特集「小沢一郎」その2 思考解剖 小沢一郎(2)

▼バックナンバー 一覧 2009 年 12 月 22 日 魚の目

小泉自民党との対立軸

 
 鳩山政権誕生から約一週間後、山口は報道各社からの取材攻勢の合間をぬい、東京・神田神保町でインタビューに応じてくれた。
 
—山口さんが小沢自由党の変身に驚いた経緯を詳しく話していただけませんか。
山口 私はもともと小沢さんが嫌いで、自社さ政権を支持した人間でしたから彼との付き合いはなかったんです。それが二〇〇三年一月に突然、自由党の研修会に呼ばれた。そのころは自由党が自公の連立政権から離脱して野党になった後でした。
 
—研修会ではどんな話を?
山口 要するに「第三の道」の話をしたんです。小泉政権の目指す構造改革は新自由主義の「小さな政府」で、こんなことをやったら日本の社会はおかしくなる。格差は広がるだろうし、社会保障も崩壊するだろうし、その時に備えて野党は今からちゃんと理念を準備しておこうと言ったんです。
 
—平野さんら自由党側の反応は?
山口 自分たちは(ブレア政権のブレーンで「第三の道」を提唱した社会学者)アンソニー・ギデンズの著作をちゃんと読んでいる。京大の佐和隆光さんのようなネオリベ(ネオリベラリズム=新自由主義)批判の経済学者も呼んで話を聞いている。自由党は「第三の道」路線で行くと言っていました。それを聞いて非常に意外な感じがした。九〇年代の『日本改造計画』路線からいつのまに変わったのかなと。
 
—ちょうどそのころ小沢さんは社民党党首だった「護憲派」の土井たか子さんとも憲法解釈のすり合わせをやっていますね。
山口 そう。あのころは野党が四分五裂状態で自公政権盤石の時代でしたからね。二〇〇一年に小泉(純一郎)が総理になって参院選で勝ち、しばらく選挙がない時期だった。〇三年に民主党と自由党が合併するんですが、その一年近く前に私や土井さんへのコンタクトがあった。小泉が自民党をすっかりモデルチェンジして、しかも路線的にもネオリベと対米一体化で大人気を得た。野党はそれに打ち勝つ戦略を立てられない状態でしたから、小泉自民党との対立軸をつくるには、ある程度社会民主主義的路線を取らざるを得ないという問題意識が小沢さんにあったんだと思います。
 小沢自由党は〇三年の民主党との合併前後から「左」にウイングを伸ばし、社民党や民主党左派(旧社会党出身)グループ、それに連合との政策協議を進め、彼らの支持を取りつけている。その節目になったのは〇三年末、民主党左派のリーダー格・横路孝弘と安全保障の原則について「自衛隊は専守防衛に徹し、それとは別組織の国連待機部隊をつくる」など四項目の合意に達したことだろう[注1]。小沢は横路らとの連携で民主党内での勢力基盤を広げ、それが〇六年の代表就任へとつながっていく。山口へのインタビューをつづけよう。
 
—自由党とのその後の関係は?
山口 〇三年の九月末、民主党と合併する直前に小沢塾[注2]に呼ばれて話をしました。その時、平野さんは自由党末期につくった基本法案が思想的には日本版「第三の道」だという自負をはっきり持っていたし、小沢さんもそれでいこうということだったと思います。

[注1]
合意の翌年〇四年三月に「日本の安全保障、国際協力の基本原則」と題する文書を発表している。この文書では六項目の基本原則が掲げられた
[注2]
小沢一郎政治塾。二〇〇一年に自由党の機関として設立され、民主党との合併以降も小沢氏が塾長を務める私塾として存続。「小沢チルドレン」と呼ばれる政治家を多数輩出している

 

