フォーラム神保町東郷ゼミ 「ニッポンの領土問題〜第4弾/北方領土問題を語り尽くす!」

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開催日時:2009年6月1日(月) 18:30〜20:30

勉強会レポート

「公共圏へ−−三者三様の帰還」

▼鈴木宗男。佐藤優。東郷和彦。この三人のうち、最も劇的なかたちで公共圏へ帰還したのは、鈴木宗男さんだろう。あれだけの集中砲火を浴びてなお、選挙に挑み、衆議院議員として国政に復帰したのである。圧倒的なパワーを発しながら、彼は北海道という「社会」と、自らを放逐した「国家」との、境界線上に立ち続けている。

いっぽう外務省のラスプーチンこと佐藤優さんは現在、ひと月あたり400字詰原稿用紙で1800枚を書いて、書いて、書いて、“想定の範囲外”の質量の言論を発信し続け、出版界で知らぬ者はない存在となった。喋っても当意即妙、博覧強記、今までの型にほとんど当てはまらないタイプの言論人として、いよいよ旺盛に活躍している。まさに、虎を野に放つ、という言葉が相応しい。

この二人を、自ら主宰するゼミに呼び、北方領土の問題を忌憚無く語り合う場を設けたのが、かつて二人と共に北方領土返還という難事業にわが身を捧げた、元外務省欧亜局長・東郷和彦さんである。

この日、東郷さんは「きょうは感無量です」と言った。あれだけのバッシングを受け、分断を謀られた3人である。それぞれに社会的立場を破壊され、三者三様の路を経て復活し、再び公の場で、互いに同じテーマで語り合うことができる−−その感慨の深さは、余人の想像を越えるものがあると思う。

特に、「国策捜査」によって逮捕され拘置所生活を経て復活した鈴木・佐藤両氏に対して、大使を務めたオランダの地の友人たちに守られるという僥倖を得た東郷さんの心中は、察するに余りある。この日の「東郷ゼミ」は、はからずも東郷さん自身にとって、本格的に「日本の公共圏」に帰還した日となった。

会場に新聞記者、雑誌記者が十数人来ていたが、週刊金曜日以外は記事にする予定はないという。テレビ取材はゼロ。すでに「旧聞」に属するとの認識か。もったいないことをしたものである。「旧聞」にこそ、「新聞」を光らせる源があるというのに。以下、東郷さん、佐藤さんの発言の要点を

■イルクーツク交渉(2001年)の核心

■ダメージコントロールの層が薄くなった

■外務省の能力の劣化

■その他の論点

の4点にまとめてメモしておく。鈴木さんは、言うまでもなくほぼ全ての議論にわたってコメントを加えた。特に佐藤さんと鈴木さんのかけあいには、場内がたびたび沸いた。

■イルクーツク交渉(2001年)の核心

▼北方領土返還交渉をめぐる、現下における最重要の文献は、やはり東郷和彦著『北方領土交渉秘録』のようだ。

佐藤さんは開口一番、同書の361頁から363頁に、北方領土交渉の最重要のポイントが載っている、と述べ、その一部分を読みあげた。

それは、2001年4月4日付のインタファックス通信に掲載された、ロシア外務省のロシュコフ次官のインタビューを巡る箇所である。掲載されたのは、東郷さんが日本側の事務方トップとしてモスクワ入りする、ちょうど前日だった。

このロシュコフ次官のインタビューには、どういう意味があったのか。東郷さんは『秘録』のなかで、次のように書いている。【】は引用者。

(ロシュコフ次官のインタビューによって)「国後・択捉について議論することは出来る。何故なら議論した結果はいろいろな可能性が考えられ、議論を始めたからといって引き渡しを認めたことにはならないからである」という単純明瞭な事実が、歯舞・色丹の引き渡しの確認とともに、【初めてロシア当局からロシアの世論に対して発信されたのである】。

(中略)それは歯舞・色丹の引き渡しを了解しつつも、なおかつ国後・択捉について話しあいを続けるという意味で、五六年のフルシチョフの立場とは決定的に違うものだった。

361−2頁

▼北方領土交渉の経緯について予備知識を持たない人にとっては、このインタビューの重要性を理解するのは難しいかも知れない。

詳細は『秘録』などを読んでいただくとして、要するに【】内がポイントである。つまりこのインタビューは、日ロ双方がギリギリの交渉戦を繰り広げた末に、初めて、【ロシア側がロシア国内の世論を説得するために動いた】、ということを意味する。

この箇所を再読してぼくは、「五一対四九の法則」を思い出した。「五一対四九の法則」とは、東郷茂徳外務大臣(東郷さんの祖父)が有していた外交哲学である。その核心を東郷さんは、病に伏せる母親のいせさんから聞いた。

