、社会的な身分保障が一番弱い人たちである。
 経済が破綻した時に、まず切られるのは、生産の一番の外縁にあるその弱い人たちである。
 あたりまえのことではないか。
 それが、経済の論理であり、経済学の教科書やマルクス主義の言説を持ち出すこともなく、誰にもわかる今の日本社会の論理である。
 派遣切りで排除された人たちをなんとかしないといけないという世論は強かった。2008年、2009年と年末に発生したテント村とそれに対する堰を切ったようなマスコミの報道は、その関心の一端を伝えていた。
 しかし、本当にそうなのか。経済が破綻した時に、一番弱い人たちがまず切られる、いったい、いつから日本社会はそんな社会になったのか。
 少なくとも、戦後の日本の開発と発展をささえてきた私たちの世代が直感的に信じていた社会は、そういう社会ではなかった。
 確かに、右肩上がりでパイが膨らんでいたという時代背景はあった。
 しかし、皆が働いていた組織の論理は、組織が存続する限り、そこに所属した人は、トップであれ一番の弱者であれ、最後まで皆で一緒にやっていくという論理だった。
 そういう組織への信頼と生活の長期保障が、仕事への忠誠と集中をももたらし、高度成長と製品の品質を支えてきた、私たちは、そう信じてきた世代なのである。
 派遣切りの報道には、そういう根本的な問題に答えるものは、あまり見られなかった。
いつから、こんな時代になってしまったのだろう。

 以上の状況の中で心強いのは、貧困の問題に正面から対峙し、日本人を元気にするためにどうしたらよいかを、現場で、また、研究の場で考え、実行しようとしている人たちが、たくさんおられることである。
 宮本太郎『生活保障:排除しない社会へ』(岩波新書、二〇〇九年)は、一九四五年生まれの私たちの世代が経験してきた日本社会の特質を十分に把握したうえで、新しい人間尊重の仕組みを提言する、学ぶ点の多い本である。
 戦後日本の「生活保障」は、雇用と社会保障の二つによって形成されてきたが、特に、雇用が大きな軸になっていた。男性の働き手が働き、生活を支え、家族を養う。社会保障は、雇用がカバーできない部分に対して、補完的な役割を担う。
 雇用を軸とする生活保障は、日本的社会主義といわれ、冷戦期の日本の産業発展の基礎を築いた。一九八五年ソ連邦にゴルバチョフが登場し、ソ連社会にペレストロイカ(経済再建)政策を実施したとき、「日本の経験に学べ」として、八九年十一月第一線の各省次官級の人達約一〇名による経済ミッションが日本を訪れた。私はソ連課長としてその接遇にあたったが、彼らが最も関心をもった問題の一つが、雇用を中心とする日本的生活保障制度だった。
 しかしながら、平成の時代が始まってからの90年代の「失われた十年」の経済不況の中で、九五年、日経連レポート「新時代の『日本的経営』」が書かれ、契約社員登用の方向が示された。九九年には、労働者派遣法が改正され、労働者派遣が原則自由化、〇四年には製造業への派遣も認められた。ここから、日本型の生活保障が崩れ始めた。正規社員の生活を補完的に支える従来型の社会保障では、契約社員の生活保障を担保することはできないからである(宮本『前掲書』五三ページ)。
 宮本氏は、なによりも雇用を再生し、それを通ずる個々の労働者の承認を獲得し、それを軸に社会保障も是正することを提案する。そのためには、労働の現場では、非正規から正規への流れを加速するとともに、「社会人教育」・「家族の維持」・「失業した場合の手当て」・「加齢の下での労働の継続」の四つの「橋」を雇用にかけることにより、雇用の持つ底力を回復することを提案する(宮本『前掲書』一七三ページ)。
 もちろん、雇用の確保のためには、その根底において、産業の発展をどう確保するかの問題がある。だが、産業を構成するのは、人である。その人が、産業の発展のために、死力をふりしぼらないなら、産業もまた発展しない。
 宮本氏が提案するような、社会全体の柔構造の中から、喫緊の課題である雇用の回復を軸として、そこに、年金・医療・教育への社会保障が作動する、―――それが実現するなら、そこで働く人間とその家族は、随分と元気になるのではないか、そういう希望を、宮本氏の本は与えてくれるのである。

