フォーラム神保町香山リカの「ハッピー孤独死マニュアル」第7弾〜最後の頼みは医療か宗教か!?
勉強会レポート
「人が死ぬということとは、生きるとはどういうことか」「命とは何か」は、私の長年のテーマであった。死や生をキーワードにいつものようにネットをさまよっていたところ目に飛び込んできた「僧医」という文字。
僧侶でありながら医師。日本で唯一の“僧医”対本宗訓氏の話から「人が死ぬということ」のヒントを得られるかもしれない。そう思い、初めてにして最後の「ハッピー孤独死マニュアルシリーズ・最後の頼みは医療か宗教か!?」に足を運んだ。
僧医とは肉体と魂を見通せる唯一の存在
まずは対本氏により、現在の僧医としての活動が語られた。やはり一番知りたかったのは「僧医って何?」ってこと。その答えは「肉体と魂の両方を見通せる存在」。つまり、人は肉体と精神・魂から成り立っているが、病に苦しむ人を救うためには、そのどちらか一方のケアだけでは不十分である。しかし宗教と医学を学んだ者ならば、その両方ができる。医師として肉体を、僧侶として魂を診ることで、人の苦悩を和らげることができる。それが僧医だということだった。
しかし意外にも、臨床の現場では仏教用語を使ったことはないという。その理由は、本当に釈迦の教えを理解できているのならば、仏教用語を使わなくても普通の平易な言葉で、その人、その場に応じた表現ができるからだということだった。裏を返せば、仏教用語に頼っているうちは、仏の教えが本当に自分のものになっていないということ。借り物の言葉では、人の心は救えないということなのだろう。臨済宗の最高指導者の地位にまで上り詰め、7年間も弟子を指導してきた対本氏ならではの深い言葉だと感じた。
そのほかにも、「宗教とは何か」「信仰心と宗教心との違い」「臨済宗の最高指導者の地位を捨てて、40代半ばから医師の道を志した理由」「終末期の患者への接し方」など、それだけで1、2時間はゆうに語れるであろう魅力あふれるテーマのお話が続いた。
会場に集まった聴衆一人ひとりに語りかけるようなその話ぶりは、静かだがあたたかく、心の深いところまですーっと染み込んでいくような気がした。医学という自然科学の最先端の世界一筋に生きてきた医師の話ではおそらくこうはならないだろう。この点はやはり宗教者だなと感じた。
「臓器移植には反対ですか?」
一通りのお話を聞いた後、どうしても対本氏に聞いてみたいことがあった。それは臓器移植に対するスタンスだった。時はまさしく臓器移植法改正案の審議が行われていた頃で、この対談当日に14歳未満の子供からの臓器移植を解禁するなど、従来よりも臓器移植のハードルを大幅に下げるA案が衆議院で採決された。
そういったタイムリーな状況に加え、対本氏はお話の中で、「私はドナーカードは持っていない」とおっしゃっていたからだ。宗教者は基本的に臓器移植には反対の立場の方が多いのは周知の事実だが、対本氏はお話の中で反対であるとは明言されてはおらず、もし反対ならばその理由を聞いてみたかった。それは対本氏の長年のテーマである「人が死ぬということ」と密接に関わる問題だと思ったからだ。
質問タイムでその旨を聞いてみると、まず「自分の子供が心臓移植をしなければ助からないという状況になったら、他の親たちと同様、わが子の命を救うためにできる限りのことをすると思う」と答えた。このあたりは私たち一般人と同じ感覚なのだなと思ったが、続けて発せられた言葉がやはり常人とは違うものだった。
「しかし、そういった個人的な思いと移植の問題とはあえて切り離して考えたいと思っています」。
子供を臓器移植で助けようとする親の行動には強い共感を覚えるが、臓器移植という大きな問題のあくまでひとつの側面にすぎず、そちら側にばかり目が行くと本質が見えなくなるというのだ。
ではその本質とは何か。それはとりもなおさず対本氏が幼少の頃から抱えている疑問、そして臨済宗の最高指導者の地位を捨てて、40代半ばにして医学の道に進んだ原点ともいえるテーマに直結する。
人の死とは何か
「脳死という問題の一番のポイントは、『死とは何か』ということです」
人が死ぬということとはどういうことかという根本的な問題を議論せず、また考えようともせず、ただ臓器移植の社会的な制度や約束事やシステムの運営だけが議論されているのがおかしいというのだ。このお言葉に目からうろこが何十枚も落ちた気がした。
