現代政治の深層を読む特別版「民主党政権で日本をどう変えるか」
思い起こせば四月の終わりに『政権交代論』という岩波新書をもとに三回の講義をしたと思うのですが、あれから半年、ついに政権交代を成就しまして私も大変喜んでいるところです。
やっぱり与党になるということはすごいことですね。何が変わるかというと、メディアが変わってきた。野党の応援をしている間はそんなに忙しくなかったのですが、民主党が政権を取ると、とたんにあちこちからいろんな注文が殺到してきて、与党とはこんなに忙しいものかと思っています。政治家の皆さんはもっとそうでしょう。
ものですが、外野にいる人間まで忙しくなるというのは、政権交代の影響ですね。
最初は少し余談を申し上げます。今回の選挙では、私も意を決して、何が何でも自民党を倒すということであちこち応援に走りまして、街宣車に乗って演説もしました。自民党がこれだけだらしないと、演説していても人々の反応が違ったなと思いました。
選挙のすぐ後に、朝日新聞の九月三日付け朝刊のオピニオン面で三千字くらいの長い論評を書いた。自分で言うのもなんですが、私の政治学者人生二五年の総決算の論評で、なかなかよかったなと思っています。他の人からもよかったねと言われて、私も喜んでいます。実はこれを書くにはひとつの裏話がありました。選挙の批評というのは、選挙の前に書くんですね。選挙が終わってからでは忙しくてじっくり考える暇がないからです。世論調査をもとにしてある程度の結果を見込んで書くのが普通です。
朝日新聞のあの論評は、選挙の前の金曜日に書いて送ったのですが、担当の編集者から返されました。ちょっと先生、これでは迫力が足りませんと言われて。ああ、そうかやっぱり、歴史的政権交代なのだからもうちょっと気迫を込めて書かなければいけないのかなと思いました。でも予定稿でそこまで迫力のある文章を書くのはなかなか難しいことでした。
選挙の前日の土曜日に二カ所ほど応援に回りました。町村信孝の選挙区である北海道五区の民主党の小林ちよみという女性候補を応援しに行きました。「町村信孝を倒すことによって我々の怒りを全国に伝えよう」とアジテーションをやって、精神的にウオームアップをしました。そのあと大学に行ってパソコンに向かうとああいう文章が書けた。やっぱり政治批評とは戦いだと私はつくづく思ったわけです。
というわけで、民主党ができてから、最初の民主党が出来たのが九六年ですから、十三年、いまの形になってからもすでに十一年、一貫して民主党政権を作ろうといってきた私としては人生の大きな仕事が終わったようなもので、あとは隠居したいという感じです。
ともあれ今回の選挙の意味と今後の民主党政権について考えてみたいと思います。
政権交代の意味については、今更繰り返すまでもありませんが、民主主義というのは、国民自身が権力者の首をすげ替える、だめになった権力者を国民が首にするという点に本質があります。そういう意味では日本の民主主義というのは未完成でした。国民は民主主義のすごさというものを経験していなかった。私自身が政権交代というテーマに関心を持つようになったのは、一九八九年でした。皆さんもご記憶の通りベルリンの壁崩壊から、東ヨーロッパ諸国の劇的な民主化が進んでいった年ですね。あれを社会主義体制の崩壊と普通は言われていましたが、私は政治のレベルで言うと、一党独裁、一党支配体制の崩壊という風に捉えていたわけです。結局、一つの政党がずっと権力にいるということが、いかに国全体を弱らすか、そのことを私たちは見せつけられたわけです。
日本の場合は自由な選挙、普通政党制があるなかで自民党がずっと政権を持っていたわけなので、一党独裁とは言えないのですが、他に政権の担い手がいないという状況で一党支配が続いていった。議院内閣制というのはそもそも立法府の多数派が、内閣、行政府も握るという仕組みですから、立法権と行政権が一体化するものです。そのうえに、一つの政党が君臨する状態が四十年も五十年も続けば、それだけでろくな事が起こらない、ということですよね。行政の中立性なんてこともなくなってしまうし、警察、検察は党派化するわけですし、メディアや司法も萎縮するわけですね。さらにいえば、自民党という政党ないし、自民党を構成する政治家のある種特殊な哲学とか価値観みたいなものが、政策の自明の前提になってしまう。後から触れますが、たとえば、女性に対する見方とか、家族のイメージとか、歴史観とかね。そういったものが世の中の制度の基本的な前提になってしまう。九〇年前後から冷戦の崩壊とバブル経済の終わりでもって、日本でも国の基本的な政策の体系を、新しい環境に適応させていかないと国力そのものが低下していくという危機感があったわけですね。改革が叫ばれ、九〇年代前半には細川政権というものがほんの一瞬、できた。しかし、自民党がしぶとく権力を持ち続けたわけで、従って政治の世界で言っても、失われた十五年というのがあったわけですね。