非常に重要な点だと思うので、いせさんの言葉を引用しておく。

「交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことも考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりにそれができるのは、相手と直接交渉してきた人なのよ。その人たちが最後に相手に『五一』あげることを考えながらがんばり通すことによって、長い目で見て一番お国のためになる仕事ができるのよ」

この会話から数日たって、母は他界した。

391頁

▼ロシュコフ次官のインタビューは、まさにこの「五一対四九の法則」が、一時期のロシア側でも発動していたと推測するに足る内容である。あのとき北方領土交渉は、そこまで進んでいたのであり、佐藤さんが冒頭に紹介した箇所は、まさに領土交渉のクライマックスだった。

そのクライマックスから、小泉政権の誕生後、日ロの交渉基盤が無残に崩壊していく過程をも含めて、『北方領土交渉秘録』は一読に値する現代史の証言となっている。

▼また、同書の323頁には、「ごく一部の関係者しかもっていなかった案文のリーク」によって、「交渉相手との信頼関係を根本的に破壊する可能性」が出来(しゅったい)した、2000年8月の危機について言及されている。

この一件について、壇上の三人が踏み込んで発言。それは外務省にとって「7人ほどしか持っていない資料が“抜かれた(=スクープされた)”」大事件だった。三人のやりとりは、当時の犯人探しも含めて、交渉の舞台裏を彷彿とさせるものだった。

このリークの話題に端を発した、外務省官僚の心性論、能力論は、ゼミの間中、たびたび反復された。それらは佐藤さんによる「アサヒ芸能」の連載に詳しく描かれているので、興味のある方はご参考に。

■ダメージコントロールの層が薄くなった

▼このゼミのタイトル通り「北方領土問題を語り尽くす!」といっても、機微は常に、個別具体の事実にひそむ。

東郷さんは北方領土交渉を巡って、主に

  1. ロシア政府の動向、
  2. 最近の気になる点、
  3. ここ10年ほどを省みた総括、

の3点に言及した。

▼(1)は、プーチン首相が北方領土の交渉について、要するに「イルクーツク声明に戻ろう」というメッセージを発しているのだが、そのメッセージを、はたして日本政府は正確にキャッチしているのか不安だ、という指摘である。

▼(2)は(1)と直結している。具体的には首相の「ものの言い方」の問題。

まず、麻生首相が5月20日、参院予算委員会で「現在もなおロシアによる(北方領土の)不法占拠が続いていることは極めて遺憾だ」と言った「不法占拠」発言。

次に、5月12日に行われた麻生・プーチン会談で、麻生首相が「『(歯舞、色丹ニ島の日本への引き渡しを定めた)56年宣言』では(北方領土問題は)未来永劫解決しない」と言った件。つまり「四島一括」を主張したということ(5月22日付朝日新聞)。

この二つとも、日本政府にとって当然の主張なのだが、論議の大前提として、「外交には相手がある」のだ。問うべきは、なぜ、わざわざ今、首相の口から、これらの強硬な言葉が発せられねばならなかったのか、という問題である。東郷さんら3人にとっては、これらの首相の発言が、領土返還のためにしんじつ考え抜いたうえで発せられたものだとは、到底感じられないのである。

首相発言を踏まえて東郷さんは、現在の外務省の体制は、壇上の三人が最前線に立っていた頃と比べて、「ダメージコントロールの層の厚みが薄くなっている」と言わざるを得ない、と指摘した。

▼そして(2)は、ここ7、8年の自身の経験を通して、日本は「外交問題」と「歴史問題」の二つの分野で、あまりにもエネルギーを浪費してきた、これ以上、エネルギーを浪費するな、2002−3年に起こした愚を繰り返すな、というメッセージである。

■外務省の能力の劣化

▼全編を通して最も旺盛に発言したのは佐藤優さんだった。そのなかから、これも3点

  1. 外務省の能力の劣化
  2. 獄中生活を経ての発見
  3. 国家と社会の混同を分けよ

に絞って紹介する。

▼(1):まず佐藤さんは、主に三つの事例を出して、外務省の能力が劣化している現実を指摘した。

▼事例の一つめは、北方領土交渉について“プーチン首相が「3.5島」と口にした”というウソ(日経)が流れた経緯について。佐藤さんは、プーチン発言のロシア語の原典を、その場で逐語訳して、プーチンが「3.5島」と言ったというのは完全な誤報であることを指摘。

この誤報の背景には、もちろん谷内政府代表に対する毎日新聞のインタビューで飛び出した「3.5島」発言があるわけだが、こうした間違いが普及しかけた際には、外務省はただちに、該当するマスメディアに対して「それは違う」と指摘しなければならない。しかし現在の外務省は、その当然行うべき業務を行っていないと思われる。

