フォーラム神保町「国家とヤクザ〜アジアの国家権力とアウトサイダーはどのように『共生』してきたか〜世襲制是非論」

▼バックナンバー 一覧 Vol.92
開催日時:2009年5月30日(土) 18:30〜20:30

勉強会レポート

今まで見たことのない独特なスタイルの講演だった。

松本氏は、中国民族、庶民が伝統的に持つ「心のよりどころ」としての「輪」と、義兄弟的つながりから有力な地下組織となる「幇(ハン)」がそれぞれどのように成立し、構成されているかを、またところどころで「輪の外での個人主義」、「面子の重視」、「本音と建前」、「権力に対する面従腹背」について、日本人のそれとは異なる中国人の意識、行動様式の面から解説する。

数日前に映画『ウォーロード 男たちの誓い』(原題『投名状』)を見た。
清朝末期の馬新貽暗殺事件をベースにした、「投名状(=忠誠の証)」を結んだ義兄弟3人の絆と闘いの物語である。

歴史と戦を背景に男たちの義と心情を描くこのドラマは、松本氏の言う「輪」を映像にして見せてくれた。
映画では「盗賊」と表現されていた彼らの属するコミュニティーが、「幇」に相当するのではないかと思った。

主人公3人はまさに「三人幇」である。彼らは戦績により「盗賊」から「兵」へ、そして西太后の信頼を得て、「官」へと取り立てられる。

「地縁・血縁の中から出世した武人や官僚が、一族もろともの面倒を見る中で門閥が形成される。門閥のトップは成功者として地縁血縁の者たちの生活環境保全のため、賄賂を受け取らざるを得ない、或いは毟り取る宮廷政治構造が出来上がる」という松本氏の「中国人的人治主義」への考察は映画にも見て取れる。
新しい国づくりに野望を持つ兄と、盗賊仲間の英雄になりたいもう一人の兄、ただ投名状の誓いを守りたい弟。
そこから3人の関係に亀裂が生まれ悲劇的な結末となる。
映画には、結局彼らの義も愛も、西太后下の大臣たちに利用されただけ、という戦のむなしさと中国庶民大衆の苛酷な運命が描かれていた。

だからこそ中国庶民は、王朝であれ共産党であれ、時の政権を絶対に信じることはないし、「輪」も「幇」も小さくも弱くもならない、という松本氏の話には納得がいくし、『ウォーロード』には、100億円かけたゲーム映像にしか見えない映画『レッドクリフ』とは違う、泥臭さとリアリティと心の襞が描かれており感動した。

宮崎さんは松本氏の話の背景として「中国共産党と新しい中華帝国」の資料を示して、理解を助けてくれた。

そこには、「大躍進」と「文化大革命」の失敗と混乱に学んだ中国は「トウ小平の指導の下で、歴代王朝と同じ、統治者と被統治者の分離、被統治者は政治に参画しない代わりに政治に責任を持たず、自分たちの生活に専念すればいいという体制に落ち着いた」と述べられている。
それはかつての歴代王朝やソ連社会主義のエリート官僚制とは違い、大衆の中から選ばれたリーダーによる伝統的人間関係優先主義で再編成された、「共産幇」とも言えるもので、ヨーロッパの共産党にも見られない特質であり、日本以外のアジアの共産党には似たところがあると言う。

経済体制も、ソ連圏の社会主義国家とは異なり、中国にはさまざまな形態の経済システムが混在していたため資本主義への移行もスムーズであった。地方分立と基層社会の自治化も進んだ。
しかし、こうした動きから中国全体が民主化する、ということはない。共産党一党支配は変わらない。
この中国共産王朝は、下の自治には共産幇の「顔役」として、中枢においては宗族と幇を通じてつながっていた華僑ネットワークを使って、一気にグローバル経済を展開し、新しい中国帝国支配を実現した。

松本氏は幇は共産党政権の圧政ごときで潰れるわけもなく、今も静かに膨張し、胎動していると言う。
宮崎さんが配った「中国的専制(チャイニーズ・ディスポティズム)における個人と社会」の資料を読むとさらに理解が深まる。

——「関係における個人」を基にして、その個人が宗族と幇を通じて水平的に結びつくと言う中国的な個人と社会の関係が成り立つのであり、そうした関係が重層的かつ多元的に累積されて出来上がっているのが中国社会なのである。

中国工農紅軍の軍律のモデルになったのが太平天国軍の軍律であり、それは明治期に日本で蜂起した秩父困民党の軍律と性格を同じくするものでもあった。秩父困民党の指導者の大半は博徒であり実体は農村任侠集団であった。これらの軍律は幇的、自治的な民衆社会の規範を反映していた。それ故、民衆の支持を得ることができた。

——中国においては、国家と社会は、あくまでおたがいに外的なものとしか成立しえなかったのである。だから、(政治的な解決の必要な)危機においても、部分的社会権力から全体的政治権力への連続的発展はありえず、飛躍的な発展すなわち革命があるのみなのである。

中国政治政権は社会に根付いたものではなく社会に対して超然とした理念を建ててそこに支配の正統性を求めた。これが中華帝国に特徴的な「中国的専制(チャイニーズ・ディスポティズム)」権力であり、幇はこれとは切り離された社会権力を担っている。ゆえに幇は犯罪組織ではなくてもアウトローであり秘密結社として存在することになる。

一旦社会権力が政治化しても、中国全体の政治権力とはならない。国家権力を握った党と幇の利害は一致しなくなり、幇は地下に潜ることになった。

そして現在の胡錦涛政権は毛沢東型でもなく西欧型でもない、中国独特の「人民民主独裁」と「市場制社会主義」をポリシーとしている。その流れの中で、幇は再びノンエリート層の相互扶助組織としての役割を得ていく。

宮崎さんは、日本でも、近代化の過程で失った部分社会政治の復活から始めよ、と問題提起をしている。法=権利としての民主主義ではなく、掟=義としての自治に依拠するべきであると。
民主主義は自明の価値のように唱えられているが、その原理が実現しているところは世界中のどこにもない。民衆の原理は民主主義を勝ち取ることで実現する、とされる近代の理想は幻想であり、失敗であったことを認めよと。

薄々そうではないかと疑っていたが、それを中国人が5000年の歴史を通じてはっきりさせてきたではないか、と言われれば首肯するしかない。

さて、テーマの世襲の是非であるが、アジアのアウトローは世襲しない。国民党は世襲をしたことがあったが、自ら止めた。
日本のアウトローも原則世襲は否定的。初代の苦労と環境から「苦労した者でないと組織が維持できない」と考える、とのことだった。

しかし、私のような実態をよく知らないものから見ると、日本のアウトローは「親分」「子分」の疑似家族であり、有力な子分が親分を継ぐという、疑似というよりむしろ濃い世襲制なのではないか? と思うところもある。

会場からは青幇と紅幇との関係や、幇と付き合った日本人についての質問があり、蒋介石や孫文のエピソードを聞いた。
宮崎さんが執筆中の『白狼伝』も話題になる。上梓が待たれる。
映画『孫文 100年先を見た男』は9月公開。こちらも紅幇(洪門会)がどのように描かれるのか、楽しみである。

参考図書:
「幇」という生き方—「中国マフィア」日本人首領の手記 (徳間書店)(単行本)
アジア無頼—「幇」という生き方 (徳間文庫) (文庫)

血族—アジア・マフィアの義と絆 (幻冬社)(単行本)
血族—アジア・マフィアの義と絆 (幻冬舎アウトロー文庫) (文庫)

(会社役員/桜井真理)

固定ページ: 1 2