今日、ようやく国民の手で政見を変えるということができた。政権交代というのが自民党の皆さん、選挙の最中に目的ではないと言っていましたが、政権交代とは、それ自身目的です。政権交代がなければ民主主義は完成しない。
自民党が野党になって、これからどの政党が政権につくかわからないというのが当たり前になってくると社会の風通しが良くなるわけですね。自民党に逆らうことが国家に対する反逆ではないわけです。それから普通の人が、私は自民党がいい、民主党がいい、私は保守的だ、進歩的だということをもっと気楽に言えるようになるだろうと思う。そういう点で政権交代にはそれ自体で意味があるということです。もちろん、政権交代を機会に政策を転換していくことも必要です。それはなによりも思想とか理念というレベルで政策の土台になっている基本的な前提を組み替えるということです。新しい土台の上に政策の体系を作るということです。これは政権交代がなければできないことです。とくに根本的な資源配分の変更、あるいは権力システムの作り替え、たとえば地方分権、あるいは人権に関するいろんな政策の変更、などというのは、政権交代と深くかかわる。今回の政権交代を機に、国全体としての政策的な能力が向上するということがまず期待できる。
次に、選挙そのものをどう見るかということについて。二〇〇五年、郵政民営化をめぐる総選挙からわずか四年で、ちょうどその結果をひっくり返したような感じでの政権交代が起った。そのことをどう見るかということで、結構メディアの中には、とくに民主党が嫌いな左派的なメディア、『週刊金曜日』などは、政権交代なんかたいした意味がないといった意味のことを言っています。二〇〇五年、自民党を勝たせた、根っこのない、ふわふわとした民意が今回は民主党に行っただけだ。オイルマネーの還流みたいな話で、中東産油国に集まった金はまたロンドンとかニューヨークに戻っていくみたいな。そういうイメージで二〇〇九年の選挙を捉えるという論調があります。それは違うということをまず申し上げたいと思います。
もちろん二〇〇五年と二〇〇九年を貫通している底流、一番深いところでの民意の流れというのはあります。それは自民党に対する嫌悪感ですね。自民党はもうだめだ。自民党以外の勢力が必要だという。これは共通したものだと思います。二〇〇五年の場合は、小泉という人が自民党に対する嫌悪感を自民党に対する支持につなげるというある種のトリック、手品を弄したわけですね。自民党の中にうまく敵役を作り、それを叩くことによって、全体として自民党が勝つというまことに巧みなことをやったわけです。
二〇〇五年と二〇〇九年、何が違うか。私はあえて言いたい。郵政民営化は、生活第一、ないしは生活第一のもとにある子ども手当て、農家戸別補償、そういった話と根本的に違うと思います。郵政民営化が実現したら、私たちの生活がどう変わるか、分かって投票した人は四年前にはたぶん、ひとりもいなかったでしょう。竹中平蔵および、その取り巻きは分かっていたのかもしれませんが、普通の有権者の中は、郵政民営化が実現した時に、日本の財政や経済や金融がどう変わって、それが自分にどういう影響を及ぼすかが分かっていた人はほとんどいなかったと私は言いたい。しかし、今回、民主党を勝たすと、子ども手当て二万六千円、農家戸別補償がくる、あるいは高校の授業料無償化とか。あといい悪いは別として高速道路ただになる、ガソリンの税金が安くなる。とにかく人々にとってわかりやすい、具体的な政策が提示されて、自民党政治に対抗する政策のパッケージとして打ち出されていったわけです。もちろん、こっちの水は甘いぞという利益誘導だという批判をすることはできるのですが、まず政治家の正直さ、言葉の具体性において二〇〇五年と二〇〇九年はぜんぜん違うということを私は強調したい。そのことの意味は極めて大きいと思います。根っこのないふわっとした民意がたまたま今回は民主党にいっただけだというのは、国民を愚弄した話だと私は思います。
さらに言えば、この四年間の中に起こった世の中の変化というもの、それなりに普通の日本人は肌で経験し、思い知っているのです。朝日新聞の星浩さんのコラムで、鳩山が青森に遊説に行った時に、つい最近、失業した息子に自殺されたという年老いた女性が泣きだしたという話が書いてありました。この四年に限らず、この六、七年の新自由主義的な構造改革がもたらした破滅的な帰結を国民は非常に厳しく評価をし、そのことを投票という行動で表現したのではないかということを私は感じるわけです。
二〇〇五年には確かに熱狂がありました。小泉が日本の政治を革命的に変えてくれるという大きな期待がありました。やっぱり選挙の熱というのは大きかったですね。今回は実はあまり熱狂はなかった。民主党とか鳩山に対するブーム、そういう感じはなかったですね。しかし、静かな怒りがあったわけです。非常にだれた選挙戦で、解散から投票まで四十日もあいたのですが、投票率は七〇%近くまでいったわけです。国民はやっぱり今回の選挙で何が何でも一票入れてやるぞという固い決意はあったわけです。それはやっぱり自民党を罰する、権力の座から追放するという意思だっただろうと思います。
