現代政治の深層を読む小沢の危機と民主政治の危機

▼バックナンバー 一覧 2010 年 1 月 19 日 山口 二郎

 一九九〇年代の政治改革も、昨年の政権交代も、小沢一郎氏なしにはあり得なかった。この数年、民主党のみならず、日本政治全体が小沢氏を軸に展開してきた。だからこそ、資金疑惑をめぐる小沢氏の政治生命の危機は、民主党の危機であり、更に言えば日本の民主政治の危機なのである。その意味で、政治の危機は三段重ねになっている。昨年夏、国民は自民党政治を拒絶し、すがる思いで民主党に政権を託した。その民主党が小沢の資金スキャンダルから自壊するならば、国民は政党政治そのものに絶望するしかない。
 もし小沢氏が、公共事業の受注に便宜を図った見返りに建設会社から裏金をもらっていたならば、政治生命は終わりである。本人がそのようなやましいことをした覚えがないというなら、闘いあるのみである。佐藤優氏が使い始めた「国策捜査」という言葉がメディアに定着して久しい。国策なるものの実体が存在するかどうかは別として、検察の主張を額面どおり受け止めたくないという気分も、世の中にはある程度存在する。小沢氏が政治生命をかけて闘うと言うならば、今はそれを見守りたいと私は思う。
 ただし、その場合の闘いとは何を意味するか、よく考える必要がある。事ここに及んでは、闘いは司法問題ではなく、小沢と検察の間の政治的闘争である。これが単なる刑事事件ならば、どんなに疑惑が取りざたされても、検察が犯罪を立証できない限り潔白だという小沢氏の主張はまことに正当なものである。しかし、政治的な闘いにおいてそんな悠長なことを言っていれば、負けである。
 言い換えれば、この政治闘争は、国民が小沢氏と検察のどちらを信用するかという闘いである。この闘いに勝つのは、国民の信頼を勝ち取った側である。検察との戦いに勝利するためには、小沢氏は土地購入に関する資金の流れにやましい点はないことを積極的に立証しなければならない。受身に回っては、政治的闘いには勝てない。
 政権交代を実現してから、わずか4ヶ月しかたっていない。通常国会で予算や法案を成立させ、本格的な成果を挙げるはずだったが、石川知裕衆議院議員逮捕で、鳩山政権も、民主党も最大の苦境に陥った。小沢氏にとっては、政治刷新の大業を本格化させようという矢先に、検察が横槍を入れたということであろう。党代表を務めていたときに、小沢に政権交代の夢を託していた私にも、その憤怒はよく分る。しかし、小沢にとっては理不尽だろうが、小沢のその思いは小沢自身が国民に具体的に伝えなければ、理解されない。
事態がずるずると泥沼化し、民主党及び鳩山政権に対する国民の期待が幻滅、絶望に転化するならば、その後にやってくる政治的な混沌がどれほど悲惨なものか、私には想像もつかない。政党政治の中の民主党にも、民主党の中の小沢氏にも、事態収拾のバトンを託す次の走者はいないのである。
 小沢氏個人の政治生命だけが問われているのではない。政権交代を実現した民主党が、これから日本の民主政治を前進させることができるかどうか、更には日本の政党政治の命運が小沢の行動にかかっているのである。今の小沢氏がなすべきことはただ1つである。自ら公開の場に出て、矢面に立ち、あらゆる質問に答えることである。
(編集者注・これは共同通信から配信された原稿の再録です)