今旬のトピック長距離バスで通うサリンの庭

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「週刊朝日」 2009年2月13日号
長距離バスで通うサリンの庭 
松本サリン事件・河野義行氏と元オウム信者、交流900日

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※週刊朝日 2009年2月13日号より転載

 人はいかに恨みから抜け出し、赦すことができるのか。人はいかに罪を償い、死者を思えるのか。旧オウム真理教による松本サリン事件で犯人扱いされ、昨年夏に妻を亡くした河野義行さんと、8人の命を奪うことになるサリン噴霧車の製造にかかわった元信者の藤永孝三さん。被害者と加害者をつないだのは何だったのか。

 北風が吹くと、軒先に吊るされたステンレス製の筒が揺れ、高く澄んだ音色が連なるように響く。
 08年暮れの朝、河野義行(58)は長野県松本市にある自宅の縁側に腰を下ろした。94年の松本サリン事件で被害にあいながら犯人と疑われてから14年あまり。当時、風に運ばれたサリンによって一面に枯れた庭の木々には緑が戻った。3日前には「オウム真理教犯罪被害者救済法」が施行された。でも、妻の澄子はこの夏、意識が戻らないまま息を引き取った。60歳だった。風鈴はずっと妻の病室にかけてあったものだ。
 河野はゴム長靴を履きながら、並んで座る男性に言葉をかけた。
 「刑務所のなかって、年末どうしているの?」
 「カラオケ大会があるんですよ」
 「へえ」
 「僕は『ラヴ・イズ・オーヴァー』を歌おうと思ったんですけど、手を挙げられなくて……」
 藤永孝三、48歳。かつてオウム真理教の信者だった。松本サリン事件に関与して懲役10年の刑に服した。実行犯ではないが、噴霧車の製造を担当した。社会に復帰したいま、実家のある山口市で暮らす。06年から2、3カ月に1度、この庭の手入れに通っている。
 「じゃあ、ちょっとやろうか」
 河野が腰をあげると、藤永は庭の池のほとりに立つコブシの木に向かった。脚立にのぼり、小気味いいリズムで小枝を切り落とす。3時間ほどで落ち葉もきれいに片づけた。
 いまや、河野家専属の庭師だ。
 
 

 ●謝罪に訪れて決まった河野邸の庭の手入れ

 交流がはじまったのは、06年の6月27日。事件から12年にあたる日だった。
 その3カ月前に出所した藤永は、庭にとなりあう駐車場に立った。すでに脱会していたが、オウム真理教から改組した「アーレフ」の信者たちと一緒に訪れた。サリンがまかれた現場で手を合わせた。