あらためて小泉政治を総括してみたいと思います。小泉の言った自民党をぶっ壊すという話が成就したという面と、それから小泉がどうしようもなく自民党のダメな部分を言わば凝縮し、濃縮したという面と、両方ある。ぶっ壊すという話は非常に見やすい話で、郵便局民営化したら今回の選挙では、郵便局関係者は、組合も管理職もみんなこぞって民主党を応援したわけですね。とくに田舎の方はそれが非常に大きな意味を持っていました。それから市町村合併をやって、自民党の手足になっていた地方議員も減った。交付税と公共事業費を削減したことによって、土建屋も干上がった。いろんな政策の転換によって、自民党を支えてきた脚を自分でちょんぎったということが言えるわけです。
しかし、小泉がむしろ自民党のどうしようもなさを濃縮し凝縮したという面もあるんですね。それは何かというと、自民党の持っている機会主義、権力党的体質。つまり主義主張、理念関係なしに、とにかく与党でいたいという。そのみっともなさを小泉が言わば増幅してしまったということがあると思います。本来、理念を持った政治家であれば、構造改革には反対をして小泉と袂を分かつという行動をとる人がもっといてもよかった。
実際、亀井さんたちは四年前に負け組に回ることで今回、勝ち組に回って大臣になれた。政治にはそういう面がある。政治家というのはやっぱり主義、主張、信念に忠実に行動したほうがいいわけです。いまは少数派のほうに回ってもいずれ自分たちのチャンスが来るのですから。政党政治というのは、政党が目先の利益よりは多少、中期的な時間の幅で物を考えて行動するという前提で成り立っているわけです。サッカーのたとえでいうと、ボールの周りにみんな群がる、そういうことでは試合に負けるに決まっています。いろんな人がポジション持って、球が来るチャンスを待っていることが必要ですね。ところが自民党という政党は権力というボールの周りにみんな群がっていく体質があって。その体質というのは、二〇〇〇年代になって森喜朗が首相になったときに限界に達していた。権力というボールの周りに群がってゆく政党ではダメだということ、国民もみなわかっている。しかし、自民党はそこがわかっていなかった。権力を守るためにはなんでも使うということで、本来、自民党の伝統的な政治家にとっては極めて有毒な思想、政策を持った小泉というものまで利用して権力党としての地位を延命した。これが二〇〇一年以降の自民党だったわけですよね。
小泉自身もそこは極めていい加減な人間であって、そういう小泉を利用し、消費する自民党というものを承知の上で率いたわけですよね。そういう意味では小泉以後の自民党というのが、坂道を転げ落ちるように堕落していったのは当然の結果でした。そこはひとつ、小泉の側にも原因というか、責任があったと私は思うのです。小泉が一見、主義主張に忠実に行動するように見えて、実は森派の幹部であり、加藤の乱を潰し、森政権の存在を容認しつつ、その後釜に自分が座り、そのプロセスでは派閥の力を最大限に使うということをやってきた。もちろん、郵政民営化は本気でやって、反対する人間を追放したというのは、従来の自民党の政治家とは違う手法があったわけですけれども、使えるものはなんでも使え、主義主張関係なし。とりあえず受けさえすれば、信念と逆さまのことを言ってもいいのだという機会主義的体質を強化したということでいえば、小泉は明らかに自民党を堕落させたわけです。
小泉がやめた後、安倍、福田、麻生と一年交代の総理大臣が続きました。ここで完全にリーダーの選び方かが変わったわけですね。どいうことかというと、ケインズの言う美人コンテストというやつで、それぞれの政治家が自分の主義主張に沿ってこの人がリーダーにいい、この人を信頼するということでリーダーに押し上げるという行動ではなくて、周りをきょろきょろ見ながら、誰が一番人気があるか、誰が一番ぶら下がりやすい看板かみたいな、そういう動機でリーダー選びをするようになった。そうなりますと、世論調査の数字が自民党を支配するということになるのです。このへんの話は共同通信の柿崎明二さんが『「次の首相」はこうして決まる』という本を講談社現代新書で書いているので、興味のある人は見てほしいと思います。一番人気の人をその都度、その都度、リーダーにしていくという行動で、総裁選挙を戦ってきた。ポスト小泉は安倍が一番手。なぜ人気があるかは不問に付されて、とにかく若くてかっこいい。世論調査の支持率が高い。じゃあというのでみんながそれに群がる。だから小泉以後の自民党総裁選挙は一強何弱という形になりました。一位の候補者がダントツに票を集めて、そのほかはすべて沈むという構図ですね。まず、安倍を選び失敗し、次に福田を選び失敗し、麻生なんかほんと、残り滓だったのです。残り滓をしょうがなくて総理総裁にした。その時点で自民党の負けはもう決まっていたようなものです。権力にしがみつくことしか能のないヤツがやれ政策だ、責任だなんてことを言うから、ますますみんないやになった。これはもう政策以前の問題です。政党政治の論理、基準に照らしても自民党は失格だとみんな厳しい処断をくだしたことになるわけです。