  路線転換

 その後、山口が小沢と再び会ったのは〇五年のことだ。この年九月に郵政民営化をめぐる解散総選挙が行われ、その前後に二回にわたって小沢と対談した。
山口によれば総選挙大敗後、岡田克也に代わって民主党代表に選ばれた前原誠司は、小泉の新自由主義路線に打ち勝つには社民主義の福祉国家路線を掲げるしかないという論理的必然をまったく理解せず、「自民党と改革競争をする」などと口走っていた。
 小沢との対談で、山口が米国型の市場原理主義か、セーフティネットで最低限の国民の生活を保障する西欧型「第三の道」か、その形の二大政党制が世界的には一般的だと水を向けると、小沢はこう言った。
「僕の二大政党論もそうです。アメリカ型の強い者が勝てばいい、という類の発想はとる必要もないことですから。
 小泉的な手法、イコール単なる官僚統制だけが強まる結果、何が国民にもたらされるかは、もう分かり切っています。そんな遠い先ではなく、近い将来に破綻を来す。財政だけではなく社会的に国として破綻する」
 小沢はさらに持論の国連中心主義と小泉の対米一体化路線との違いを強調し「二一世紀の平和の哲学、共生の哲学を日本から発信するという志を持ちたい」と述べた。
 この山口・小沢対談は民主党の機関紙『プレス民主』に掲載され、翌年二月の偽メール事件[注3]をきっかけに誕生する小沢民主党の方向性を明確に指し示すものとなった。私は山口に小沢との対談の経緯を尋ねた。

[注3]
二〇〇六年二月に民主党の永田寿康衆院議員が、衆院予算委員会で提示したメールのコピーに端を発する。このメールは、総選挙出馬に際して、堀江貴文・ライブドア元社長が武部勤・自民党幹事長の次男に三〇〇〇万円を送金するよう指示した社内文書とされたが、後に捏造だったことが判明。前原誠司議員が民主党代表を辞任した。永田議員も議員辞職、事件から約3年後の今年1月に自殺している

 
山口 僕は対談前の〇五年春から夏にかけて英国に留学していて、英国の選挙を見てきたし、ヨーロッパでのナチスドイツ崩壊六〇周年のいろんなイベントを見てきたんです。それで、靖国参拝にこだわる小泉路線はいかに国際的孤立の道をたどっているかということを説明し、やはり憲法九条の理念をしっかり保ちながら日本の戦略をつくっていくべきではないかと言った。そうしたら小沢さんもそうだ、そうだと言って意気投合しましたよ。
—小沢氏は民主党代表に就く前にはっきり路線転換をしたということですか。
山口 私はそう思う。私がなんで九四年の細川政権時代に小沢さんを明確に敵と意識したかというと、北朝鮮の核危機[注4]があったでしょ。あのとき小沢さんは「必要とあらば、自衛隊も出動させて日米一体となってやるべし」という論調だった。集団的自衛権の発動もOK、一気に日米軍事一体化に走る感じに見えた。これは危ないと思いましたよ。

[注4]
北朝鮮による核開発疑惑で、アメリカが空爆も検討しているとされたことから、韓国では住民が避難するなど緊張が高まった。カーター元米大統領が訪朝し、金日成国家主席と会談。関係当事者国の間で「枠組み合意」に達し、沈静化した
地金か?

 
—政権交代前に小沢民主党が掲げた社民主義的政策は小沢氏本来の地金なのでしょうか。
山口 いや、それは分かりません。地金ではないのかもしれません。小沢自由党が小渕政権の与党に入ったときの主張を見ると、やはり日米軍事一体化を目指していますよ。
 
—〇五年の対談後も小沢氏とのコンタクトはありましたか。
山口 〇六年四月に小沢さんが民主党代表になりましたね。そのときの記者会見の内容とか、同年四月の千葉衆院補欠選挙での民主党スローガン(「負け組ゼロへ」)を見ると、前年の『プレス民主』の対談で私が話したことがそのまま出てきたんでビックリしたんです。「あれーっ、小沢は本気か」ってね。
 
—つまり対談の時は半信半疑だった?
山口 まあね。対談のときは小沢さんは調子を合わせてくれているのかなと思ってました。それにその時は小沢さんが代表になるなんて想像もしていなかったし、副代表の気楽さでものを言ってるのかなと思っていたんですよ。でも〇六年の千葉補選、〇七年の参院選、そして今回の総選挙と小沢さんが「生活が第一」、平和と平等を追求する路線で一貫して走ってきたことは間違いない。
 