▼事例の二つめは、外務省のロシア語通訳の質が著しく低下している点について。これは「SAPIO」連載などで詳細に論じられた内容の要約である。

▼三つめは、5月29日にクレムリンで行われた、新任駐ロシア特命全権大使(河野雅治)の信任状奉呈式において、ロシアのメドベージェフ大統領が、北方領土問題について「(北方四島の)ロシアの主権を疑問視する日本の試みは交渉継続を促すことにはならない」と述べ、日本政府を批判した件である。

この問題は、信任状奉呈式という場において日本政府を批判したメドベージェフ大統領の外交センスの鈍さにある。しかし、それに輪をかけて鈍かったのが日本の外務省の反応である。

正確にいうと、外務省はメドベージェフ大統領の無礼に対して「無反応」だった。この場合は、たとえばその場にいた河野氏が即座に抗議しなければならないが、した気配はない。こういうことの積み重ねで、相手からナメられてしまい、結果的に外交交渉が不利に傾くのである。

▼(2)佐藤さんの発言の2点めは、獄中生活を経て、新たに発見したテーマ群である。

それは「沖縄」であり、「資本論」であり、「日本の古典」であり、それらの発見などを通して訪れた“三つの回帰”−−沖縄回帰、日本回帰、天皇回帰−−である。
佐藤さんは今後、本格的に「神学の仕事をしたい」という。

▼(3)の「国家と社会の混同を分けよ」とは、日本社会を強くするために敢えて一つ提言するとすれば、この一つになる、という話である。もっと約(つづ)めて言えば、人間らしく生きるためには、過剰に「国家に頼るな」ということだ。

佐藤さんは「社会理論をつくりたい」という希望をもっている。その希望が神学論と結びついたとき、どのような言論が生まれるのか、期待している人は少なくないだろうと思う。

この場では、今後の社会理論を構築する手がかりとして、自然に生じる「コミュニティー」ではなく、意志をもってつくりあげる「アソシエーション」こそ必要であり、その観点から考えると、日本社会においては創価学会の存在が重要で、言論界の人々はもっと虚心坦懐に創価学会の価値を見つめなければなら
ないと指摘した。

▼以上の意見を聞いてぼくが考えたことを一つ。

公共的な言論の舞台が、「官僚=記者」のやりとりの範疇に狭められている。もっと荒々しく、もっと大胆に、「官製報道」そのものを相対化する力を、あらゆる機会と手段を使って、育てなければならない。

■その他の論点

▼さらに佐藤さんは、毎日新聞根室支局の本間浩昭記者が取り組む、北海道の生態系についてのユニークな仕事などを紹介しながら、環境問題を手がかりに北方領土交渉に臨むべきだと訴えた。

▼また、鈴木さんと佐藤さんが、かつて北方領土返還のために振り絞った知恵の数々を証言した。これも彼らの言論の随所に紹介されているからいちいちまとめないが、あらためて、外交とは政治、経済、文化、人心等々の、もてる力のすべてを総動員すべき仕事であるということを感じさせられた。
それらの証言を受けて東郷さんは、当時の戦いを思い起こすと「胸が痛む」と言った。この一言は三人にとどまらず、当時の真相を知る人々の多くが共有する声だろうと思った。

▼最後に、個人的に最も感銘深かったのは、次の場面だった。

佐藤さんが言った。−−今後、政権交代が起きて、民主党政権になり、鈴木先生が外務副大臣になり、政治任命で東郷さんにロシア大使の話が来たときには、東郷さん、大使の任命を受けるべきですよ、と。

鈴木さんがすかさずこの意見に同意し、日本は再び東郷さんの力を必要とする、と言い、東郷さんは、しばし絶句した。


言うまでもなくぼくは、ロシア大使に、という立場の話に感銘を受けたのではない。

三人は、一つの目的のために戦い、内部の敵から互いの信頼関係を分断され、社会的生命を奪われ、この7年間、それぞれがそれぞれの辛酸を舐めてきた。

その三人が、再び同じ目的のために戦いうる境遇に立つという情況を、7年前に、この社会に暮らす誰が想像しただろうか。

しかも入獄した鈴木・佐藤の二人が、東郷さんに対して、あなたは入獄を免れたからこそ、表舞台に立つ使命が残されているのだ、だから、その使命を果たさなければならない、と一生懸命に語るのである。

こういう関係が、実際にあるのだ、とぼくはうれしく思い、胸打たれた。冒頭、2009年6月1日が、東郷さんにとってほんとうの「公共圏への帰還」の日となった、と書いた所以である。

三者三様のかたちで公共圏へ帰還し、公の場に揃って立った三人が、それぞれの使命を全うすることを祈る。

(竹山徹朗/メールマガジン「PUBLICITY」編集人)

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