その意味では自民党が勝手に負けたという面もあるんですが、民主党の側にも主体的な勝因はあったのです。それは何かというと、やっぱり党がまとまったということ。結束したということ。それから生活第一路線ということで、自民党との対決構図をかっちりさせたということです。
この部分は、多少、私の自慢話になるのですが、私は小沢さんが政権交代の道筋をつけたと思っています。小沢さんの力なくして政権交代はなかったと思っています。私自身は二〇〇五年の郵政選挙直前くらいから小沢さんとの付き合いが復活して、民主党の政権構想をいろいろ吹き込むチャンスがあった。とくに二〇〇六年の三月から小沢さんが民主党の代表になってからはいろいろと政策面で提言するという機会がありました。その時に私が強調したのは、新自由主義的な路線は必ず行き詰まるから、いまから民主党はその準備をしておくべきだということでした。とくに格差不平等問題と社会保障の崩壊、この部分で民主党がちゃんとした政策を出せば必ずチャンスが来ると言ってきたわけです。
小沢さんという人は一九九三年に『日本改造計画』という本を書いたころは、どちらかというと、自己責任型社会をつくると言っていました。彼は誠にいい意味で変わり身が早い。「君子は豹変する」の人でありまして、自民党が小さな政府路線で突っ走ったときに、民主党が対立軸を作るためには、これは左に舵を切るしかないということを彼はわかったわけで。それで生活第一路線ということで対決構図を作った。二〇〇六年の小沢就任以降、二〇〇七年の参院選、今年の総選挙と、だいたい民主党が常に、自民党の失政を批判しながら民意の受け皿になることに成功したわけです。私としてはしめしめというところです。
小沢の偉いところは私のような左側の人間、社会民主主義的な勢力、実体的に言えば、労働組合と旧来の保守層をくっつけたところなのですね。彼は田舎の選挙を非常に重視していまして、田舎で勝てなければ選挙は勝てない。徹底的に地方を回ったのですね。地方の選挙は誰がやるかと言ったら、ひとつは労働組合。労働組合の力なくして選挙は戦えないということで、地方の連合と徹底的に関係を強化した。それから田中、竹下派以来の自民党的再分配政治の最大の受益者であった保守層を完全に自民党から引き離すということをやった。農家戸別補償はその一番わかりやすい手段です。ということで社会民主主義的な勢力と旧来の保守層が小沢を媒介にして提携して、農村部の選挙区で圧勝できた。これなくしては、政権交代はなかったと思います。
北海道なんかにしても、もともと民主党が強いところではあるのですが、十二選挙区のうち、十一獲りました。一つとりこぼしがあって、それがなければ完勝でした。町村も落選したはずですけれども、一つ民主が落とした分、比例で一個枠が増えて、町村が復活当選した。腹立たしいなと思ったのですが、逆に考えますと、いまだに森だの町村だのがうろうろ永田町を徘徊しているようでは自民党の未来はないということは明らかです。彼らがのさばればのさばるほど、自民党の再生は遠のくという意味で言えば、町村の復活当選というのはよかったと思っています。
次に、これからどうするのかということを考えてみましょう。まず、政策の面でのイノべーションが課題となります。民主党には思想が必要です。いままでは政権交代を目標にして、あるいは自民党じゃないというものを共通項にして集まった政党だったわけですね。実際に権力を獲ったときに何をするのかについて、実体的なあるいは前向きな合意があったかというと、そこは実は詰めていませんでした。まして民主党という政党をひと言で説明するとどういう政党か。海外のメディアに説明するときに、プログレッシブなのかリベラルなのか、コンサバティブなのか。なかなかそういった意味でのうまい形容詞が見当たらないという状況でした。そこは自分の願望をこめて、モデレイト・プログレッシブ、つまり穏健な進歩派という立ち位置で、いろんな政策を束ねる思想を打ち出していってほしいと思います。
思想と言ってもそんなに難しいものではありません。小泉時代にはやはり政治家、自民党というのは思想を持っていました。小さな政府、競争原理でもって社会を動かしていく。金持ちがどんどん自由を追求していくことによって、社会全体がそれに裨益する。貧乏人もそのおこぼれに与れる。だから強いものをもっともっと伸ばすんだ。こういう思想で、強くない人もそれでいいかと支持したわけですよ。しかしそれは間違っていた。じゃあ、民主党の持つ理念は何なのか。私に言わせれば、生まれた家庭環境や地域に関係なく、人間がすべて自己実現できるような社会を目指すべきだ。あるいはそういった人間の自己実現を支えるために不可欠な教育や医療や介護や年金といった公共サービスについて、政府が責任を持って提供していく。こういう路線を打ち出していってほしいと思っています。