 起訴された後、拘置所で死者7人、重軽症者600人の名前が並ぶ犠牲者名簿を弁護士から見せられた。新聞広告で知った、河野の手記『妻よ!』も取り寄せて読んだ。教団の身代わりに罪を着せられかけた苦しさや物言わぬ妻への献身ぶりに揺さぶられた。どうしても謝らなければ、と思ってきた。
 黙祷を終えると、藤永は元信者たちに誘われて隣の河野邸を訪れた。居間に通されたものの、正座したまま目を上げられない。でも、言わなければ。意を決して視線を上げた。
 「ここに来られる立場ではありません。でも、早く花束をもって訪れたいと思っていました」
 しぼりだすようにそう伝えた。
 河野から、なんで捕まったのか、とおだやかな声で聞かれた。
 「かばんの中に20センチほどの仏教用の法具があるのが見つかって、『凶器だ』といわれて銃刀法違反で」
 地下鉄サリン事件直後の95年4月、教団幹部の村井秀夫が刺殺された翌日、防弾チョッキを買いにでかけた東京で逮捕された。当時、当たり前のように行われていた別件逮捕だった。
 「あんたもツイてないね」
 河野の言葉で空気がほぐれた。
 藤永は問われるままに、服役中の様子についても話した。
 「いろんな作業をしたんですが、とくに植木の剪定は面白くて資格をとりました」
 出所後、自立して生活できるようにするための職業訓練のひとつだった。1年かけて、庭木を刈り込む技術を身につけたのだ。
 すると、同席していた保護司が口をはさんだ。
 「ならば、この庭の手入れをすればいいじゃないか」
 河野が同調する。あわてたのは藤永のほうだ。自分が引き受けていいのか。そんな資格があるのか。とっさに答えが見つからない。それでも細い声を返した。
 「本当に、やらせてもらってもいいんですか」
 河野はうなずくと、ひとつだけ言っておきたいことがある、とつけくわえた。
 「義務だと感じるようならやらないでください。自分でやりたいと思い、それを負担に感じないのならお願いします」
 妻の回復を願ってくれるのであれば、誰であれ拒む理由はない。しかも、藤永は刑期を終えた。法律では、それで罪の償いはすんだことになる。法がすべて正しいとは限らないが、法に照らして、それでよしとしなければ仕方がない。
 河野がそう考えるのは、みずから容疑者とされた経験があるからだ。無実にもかかわらず、証拠もないまま犯人扱いされた。疑わしきは罰せずという「推定無罪」の原則がたやすく破られ、社会の憎悪にもさらされた。だから、情緒に流されまいと強く意識している。
 それに、言葉に詰まりながらも言葉を継ぎ重ねようとする藤永の姿からは、伝わるものがあった。
 あるとき、帰省してきた子どもたちにこう紹介した。
 「オウム真理教の元信者で、サリンの噴霧車をつくって10年間刑務所にいた藤永君です」
 