 だが、日本社会に何がおきてしまったのか、世界の成長のトップを走り続けてきた日本が、平成の二十年、どうして元気がなくなってしまったのか。この問題を考えるとき、現下の日本社会の矛盾が集約された生産の現場で、雇用でも社会保障でもない、「生きる場」そのものが無くなってきたという、もっと深刻な問題がおきていることに、気づかざるを得ない。
 宮本氏の本は、この点についても、明快な問題提起をしておられる。
 2008年の初夏におきた秋葉原の殺傷事件は、発生の当初から、この問題を提起していた。派遣という契約形態は、まったく労働者を「もの」として扱う形になっている。「かけがえのない、その人で無ければならない仕事をお願いする」という根が、徹底的に、組織的に、排除されている。
 この事件を起こした青年は、それまでのインターネットへの書き込みの中で、派遣契約の中だけではなく、社会全体が、彼を「彼でしかない人間」として承認していないことを、切々と訴えていた。
「人々は、雇用、地域、家族などの場で、他の誰かから何らかの配慮と承認を受け、また誰かを目標としながら、生活を続けていく意味や気力を得る。これは、ある意味では『あたりまえのこと』のはずであった。・・・
 ところが、雇用をめぐる関係が流動化していくことと平行して、家族やコミュニティも急速に求心力を失っている。あらゆる社会関係が個人を取り込みきれなくなるという、強い意味での『個人化』が進行しているのである。・・・
 政治や行政が『生きる場』をおしつけることはできない。おしつけられた『生きる場』は長続きしないだろう。それは、人々が自ら選択するものであり、また人々にはその意欲がある。問題は、多くの人が他者との関係を取りむすんでいくことに困難を感じていることである。・・・
 生活保障の課題は、単なる所得の保障だけではない。人々に必要なのは、誰かとのつながりを得て気にかけられることで、生きる意味と張り合いを見出すことができる場である。そのような場があるならば、人々は場合によっては多少の困窮にも耐えられるかもしれない」(宮本『前掲書』十三、十四、五十七ページ)。

 人間は、他者とどうかかわるか。
 他者とかかわることによって、人間は、本当に人間になっていく。
 他者との係わりは、やがて、たった一回この世に生をうけた自分自身は何なのかという問いに、人間を直面させる。
 その問いに正面からむきあうこと、そして、自分でしかない自分をつくっていくこと、おおむね、そのような思想として、私の大学時代、「実存主義」という哲学が、関心をよんでいた。
 1964年、私は、東京大学教養学部に入学した。たぶん、翌年の二年生の春学期だったと思う。それほど深い意識をもってとったのではなかったが、井上忠という先生の「哲学」という講座をとった。
 ある人間との出会いが、その人の人生を変えるような意味をもつことがある。
 私にとっては、井上先生との出会いが、そういう意味を持ったのかもしれない。
 先生は、飄々として教壇に現れる。専門のギリシア哲学から、説き起こして、いつも一つの問いに帰ってくる。
 ―――哲学とは何か。
 ギリシアからの哲学の概説は、井上先生の手の中に入ると、意味の解りにくい学説の羅列であることを直ちにやめた。古の哲人と言われている人たちの思想が直に躍動し始め、いつも一つの地平に帰ってくる。
 ―――哲学とは何か。
 回を重ねるにしたがって、先生の講義の中で、繰り返しでてくるモチーフが現れてきた。
 ―――哲学には、答えがない。絶えず、どこまでも、問い続けなさい。「何か?」という問  いそのものが哲学なのです。前説に甘んぜず、どのような常識も受け入れず、ひたすら、問い続けなさい。事物の根源は何なのか。眼前にもっともらしく流れる世界の元にあるものは何なのか。こうやって、「何か?」と問わしめているものの、根源は何なのか。
 井上忠先生(学生の間では、「イノチュウ」と呼ばれていた)の講義は、私を魅了した。あらゆる常識を排除して、とにかく自分の頭でものを考えろ。何をどう考えるかということを含めて、自分の頭で考えろ。一番大きな問題、世界とは何か、自分は何のために生きているのか。そういう問題を、自分自身で問い続けろ。毎回の授業で飄々とした語り口から出てくるのは、そういう先生の問いかけだったと思う。
 半年の授業が終わり、秋から、私は、教養学部の教養学科という新設の専門学部に進級して、衛藤審吉先生の指導をあおぐことになった。中国の近現代史など、興味深い話をしながら、衛藤先生が私たちに言い続けたのは、「本を読みなさい」特に「古典を読みなさい」ということであり、毎週、どんな本でもよいから本を読んで、原稿用紙一枚のレポートを書かされた。
 この時、私は、イノチュウさんにより、眼を開かされた哲学について、短くてもよいから原典を読んでみたいと思い立った。そして、大学時代の後半と、1968年春外務省試験に合格し、一年を研修生として外務本省に勤務していた間の余暇をぬすんで、合計三年間、ギリシアから現代にいたる西洋哲学の主な著作を、短くとも原典で、シュヴェングラーやラッセルの哲学史の力を借りながら、読み続け、感想文を書き続けた。
 1969年初夏、外国研修への出発の前、その読書が終わりかけたとき、哲学という学問が達成した最高峰の人間として、私の前に現れてきたのが、ドイツ実存主義の雄、カール・ヤスパースだった。
 現代日本の病弊の根本にある問題が、人間の社会からの完全な疎外にあること、いかなる社会空間からの承認も失った時、人間の崩壊が始まっていることを知ったとき、私は、実存主義の明かりの中から、ヤスパースが問いかけていたことは何だったのか、もう一度考え直してみたいと、強烈な思いにとらわれた。
 書棚の奥から、しばらくあけていなかった「哲学とは何か?」という題で1969年夏に製本した手書きの原稿集をひっぱりだして、ヤスパースの部分を読み返した。
 私が、当時一番夢中になって読んだのは「哲学の小さな学校」という、出版されたばかりの小品だった。ヤスパースは、1969年二月に死んでいる。この小品は、晩年最後の彼の講演をまとめたもののようだった。
 四十年の間に、この本は、書棚から消えていた。アマゾンでも所蔵されていなかった。漸く、古本マーケットで、河出書房の「世界の大思想32」のヤスパース選集(1970年出版)の中に、収録されているのがみつかった。