そのためには具体的な社会イメージが必要です。たとえば日本の税制、社会保障制度、あるいは労働政策、教育制度は、日本的四人家族というイデオロギーに基づいていたわけです。お父さんが働いて、専業主婦のお母さんが家族の面倒を見る。ひとりで養おうと思ったらお父さんが年収五百万とか六百万稼いで、母親は専業主婦という前提で政策が組み立てられます。手厚い扶養控除もあるし、保育や介護といったサービスの提供システムも専業主婦の存在が主流派だというという前提で設計されていくわけですよね。私の大学の同僚である、宮本太郎くんの言葉を借りれば、家族という含み資産を当てにして公共サービスの供給というものをわりと少なく絞るという体制を作ってきた。しかし実態の社会経済とそういった政策の乖離があまりにも広がっているというところに、いまの日本の社会経済の閉塞の原因があるわけですよね。介護を苦にして高齢者を殺すとかね、働きたくても子供を預かってくれるところがない。中途半端な稼ぎだと子供の保育料で消えていく。そういった問題があるわけです。そういった家族像から決別する。自民党の頭の古い親父たちが考えていたような日本的な家族というものは実態としてないわけですからね。そういうものを前提としない。男も女も働くという前提で、税制も社会保障も医療も教育も考えていくという。そこの部分の価値観の転換は、政権交代でこそ、可能な作業だと思うのです。
よく選挙のときに、自民党は民主党に対して成長戦略がないと言っていましたが、今の時代、成長戦略を持っている人がいたらむしろ、その顔が見たいと思います。そんなものがないからみんな苦しんでいるのですよ。世界中の国が。逆に一時のように、金融でバブルを起こして、格好だけ経済成長するみたいなことをやったって、社会全体には均霑しないし、またいつバブルが弾けるかわからない。非常に不安定な状況になるということですから。反成長とまでは言いませんが、成長というものがそんなに簡単にできるものかなというリアリズムから出発したほうがいいと思います。むしろ所得が低くても、品位のある生活ができる社会というのをむしろ構想すべきではないか。森永卓郎さんの言葉を使えば、年収三百万円でも生きていける社会をどう作るかということを考えてほうがいいだろうと思います。
そのためには、ストックとしての公共サービスというものを、タダないし、廉価に消費できるというシステムをつくらないと、年収三百万円で生きていけないということは明らかです。そこでたとえば、資料の三枚目の表の2を見ていきただきたい。これは世界で最大の政府のスウェーデンと最小の政府の国アメリカとを対比したものです。家計支出に対して、税および、各種の社会的支出がどれくらいの割合を占めるかを比較した表です。スウェーデンは確かに税金が重い。しかし、個人個人が医療や子供の教育や老後の備え、あるいは赤ん坊の託児に対して使うお金が極めて低い。つまり自己負担がほとんどなしに、教育や医療を受けることができるのです。そうすると、社会サービスと税金を足せば、家計支出のだいたい四割強という水準になるということです。アメリカはどうか。たしかに税金は安い。しかし、アメリカは個人個人が学校や病院や託児所なんかで、ものすごく大きなコストを支払う、自己負担というものがあるわけです。いまオバマが医療制度改革で、悪戦苦闘しています。アメリカには国民皆保険という発想がありませんから、個人個人が民間の保険会社の保険を買うわけです。お金がない人は医療保険に入れない。だから病院にも行けない。そういう人が全国民の約十五%、四千五百万から五千万人くらいいるという社会なのです。税金が安くても医療や学校教育、とくに高等教育のコストが高い社会というのは、個人の手元にそんなにお金は残らない。
アメリカ人の三倍四倍の税金を払っているスウェーデン人も、税金の安いアメリカ人も、税と医療、教育などの社会的支出を除いた、真の可処分所得というのはほとんど同じだというのが、表2の意味です。あとはどっちの社会を好むかという世界ですよ。スウェーデンみたいに税、社会保険料というかたちで公共サービスの提供を行う、個人個人は平等に、必要に応じてそのような公共サービスを消費する社会を求めるのか。アメリカみたいに、市場、マーケットを通してその種のサービスを提供していく。したがって、カネのあるヤツは世界最高水準の医療や教育を受けられるけれども、貧乏人はまったく、そういった機会がないという社会を選ぶのかという価値観の問題です。
私はまさに、その価値観というものを民主党政権に打ち出していってもらいたいと思います。価値観を鮮明に出すと、敵を作るという恐怖心があって、社会党という政党が崩壊して以降、大きな政党が価値観を鮮明に出すということをあまりしてこなかった。小泉というのは保守の側から価値観を鮮明に出して、強者の自由重視という路線を打ち出したのです。資本主義の社会ですから強者の側につくメディアもいっぱいいるし、学者もいっぱいいるし、そういう路線をうまいことフレームアップして、国民に受け入れさせることができて、数年間政権が持ったのです。今度は左側から価値観を鮮明にすることができるかどうかという局面です。私のような考え方は民主党の中でも多数派ではないと思うのですが、価値観を出さなければ政権交代を起こした意味がないだろうと、私は言いたいですね。
