フォーラム神保町第29回「フォーラム神保町・第1期の総括」

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開催日時:6月23日 (月) 18:30〜

「我が亡き後に洪水は来たれ」
半年ぶりに第一期の総括を振り返ってみると、この言葉が浮かばずにはいられなかった。来年に開始を控えた裁判員制度、問題の深刻さが認識されはじめた貧困問題、官僚制的確で発言責任を負わない、“左”“右”という記号を商売とした言論構造。6月に話されていたこれらのテーマは、半年後の12月になっても先が見えないどころか、より深刻な問題を引き起こしている。
裁判員制度はいくつも欠陥を抱えたことが明白であるにもかかわらず、走らせることだけは変えない。無謀である。貧困問題は、正社員の大幅な首切りに内定取り消しまで生んだ。無道である。官僚制的な言論ビジネスは、田母神論文の擁護まで出る始末だ。無策・無思考である。

行為の結果を考えない主体の無責任さは、こちらの想像をたやすく凌駕した。まさに、「我が亡き後に洪水は来たれ」だ。問題の放置が自らの首を絞めることになろうとも、いま責任を回避できれば“良し”とする。
ただ、この精神の野放図さを許さない程に状況の変化は早い。正規社員の貧困化など、6月の段階では指摘しても現実味を感じる人は少なかったはずだ。しかし、わずか半年で様相は一変した。「我が亡き後」の「後」などと、構えていられる猶予期間は最早なくなったということだろう。
これは、裏返せば講師陣が語っていた左右の枠に囚われない言論、発言責任を負う思想の重要性が一層高まったといえる。結果責任を考えずに自由競争に市場の統制を委ねる、思想の影響力はなくなったと発言責任を引き受けない等。これら言葉の行き先を考えない言説は、混迷をかき回すだけで、拠点になりようがない。競争的な発想、自分だけサバイバルできればという発想も、結局「まさか自分がこんな目に」といった状態を迎えるだけだ。
社会とは、企業とは、人とは? 社会の土台と先を真摯に考えたテキストと姿勢が再評価されるのではないか。
先日、加藤陽子氏は「『論座』は理想を語ることで時代を批判する眼を、『月刊現代』はノンフィクションの持つ迫力によって社会を批判する眼を、それぞれ読者に持たせてくれた」(毎日新聞 12月25日夕刊)と、両誌の果たした役割を端的にまとめていた。この“批判する眼”、行為者の責任を“放置しない眼” が、まずは状況を面白く変える、言論の素となると思われる。

2008年は正負どちらで転機の年となるか。まだ、結論は出ていないはずだ。私は図太くねちっこく考えて先を見たい。不安の先へと踏み出したくなる、改めて勇気の出る第一期総括であった。

(角川書店第一編集部 岸山征寛)