現代政治の深層を読む思想なき選挙戦の不毛

▼バックナンバー 一覧 2009 年 8 月 18 日 山口 二郎

 「魚の目」の常連執筆者が大挙北海道に来訪し、札幌では8月11日から3夜連続で今度の総選挙の意義を語る公開シンポジウムを行った。連日二百人近い聴衆が参加し、活発な議論が行われた。地元の主催者として、関係各位のご協力に心よりお礼申し上げたい。8月15日の『朝日新聞』朝刊に掲載された東郷和彦氏の手記は、8月11日のシンポジウムにおける同氏の発言を展開したものであり、このシンポジウムの成果の1つである。
 さて、総選挙に向けて各党がマニフェスト(政権公約)を発表し、選挙戦は本番に突入した。その中でしばしば聞かれるのは、政党がこれから日本の目指すべき国家像、社会像を打ち出せていないという不満である。確かに、マニフェストを読んでも、国民に対するサービス、給付の拡大は訴えられているが、数字の羅列という印象をぬぐえない。目指すべき社会像を描けないのは、政治家や政党が思想を持っていないからである。
 前回の本欄でも述べたことの繰り返しで恐縮だが、マニフェストとは、マルクスが共産党宣言(communist manifesto)でも使った用語であり、本来は政治的な理想を打ち出し、人々を鼓舞するパンフレットのことである。現在の日本におけるマニフェスト論議では、数値目標や財源が過度に強調されているので、政党の側も萎縮した感がある。メディアも、官僚的発想で政策を論じることに荷担している。
その代表的事例が、マニフェストの採点というイベントである。こんな奇妙なことをしているのは、民主主義国の中でも日本だけである。何事も点数化したがるという昨今の競争主義の風潮が政党政治にも波及したかと暗澹たる思いである。
 マニフェストをどう評価するかは、読む人の価値観抜きには語れない。新自由主義的な競争社会を好む人にとっては、たとえ財源面での整合性が取れたものであっても、福祉の拡大を謳うマニフェストは0点である。逆に、人間の尊厳を回復してほしい人にとっては、規制緩和や福祉の縮小を叫ぶマニフェストは、それ自体体系的で洗練されたものであっても、0点である。したがって、仮に点数をつけるにしても、その政策がどのような価値観に基づくかを明らかにしなければ、有権者に対する情報としては意味を持たない。マニフェストの採点をした人々に、あなたは点数にしたがって投票するのですかと訊いてみたい。馬鹿正直に点数通りに投票するとすれば、そんな単純な人物には政治を論じる資格はないと言わなければならない。また、点数以外に考慮する要素があるというなら、採点などという馬鹿げたことは止めるべきである。
 それにしても、なぜ政党や政治家が理想を唱えることが難しくなったのだろうか。なぜ、政治家は思想を持てなくなったのだろうか。一つには、経済や社会の構造が複雑化し、単純な政策目標を唱えることが無意味になったという事情がある。私も、毎週日曜日に放映されているテレビドラマ、「官僚たちの夏」を見て、かつての高度成長期の日本では官僚も政治家も志を持っていたと感慨にふけっている。しかし、あの時代はひたすら経済成長を遂げることが自明の政策目標であり、資本や労働力のグローバルな移動などという厄介な問題は存在しなかった。それに比べて、今の時代、政策を作る際に考えるべき事柄は飛躍的に増え、複雑になっている。また、官僚が民間企業を指図するなどということは、今の時代には不可能である。その点で、今の政治家はある意味で気の毒である。
 ここで「政治とは可能性の芸術である」というビスマルクの言葉を思い出すべきである。政治の世界は結果責任が問われる。大言壮語するのではなく、一歩でも二歩でも現状を改善することが政治家の使命である。しかし、同時に、どのような目標に向けての一歩かが問われなければならない。一見不可能な目標を敢えて追及することこそ政治の本質だというのが、ビスマルクの言いたかったことである。
 大きな目標というものは、非現実的で到達不可能に見えるものである。マーティン・ルーサー・キングやネルソン・マンデラが黒人差別撤廃を叫んだ時、誰が達成可能な目標だと思っただろう。ジャン・モネが1つのヨーロッパを唱えた時、誰が到達可能な理想だと思っただろう。そして今、アメリカのオバマ大統領が世界の人々の期待を集めているのも、核兵器のない世界を目指すことという当面不可能な目標を掲げて、行動を始めようとしているからである。一見困難でも、高い理想に向かって前進する政治家の姿に、人々はよりよい世の中を作ることができるかもしれないと勇気づけられるのである。まさに、一見不可能でも、多くの人々がそこに向かって進みたいと思えるような目標を示すのが、思想の力である。
 日本の場合、マニフェストが輸入されて以来、政策の実現可能性のみに議論が集中している。実現困難な目標を政治家が議論しなくなったからこそ、政策論争が細かい数字や財源をめぐる矮小なものになったのである。
 過去数年の新自由主義的な政策の結果、当たり前のはずのことが、非現実的な夢想になってしまった。若者が安定した仕事について、家庭を持つこと。働いた人間が労働時間に見合うだけの賃金を得ること。生命は金では買えない至上の価値であること。どのような家庭環境に生まれようとも、子どもには発達、成長する権利があること。総じて言えば、政治とは人間の尊厳を守るための活動であるということ。戦後の日本では、これらの価値観を当然の前提として、政治家も官僚も仕事をしてきたはずである。
 政党、政治家も、これらの問題についてそれなりに対策を訴えようとしている。しかし、それらの政策はいわば各論で、新たな社会像が浮かび上がってこない。それは、政治家が人間の尊厳の回復という、現代日本においてきわめて実現困難な目標を正面から追求していないからだと私は考えている。
 思想というのは、高邁、深遠なことを抽象的な言葉で語るものではない。日常的な言葉遣いの中からも、思想は現れるはずである。
 思想にとって何よりも必要なのは、現在の貧困や不平等、さらに社会の不条理に対する怒りである。自殺者は毎年三万人を超え、家庭の経済事情のため進学をあきらめる若者や、介護のために仕事を辞めざるを得ない人が増えている。こうした人々の無念を政治家はどう受け止めるのか。このような苛烈な社会に対する怒りこそが、あらゆる政策論議の前提となるはずである。その点で、政治家は自らを安全地帯に身を置いて、政策論議をもてあそんでいる感がある。
 第二に、漠然と国民全体を代表するのではなく、具体的に誰の思いを代表するのかという思い切りが必要である。誰にもいい顔をするということは、何もできないということである。政党とは、本来部分である。社会の一部分の主張が選挙を経て、国全体の政策に転化するところに、政党政治の本質がある。その意味で、政党は自らの党派性を明確にしなければ、民主政治を担えないのである。たとえば、過去数年の景気回復の中で大いに潤った富裕層や企業に対して、新たな税負担を若干求めるという政策を具体的に打ち出すことができれば、政策が目指すべき社会のイメージは明確になる。敢えて敵を作るという政治的度胸に関しては、小泉元首相のやり方をある意味でモデルにしなければならない。
 マニフェストはあくまで資料であり、金科玉条にすべきではない。政治家の生きた言葉による論争を通して、二一世紀の日本の姿を形作ることこそ、選挙の最大の意義である。鳩山や麻生から、生きた言葉を聞くのは難しいかもしれない。政治家から生きた言葉を聞くこと自体、実現不可能な目標になったとすれば、日本政治の危機も深刻である。