余談ですが、今朝の朝日新聞見ていて、オピニオン面に、小林慶一郎という経済産業省の研究所の研究員やっている人が長い論説を書いていて、これは非常に腹が立ちました。小林さんという人は朝日の客員論説委員もやっていました。朝日がいかに、新自由主義に毒されているかを象徴する人物ですね。彼が今朝言っていることは、民主党政権も経済的自由というものを基調とせよみたいなことをお説教しているのです。「うるせえ」という感じでした。フリーターにとって自由とはいったい何を意味するか。本当に時給七百円で牛馬みたいに酷使されている人間にとって自由とは何を意味するのか、お前は少し考えたことがあるのかと言いたいですね。結局、その種の議論というのは自由を享受する条件を持った人間だけに自由を認めるという話になるわけですよ。まさに今回の選挙で民主党を勝たせたのは、自由を享受できない条件の下に生きている、あるいは生きざるを得ない人々の怒りと憤りですよ。そこのところを見失っては民主党政権なんて作った意味がないと思うのです。
ですから政党というのは価値観を持たなければならない。これは佐藤優さんが最近よく言っている言葉ですが、政党というのはpartyと言います。語源は part、部分です。全体ではありません。偏っていて当然です。部分というのはなにがしかの主義主張を持って、偏っているから部分なのです。その偏っている部分が、とりあえず、国民に自分たちの理念を訴えて、国民がこれから四年間お前たちに権力を預けるから、それでもってpublic、公共の利益というものを追求して見ろと委任する。これが政権交代ですね。民主党は己の部分性をよく自覚したほうがいい。部分性ということは結局、自らが誰を代表しているかということ。明らかにいまの日本の世の中には断絶があり、亀裂があるわけです。全体をくまなく一手に引き受けて代表するなんてことはありえない。全体を我が党が代表しますなんて、嘘に決まっています。規制緩和にしたって、税制にしたって、誰かにとって得になる政策は誰かにとって損になる。そういうトレードオフの関係はあちこちあるわけです。そのときにどこに軸足を置くか、その、部分性の選択ということこそが、民主党にとって最大の課題だという感じがするわけですね。
そうするとこの問題というのは、税とか社会保障をどう再構築するかという問題に当然かかわってくると思いますが、民主党はその意味で敵を作ることを恐れてはいけない。むしろ、ここは少し小泉を見習ってでも、多少敵を作るべきだと思います。そうすると当然のことながら、世界同時不況の前の散々いい思いをしてきた大企業と金持ちに対して少し負担を迫る。これは当然だと思います。だから累進課税を強化するとか相続税を強化するとか、そのくらいのことは当然やるべきです。それから雇用の形態に関係なく人間らしい生活を保障するという大原則を建てるならば、社会保険料の雇い主負担を回避するために非正規雇用を増やしてきたというこの数年の企業の行動に対して、ある種のコントロールをかけるべきだという結論に至ります。そうするとフランスでやっているみたいに、賃金に対して一定率を課税する。雇用形態に関係なしに。アルバイトの給料も、パートの給料も全部含めて。それを社会保障の財源にするという構想も必要だと思う。最後にどうしても足らなければ消費税増税という議論もいずれはしなければいけないと思いますが、まず政権交代を機に、私は利害対立の状況の中で民主党がある立場に立って、一定の政策の方向性を打ち出していって、それをパブリックな公共の政策として決定するという経験をすべきだと思います。
実体的な経済、社会保障と並んで、民主化を進めるという政策も期待したいですね。地方分権ということを民主党もいっていて、そこはやってほしいと思いますが、道州制とかなんとか大きな制度を変えるという話をすぐにやってはダメです。そんなことをやったら時間ばかりかかって、制度を変えることで終わってしまう。むしろ、社会保障を担う基礎自治体に対して財源保障機能を強化していく。そのことが当面は地方分権の中味だろうと思います。
それから重要なことは権利を保障するということですよね。個人の多様性を尊重する。男女の平等を実質化する。こういった面で自民党ならば接待に手をつけようとしなかったようなアジェンダ、夫婦別姓とか民法改正とか、そういったところに手をつけていってほしいなというふうに思います。
それから選挙制度もこの際大いに見直したほうがいいと思います。もうちょっと参加しやすい選挙の仕組みに変えていくことも必要だと思います。