 

 ●オウム恨んで生きることを選びたくない

 藤永はかつて、4回戦のプロボクサーだった。戦績3勝3敗。24歳で、おのれの拳に見切りをつけ、父親の土木業を手伝った。神秘体験が続き、オウム真理教の前身の「オウム神仙の会」に興味をもつようになる。
 ある日、海外渡航ビザを取得するために訪れた福岡・博多駅前で偶然、横断歩道を歩いてきた女性に目が留まった。出版物で顔を知っていたオウム信徒だった。
 27歳の88年に入信。瞑想などの修行を重ね、1カ月で「出家」した。「科学技術省」に所属していた94年、山梨県上九一色村(当時)の教団施設で、幹部の村井秀夫から指示を受けた。
 「トラックに幌をつけてください」
 藤永は溶接の技術をもっていた。なにか危ないものではないかという予感めいたものはあったが、拒むことはできない。サティアンと呼ばれた棟の中にこもり、1カ月かけて図面どおりに車両を改造した。
 それから数カ月後、教団内である噂が広まった。
 「松本で毒物がまかれて何人も死んだらしい」
 そう聞いて、ひっかかっていた記憶がよみがえった。改造した車の解体を命じられたとき、助手席のわきに松本の市街地図を見つけて不思議に思ったことがあったのだ。
 「事件を起こしたのは教団かもしれない……」
 はじめて怖くなった。
 疑うことのなかった幹部たちの言動に疑念を抱きはじめる。河野という人物が犯人だと耳にしたが、犯行にかかわったのは教団、そして自分なのかもしれない。でも、そう口にすることはできなかった。
 教団幹部から言われるまま、犯行計画も知らずに噴霧車をつくったことが「殺人幇助」などに問われ、実刑10年。ある意味では、藤永もまた「被害者」なのではないか。そう河野は考えている。
 --なぜ「敵」を受け入れるのか。メディアから聞かれるたび、河野はこう問い返す。
 「あなたたちのことだって受け入れてるじゃないですか」
 事件直後から犯人扱いされた。警察の捜査が正しいかどうかを検証するはずのメディアは、警察情報を垂れ流した。「冤罪」の片棒をかついだメディアこそ、警察以上に罪は重い。それでも、謝罪を受けて区切りをつけた後は取材を拒んでいない。元オウム信者の謝罪を受け入れるのとどこが違うのか。
 また、加害者の謝罪を拒めば、加害者を罪のなかに封じ込めることになる。それが心からのものであると思えれば、謝罪を受けるのは被害者にしかできないことともいえる。
 「なにより、恨みのなかを生きることを選びたくなかったんです。限られた人生の貴重な時間を、オウム真理教を恨むことに振り向けたくない。それよりは、妻を思い、妻のために時間を使いたかった」
 河野はそう振り返る。
 妻は事件以来、意識が戻らないままベッドの上ですごしてきた。体温は32度台。夏でも電気毛布がいる。大脳は厚さ2・7ミリ。まるで皮のようだ。小脳や脳幹も半分に縮んだ。「この脳でどうして生きていけるのか」。医師が驚くほどだった。
 この間、河野は講演で松本を離れるとき以外は毎日、妻の歯を磨き、髪を梳き、手足をもみほぐした。音楽を絶やさず、ずっと語りかけてきた。危篤になったのは2度や3度ではない。7年前には遺影も用意した。そのたびに河野は覚悟した。覚悟しながら、うろたえた。
 生きるのは、妻にとってはつらく苦しいことかもしれない。それでも一日でも長く生きてほしい。そう願いつづけてきた。
 病床の妻が還暦を迎えてまもない昨年6月、主治医から「余命3カ月」と告げられた。河野はカレンダーの、余命とされた9月17日に赤いマジックで印をつけた。そして、妻の最期が近づいていることをメディアを通じて公表した。
 「会いたいと思う人には会ってもらえるようにと思ったんです」
 8月に入り、河野を容疑者として取り調べた長野県警捜査一課の担当刑事が病床を訪れた。見舞うのは初めてだった。
 続いて、元オウム真理教幹部の上祐史浩(現「ひかりの輪」代表)も姿を見せた。初めて会ったのは長野県安曇野市。メディアを避けて知人宅で向き合った。
 「あなたは松本サリン事件では何もしてないのだから、私が謝られる理由はありません」
 すると、困ったような顔の上祐が、言葉を探した。
 「私は広報担当者として嘘を流し、捜査を混乱させました」
 これを河野は受け入れた。だから、妻の病室に通した。
 上祐が訪れた2日後。午前3時前、河野のもとに電話が入った。
 「奥さんの様子がおかしいので、来ていただいたほうがよいかと」
 病床に駆けつけると、2分後に妻は息を引き取った。
 「淋しいけど、悲しいわけではない。これで、私にとっての松本サリン事件は終わった」
 やれるだけのことをしてきたからこそ、そう言える。
 
 