我々はつい問題の本質を混同してしまいがちだ。個人的な問題としての脳死と制度としての脳死、否、制度として考えることすら表層的な問題にすぎず、人が死ぬということはどういうことかという根本的な問いが抜け落ちてしまっている。死とは何かを考えることは、命とは何かを考えること。対本氏がおっしゃるとおり、死は自然科学である医学の俎上に乗り切れるテーマではない。哲学、倫理、宗教など医学以外の学問領域で研究されてきた、人類有史以来の永遠のテーマだ。
確かに私も臓器移植をすることで助かる命があるのなら助けたいという思いで、臓器移植には賛成の立場で、より多くの命が救われる可能性のあるA案を支持していた。しかしそもそも脳死を人の死として本当にいいのかという問題には納得のいく答えを出せずにいた。死とは何か=命とは何かという問題に対してもう少し深く考えてみようと思えただけでも質問してよかったと思う。
しかし、私のもうひとつの質問の「対本さんが子供の頃から持ち続けている死とは何かという問題に対する現時点でのお答えを教えてください」には、「ただ人の死が怖かった子供時代とは違い、年齢を経て経験を重ねるに従って、深まってきた。現時点での私なりの死の捉え方は確かにある」としかお答えいただけなかったのが少し残念だった。この答えはいつかインタビューさせていただいたときに、教えていただこうと思っている。
他にも何人かの聴衆から質問の手が挙がったが、答える前にまず「ご質問、ありがとうございます」とすべての人にお礼の言葉を述べられていたのが印象的だった。こんなところにも、いついかなる時でもいかなる人に対しても感謝の気持ちを忘れない、あたたかいお人柄がにじみ出ていると感じた。
インドの修行僧だと思えば孤独死も怖くない
そもそも今回の対談は「ハッピー孤独死マニュアルシリーズ」の中の1回であり、そのテーマは「孤独死ってそんなにいけないことなのか?」「孤独死をハッピーに迎えるためのコツを、“現場の達人”に学ぶ」である。
香山氏は「孤独死でも別にいいじゃん」「孤独死を恐れるあまり、孤独死を避けるために汲々として生きるのは間違っているじゃないか」という孤独死に対して肯定的なスタンスだが、その問いの対本さんのお答えは、「本人が幸せで回りに迷惑をかけなければいいんじゃないか」という非常にシンプルかつ的確なお答えだった。さらに「そもそも僧はひとりで死んでいくものだ」とのお答えに対して香山氏の「じゃあ、シングル女性もインドの修行僧だと思えばいいってことですね」とのまとめには会場が笑いに包まれた。(ちなみに私は孤独死はやっぱり嫌だ。そんなのさびしすぎる。最期は誰かに看取られたい)
恐るべし! 香山リカの質問力
今回対本氏との対談がこれだけ盛り上がったのは、香山氏の質問力・ツッコミ力によるところが大きい。彼女の本質を突く質問、我々がそこをもうちょっと聞きたいと思ったポイントへの突っ込みによって、非常に濃い内容になった。対本氏がおひとりで講演するケースよりも、多くのものを引き出してくれたのではないかと思う。
最後の質問も対本氏の本質に迫る最高の質問だった。
「職業的なアイデンティティで言うと、対本さんは医者ですか? お坊さんですか?」との香山氏の質問に、対本氏は「私は骨の髄まで宗教者です」とはっきりと答えた。一瞬の迷いもなく。
質問者もすごいし、回答者もすごい。質問する側と答える側のレベルが高ければ高いほど質の高い、おもしろい対談になるという見本のような対談だった。
しかし、同時に、この香山氏の質問にはジェラシーも感じた。その類の質問こそ私がいつもインタビューに投げかけている質問だったからだ。なぜこの質問ができなかったのか……。自己嫌悪にも近い感情がわきあがってきて最後の最後にちょっぴり凹んだ。まだまだ修行が足らん!
そんなことはどうでもいいとして、こんな内容の濃い対談で、しかもおいしいお茶とお菓子付きで1,500円は安い。安すぎる! 心の底から参加してよかったと思う。
ただひとつ残念なのは今回で「ハッピー孤独死マニュアルシリーズ」が終わってしまったこと。初めて当シリーズを知ったときはすでに最終回だった(涙)。バックナンバーを見れば第1回から垂涎もののテーマが並んでいる。そのすべてに参加したかった。もっと早くに知っていれば……(涙)。主催者の皆さん、似たようなテーマをぜひまた企画してください! よろしくお願いします!!!
(フリー編集者・ライター/山下久猛)
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