—小沢氏の著作や政治行動を振り返ってみると、彼が昔から二大政党制や小選挙区制度など政治の枠組みの改革に執着しているのははっきり見てとれます。でも、その二大政党制にしても、どういう理念と理念がぶつかり合って二大政党制ができるのか、肝心の中身が漠然としていたと思うのですが。
山口 そうですね。どういう理念で対決していくのか、それについて彼はほとんど語ってこなかった。彼が熱心なのは二大政党制と政治主導と安全保障です。その安全保障でも彼は護憲派か改憲派か、なかなかよく分からない。ですから彼の来歴は一切不問に付して、彼がいま言っていることを額面通り受け取るしかないと私は思って、この四年間、小沢さんと付き合ってきたんです。政治は目の前の問題を解決することが大事ですから。
 
—民主党と合併した直後から、小沢氏は連合とのパイプをつくり、そのパイプが政権交代で重要な役割を果たしますね。
山口 これはもうひとえに選挙のリアリズムですよ。選挙を支える実働部隊は労働組合です。やせ衰えたりといえども、地方に行ったら労組は唯一の組織なんです。組織の持っている意味を彼は徹底的に理解している。だから彼は地方を回って連合の幹部と酒を飲んだり、地べたをはうようなことを実践したわけです。するとみんなもう小沢ファンになる。北海道もそうですが、まさに小沢さんが代表してきた、ある種の保守層と労組が完全に今回は提携できた。小沢さんは保守地盤に食い込んで全部民主党に取り込んだ。都会の選挙は風向きでどっちに転ぶか分からないけど、小沢さんは地方・農村部を完全に自民党からはがした。これはすごい。社民・労組勢力と保守の連携による自民党の追い落としをやってのけた。それは彼の偉業ですよ。

  普通の国

 山口へのインタビューで浮かび上がったのは小沢の新自由主義から社民主義への百八十度の転換と、安全保障面でのタカ派からハト派もどきへの変貌だ。それが新自由主義・対米追随の小泉路線との対立軸をつくりだし、政権交代につなげるための戦略的な政策転換であることは容易に察しがつく。
 言い換えれば、小沢にとっては新自由主義から社民主義への、「小さな政府」から「大きな政府」への転換は政権交代の手段にすぎない。安全保障政策で民主党左派などの合意を取りつけたのも同じ目的のためだろう。
 では、小沢は政権交代で何を実現しようというのか。彼の思想を知る最良のテキストはやはり一六年前の『日本改造計画』である。
 この本はイラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争から二年後に刊行された。小沢はこの中で日本が多国籍軍に一三〇億ドルも拠出しながら国際的評価を得られなかったことへの苛つきを露わにし、冷戦後の国際情勢に対応できない日本の政策決定・統治システムの機能不全を強調している。
 日本の国家機能を回復し「普通の国」になるため規制緩和や市場開放などさまざまな方策を彼は提案しているのだが、そのなかで現在まで変わらぬものは二つしかない。
 一つは国際的な武力紛争に対する指針としての国連中心主義だ。『改造計画』で小沢は国連を「国際政治における安全保障の砦」と位置づけ、国連決議に基づく「人的な面」での「国際貢献」、つまり海外派兵の必要性を強調した。それから一四年後の月刊誌『世界』の〇七年一一月号でも、小沢は国連決議に基づかない多国籍軍への海上給油を批判する一方で、国連決議によるアフガンへの自衛隊派遣を推進する考えを示している。
 ただし『改造計画』時の小沢の国連中心主義は「アメリカとの共同歩調こそ、日本が世界平和に貢献するための最も合理的かつ効率的な方策」という対米協調路線と表裏一体だが、最近の小沢には米国と一定の距離を置く言動が目立っている。小沢側近の平野によれば、それは国際情勢の主軸が日米関係から米中関係優位に変わったことや、イラク戦争での米国の単独行動主義を目の当たりにした衝撃が大きかったという。
 もう一つ、小沢の主張で一貫しているのは中央官僚機構に対する姿勢である。彼は『改造計画』でも官僚政治の変革を唱え、与党と内閣を一体化し、迅速で強力な政治のリーダーシップをうち立てることを目指してきた。
 そのために小沢は九三年、自民党を割って出て非自民・細川連立政権を樹立し、中選挙区制から小選挙区比例代表並立制度への転換を軸とする政治改革を行った。現在、民主党が唱える「脱官僚依存」のスローガンも『改造計画』の延長線上にある。(つづく)
(編集者注・この原稿は講談社の雑誌g2に掲載された「思考解剖 小沢一郎」の再録です。これから来年3月にかけて順次つづきをアップします)