 ●生きてくれてたから罪滅ぼしができた

 藤永はその朝、知人から送られてきた携帯メールで訃報を知った。ちょうど、約束していた「剪定の日」だった。こんなときに行っていいのか。いや、約束を破るほうが失礼じゃないか。新幹線のホームに急いだものの、乗るまで迷っていた。
 河野の家に着いても、玄関前で再び自問自答した。「3日間は家族だけですごしたい」という河野の言葉を思い出す。かけがえのない別れの時を汚すことになるのではないか。扉の前で5分ほど立ちすくんでいると、河野が戻ってきた。
 「さあ、上がって」
 居間には澄子の遺体が横たえられ、バッハの明るい旋律が流れていた。不思議なほどおだやかな空気のなか、親族たちが思い出を語り合っている。だれも事件に触れるわけではない。それでも、いやそれだからこそ、どんな表情をすればいいのかわからない。藤永だけが語るべき思い出をもたず、言葉を見つけられない。ただ隅のほうに座っていた。
 再訪したのは、4カ月近くたった昨年11月30日。あの日できなかった庭の手入れをするためだ。
 山口を出て、広島から深夜の高速バスなどを乗り継ぎ、松本まで最短でも約13時間。交通費は往復で2万円を超える。
 藤永は途中の東京で、小菅の東京拘置所に足を運んだ。収監された元オウム信者に菓子などを差し入れるためだ。大半が死刑判決を受け、もはや面会できない。
 松本の河野邸に着くと、家の主は留守だった。年に100回ほどある講演会のためにでかけていた。藤永は鍵をあけ、2階に向かう。不在でも自由に出入りするように言われていた。奥の部屋に澄子の遺骨が置いてある。花に囲まれ、遺影も飾られていた。
 「写真になってしまったんだ」
 それが正直な思いだった。
 最後に会ったのは7月末。病床で背中のマッサージをさせてもらった。この手で触れていいのか。迷いはあったが、河野にうながされるまま、肩甲骨のあたりをさすった。
 考えてみれば、澄子が生きてくれていたからこそ、謝ることができた。また、庭の手入れをすることで、わずかでも罪滅ぼしをさせてもらえた。藤永は澄子が好んだという白いユリの花束を供えると、写真の前で目を閉じた。
 「申し訳ありませんでした。どうか安らかに」
 それから庭に降り、ハサミを手にした。道具はすべて河野のものを借りている。
 初めて剪定に来たとき、まず切り落としたのはサリンによって枯れたままの枝だった。
 「枯れた枝が残っていると、過去を思い返してしまいそうだと思ったんです」
 といって、忘れようとしたのではない。忘れたいとは思わないし、忘れることなどできない。ただ、前に進んでいきたい、と。
 仕事を終え、夜はいつもと同じベッドに横になった。隣の部屋には澄子が眠っている。自分はこんなところにいていいのか。鈍感すぎるんじゃないか。北風がたてる音を聞きながら、なかなか寝つくことができなかった。
 
 

 ●気兼ねなく話せる仲 知人ではなく、友達に

 松本サリン事件の犠牲者は澄子をのぞいて7人。拘置所にいたときに手紙をしたためたが、遺族側の弁護士から「時期を見て渡す」と言われたままだ。いまになって遺族を訪ねる理由がみつからない。謝罪を受け入れてもらえないのでは、との思いもある。その分、この庭に救われているのかもしれない。
 時が流れるにつれ、自分のなかの記憶も薄れていくだろう。だから、これからも庭仕事を続けるつもりだ。それはかならずしも贖罪のためというだけではない。自分でも気づいていなかったが、じつは河野に会いたいからなのかもしれない。
 いま、植木職人ではなく、刑務所内でとった電気工事の資格を生かして働いている。社長は元オウム信者だと知ったうえで雇ってくれた。それでも、職場で過去について口にすることはめったにない。地元の仲間とも胸襟を開いて話せるわけではない。まして、迷惑をかけた両親とはあたりさわりない会話しかしない。
 それだけに、河野ほど気兼ねなく話ができる相手はいない。
 愛車だった緑のワーゲンを譲り受け、イワナやニジマス釣りに連れていってもらった。諏訪湖の花火も一緒に見た。河野の講演会で聴衆に紹介されたこともある。
 「落ち着くんですよね、こんなこと言うとおかしいかもしれないけど」
 河野にとってもまた、藤永は近く感じられる存在だ。忘れないことが死者を悼むことだとすれば、藤永は家族のように妻へ思いを向けてくれるひとりだ。
 2人のやりとりには笑いが絶えない。ときには、際どいブラックジョークもまじる。
 「今度また、釣りにいこうよ」
 河野の誘いに、藤永が口ごもる。
 「いいんですか。自分なんか、迷惑じゃないですか」
 「人殺したから?」
 河野は豪快な笑い声を上げると、真顔で続けた。
 「迷惑だなんて思ってる人と付き合ったりしないよ」
 藤永は困ったように、少しだけ口の端を緩めた。
 いったい、どういう間柄なのか。その問いかけに、藤永はしばらく黙り込んで答えを探した。
 「知人? 友達……、でいいんだと思います」
 横から河野がまぜっかえす。
 「俺が悪いことしてムショに入ったら、甘いもの差し入れに来てもらわないと」
 「はい、そうですね」
 藤永がこんどは小さく笑った。
 (敬称略)
 (本誌・諸永裕司)

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