次の問題点は政治主導の虚実という話です。なぜ政治主導かという話から振り返ってみたいと思います。官僚主導とよく言いますが、当の官僚にいわせると、これだけ政治家にこき使われて、いろんな下働きをいっぱいして、なにが官僚支配だと被害者意識を持っています。政治家は政治家で自分たちが何かやろうと思っても、大きな壁があって何もできない。そういうことを言っている。単純に考えますと、法律とか予算は国会で議決をするわけですから、国会議員、国会の多数派の政治家がその気になってやろうと思えば、なんでもできるはずです。官僚がいろいろ逆らっても国会で多数決してしまえば、それで物事が変わるはずです。ところがなぜ変わらないかと言えば、政治家自身がきちっとした意思統一がなされていない、あるいは多数派政党の中にいろんな意見があって、一つの方向に進んでいけない。そこに実は問題があります。
官僚というのは一府十二省体制の縦割りです。その縦割りに沿っていままでは自民党を籠絡して、いわば霞ヶ関の各省が永田町の自民党本部に植民地を作って族議員というものを育成してきたわけです。結局そのような行政機構の分断体制が与党に移行したというところが、実は官僚支配の本質です。政治家の頭もそこで洗脳されて結局、環境対策とかドラスティックなアジェンダを出そうとしても、政治家の側からも抵抗が働く。環境問題であれば経済産業省に洗脳された政治家が温暖化対策に対して、それは現実的ではないと足を引っ張る。地方分権であれば、国土交通省に洗脳された政治家が足を引っ張る。だから物事が変わらない。
メディアでは、あるいは民主党の政治家のみなさんは、それを官僚主導と呼んできたんですね。官僚に対する過大評価だという感じもするわけで、政党がきちっとした意思を持てない問いところに実は原因があった。それを官僚主導と呼んだだけではないかと私は思うのです。
そうすると政治主導というからには、民主党の中できちっとした意思決定ができなければいけないし、民主党の政治家が党の政策、方針をきちんと共有していくことが必要なのです。そこのところを見失った状態で政治主導と言っても意味はないのです。政治家を百人、行政府に入れると言っていますが、そんなもの「船頭多くして船山に上る」というやつで、政治家をたくさん入れれば政治主導になるというような単純な話ではありません。
民主党の議論というのは明らかに、イギリスのモデルをお手本としています。たしかにイギリスは政治主導で物事を変えてきた実績があります。私は、一九九七年にイギリスに留学をしていまして、十八年ぶりの政権交代の様子をつぶさに観察することができました。実際、労働党が政権を取った後、怒濤のように政策転換を推進していったんですね。なぜそのようなことができるかというと、与党の中に非常にハッキリした司令塔があり、その権力の中枢で政権運営のシナリオ、方向性がみんな共有できていた。いい悪いは別として、党というのはものすごくはっきりしたヒエラルヒー、階層構造、党の中の集権化はものすごく、トップダウンで物事が決まっていくという体制があったというわけです。政権を取ったら最初の段階ではお金のかからない、かつ、シンボリックな政策で政権交代を印象づけるというので、スコットランド、ウエールズの地方分権をまず決める。上院の世襲貴族という制度をなくす。狐狩りをやめる。そのようなある種の価値観を示すような政策を打ち出していきました。ある程度落ち着いたところで、医療と教育と雇用に大量の予算を投入して、それ以前の新自由主義、保守党政権との違いを打ち出してゆくということで、大きな成果を上げたわけですね。
その意味で民主党政権に戦略というものがあるのかということなのですが、国家戦略局がそういう政策転換の要になるのかなと予想していました。実は昨日、ある雑誌の企画で菅直人さんと久しぶりに会って、長い時間対談する機会がありました。割合、菅さんが控えめだったのが印象的でしたね。出しゃばってあれこれ言うと不必要な摩擦が起きると。司司でやっていくのがいいと言っていました。そうすると、民主党政権の売りをどう効果的に打ち出していって、人々に政権交代をどう実感してもらうか。このシナリオはどこにあるのかは私もよくわからない。
民主党が政権を獲ってから、権力の集中、トップダウン型のリーダーシップということをすごく強調しているのですが、市民社会からの参加ということをどう位置づけるか。結構大きな問題ですね。
イギリスの場合は一方で与党の集権化というのをやったのでが、市民社会との間にコミュニケーションの回路を多様に開きました。重要な政策形成の過程においてはグリーンペーパーとか、ホワイトペーパーとか、言わばたたき台とか法案要綱みたいなペーパーを随時公表して、それに対してコメントを集め、いろんな議論の場を作って、そういった多様な参加の仕組みを作っていたわけです。民主党が政権を取ったときにそういった、回路を造れるのかどうかというのが大きな課題になってくるのかなと思います。
とくに菅直人さんとか、一部の民主党のみなさんは湯浅誠さんなんかの派遣労働者の権利を守る運動とかとコミュニケーションがありますし、公共事業の問題で言えば、公共事業を見直す側の市民運動とのコミュニケーションがある。そういうところから、プロセスを変えていくということが重要かなと思います。