 四十年前、ヤスパースは、現代日本の秋葉原で起きたと同じ問題が人間社会を覆い始めていることを予知する、分析をしていた。
 四十年前、その問題に対して、ヤスパースは、一人一人の人間が、自分の生き方を投げないで、最後まで、自分自身を問い詰め、生き続ける実存としての生き方を説いていた。
 社会の構造の中に、一人一人の承認をえられるような改革を進めていくこと、冷戦の後に失われた日本をとりもどすには、それは、不可避であろう。
 同時に、これからの日本人の一人一人が、どこかの時点で、自らの実存的責任を果たす決意を持って生きること、その覚悟がどこかで、求められているのではないだろうか。
 「自然は沈黙している。自然はその形態において、その景色において、その激しい嵐において、その火山の爆発において、その穏やかな風において、その静けさにおいて、何かを言い表しているかのように見えるにしても、自然は答えてくれない。・・・ただ人間のみが語る。語りかけと応答とにおける不断の相互理解は、ただ人間の間にのみ存する。ただ人間にあってのみ、自己自身についての意識が思考のうちに存する。
 ・・・自然の沈黙は、人間に向かって、おそろしく無縁なものとして、われわれにとってまったくどうでもいいものとして働きかけることもできるし、また信頼をおこさせ、われわれを支え助ける沈黙として、働きかけることもできる。人間は自然の仲間でありながら孤独である。自己と運命をともにする者との交わりにおいて、はじめて、彼は人間すなわち彼自身となる。彼はひとりぼっちではない。
 ・・・・・
 人間とは何であるのか、という問いに対しては、どんな答えも十分ではありえないことをわれわれは見てきた。なぜなら、人間が何でありうるかは、彼が人間である限り、やはり彼の自由のなかにかくされているからである。このことは人間の自由の結果から、やはり明らかになるだろう。人間が生きている限り、自分自身でたえず努力して獲得しなければならないものがあるはずである。
 ・・・規定されえないものを代表しているのが、人間の品位である。人間が人間であるのは、彼が自己のうちにこの品位をもち、またすべての他人のうちにこの品位を認めているからである。きわめて簡単に、カントはこのことを言い表した。どんな人間も、人間によって手段として用いられてはならない。各人はみずから目的である。」
(ヤスパース「哲学の小さな学校」河出書房『世界の第思想32』1970年、408、415ページ)。

(了)