それから官僚支配というのは政党の機能不全、政党がまとまれないことが官僚支配だと言いましたけど、民主党もその部分ではこれから厳しいテストを受けなければいけない。たとえば、鳩山が温暖化防止のために二酸化炭素などの排出量を二十五%減らすと国際公約した。これは素晴らしいことだと私も思う。素直に拍手を送りたいと思いました。ただこれを国内政策として具体化、実行していくという段階に入りますと、とたんにいろんな難問に遭遇します。
民主党は労働組合を代表していますし、そもそも直嶋経済産業大臣は自動車総連の出身で、ある意味でトヨタの利害代表みたいなものです。あるいは電力とか鉄鋼とか、そういった大所の産業を代表する人がいっぱいいる。そうすると、自民党の族議員に代わるのが、民主党で言えば組合代表という存在ですよね。単産という言葉がありますよね。単一産業別労組のことです。二酸化炭素を減らすために、各単産の代表と戦うというのは洒落にもならない話ですけれども。ともかくそういう試練をくぐって大局的な方向付けを打ち出すことができるのか、それを共有できるのかということが見物だと思います。目指している方向は正しいと思うので、個別の利害代表にも発言させなければなりませんけれども、やはり世論を作りながら、大局的な方向をひっぱっていくという手法が必要になっていくのだろうと思います。そういった議論の仕組みをどう作るかが問われています。
ちょっと専門的な話になりますが、自民党の時代は政調会部会というのがあって、それが各省庁に対応して、議論をして、そこがまた各省の利害を侵害するような政策をブロックするという役割も果たしていました。民主党は今度政調会をなくすといっています。政府与党一元化で、主立った政治家が行政府に入ります。今のところ七十人くらい入っていますが、残りの三百数十人はただの国会議員ですね。その部分がちゃんとまとまって動かないと重大な政策決定ができない。今度、政策会議ということで各分野別に普通の国会議員が議論に参加する場を作るという話になりましたけれども、そこでのものの決め方、手続き、制度化していくということが非常に重要になってきます。
人間というのは、公開の場で誰が聞いているのかわからない状況ではあまり見苦しいことはしないものです。密室でやるから露骨な利益誘導をする。そうするとオープンな場において筋論で戦う、そういう仕組みを作っていくことが必要になります。
最後に当面の政権運営という話をします。私はマニフェストをあまり金科玉条にすべきではないと思います。マニフェストは玉石混淆でありまして、筋のいい、これは是非やってほしいという部分と、これはどうでもいいな、むしろ有害かなという部分が混在しています。国民の受け止め方も様々で、是非やってほしいというものもあれば、あまり支持できないものもある。とくに高速道路の無料化などはそうです。揮発油税の暫定税率廃止というのは国民もそんなに歓迎していない。だから何が何でも百%やりますということは言わないほうがいいと思います。民主党の中にいる秀才政治家というのはマニフェストを作って、「これをやりました。達成率何パーセント」ということを言うのが好きな人たちなんですが、政治というのはそんなものではないだろうとも思います。
あとはスケジュールの話ですが、最初は、前向きにいいことをするというよりは負の遺産を全部表に出して整理するということですね。とくに外務省の密約みたいな問題もありますが、あの手の話は各省にいっぱいある。それを一回全部あぶり出す。旧悪を暴露することが必要ですね。
そのうえで前向きにいいことをするということでしょうけれども、ひとつ民主党に注文したいのは、経済の現状に対する危機感、あるいは生活に苦しんで着る国民の実態をもっとわかるべきだということです。そこに対する手立ては急を要すると思います。ですから、たとえば高校の授業料を無料化するというのは、私も大いに賛成です。ああいう話というのは、所得制限とか一切必要ないのです。所得制限をつければ、結局そのための行政コストが上がります。線を引かれてしまうと、その線をはさんで不公平感が出てきます。そういうことはやらなくていい。その分、金持ちから税金をたくさん取ればいい、それだけの話です。授業料無料化はいいと思うけれど、それ以前に来年、進学就職シーズンに向けてもう少しちゃんとしたメッセージを出してほしいと思います。経済的理由によって進学を断念したり、学校を中退したりするような若者は一切出さないと宣言してもらって、そのための支援策を考えてもらいたい。財源的にはたいした額ではない。数百億もあれば足りる話だと思います。そういった危機感を持って動いていくという姿勢も必要だと思います。
本格的な政策展開は二〇一一年度予算からだと思っています。大きな枠組みを徐々に動かしていきつつ、当面の具体的な政策に手をつけていって、政権交代の実感をみんなに味わってもらう。このへんでなんとかなればいいなと思っているところです。
(9月25日 フォーラム神保町での講演筆記)