佐藤 優 連載和田春樹先生について

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2007年3月11日 「フォーラム神保町」佐藤優×和田春樹セミナー

【佐藤優氏の冒頭発言】

 私は、ときどき「思考する世論」という言葉を使います。
 実はこれはパクリなんです。19世紀の帝政ロシア、1860年代の思想家でドミトリー・ピーサレフ(1840〜68)という人がいます。ピーサレフは「思考するプロレタリアート」という言い方をしたわけなんです。これから世の中を変えていくためにはプロレタリアートが主体になるのだけれども、それはちゃんとモノを考えるプロレタリアートなのだというわけです。
 私に「思考するプロレタリアート」という概念が非常に重要だと教えてくださったのが、当時同志社大学助教授だった渡辺雅司先生(元東京外国語大学教授)です。
インテリ(インテリゲンチヤ)のあり方とはどういうものか。これについてはロシア思想から非常にたくさんのことを学んだと思います。
 ニコライ・ベルジャーエフは「インテリとは、知識の量とは関係がない。ちょうどロシア正教会の修道院の中の異端派みたいなものから出てきているのだ。これがロシア的なインテリなのだ。むしろ一つの理念に取りつかれて動く人だ」という言い方をするのですが、日本のロシア専門家の間ではこの話が一人歩きしすぎていると思います。忘れていけないことは、ロシアのインテリはベースとして、非常にしっかりとした知識をもっているのです。
 私は1960年生まれですので、いわゆるポストモダン世代に属します。日本におけるポストモダンは、浅田彰さんが『構造と力』(勁草書房、1983年刊)を出したときに始まったと思います。私が大学院の一回生でした。『構造と力』が世に出たことで「浅田革命」と呼んでもいい現象が生まれました。私は、1985年4月に外務省に入省し、翌年の夏、外国へ行ってしまった。日本に戻ってくるのは、1995年3月です。従ってポストモダンの嵐とバブルの嵐を知らなかったわけですね。そして日本に帰ってきたときに、日本の思想状況は驚くべきものに私には見えたわけです。これほどマスメディアの世界と知的なアカデミズムの世界が乖離している国というのは、世界でも珍しいのです。私が日本を出たとき、1986年の時点で乖離はそれほどありませんでした。ところが今や恐るべき乖離が起きているんですね。
 私はポストモダンに対して極めて批判的です。というのは、周辺から物事を見るというのはけっこう、ラカンでもけっこうフーコーでもけっこう、デリダでもけっこう。おもしろい知的な物語を出して脱構築していくのはけっこう。
 ただし重要な真実を忘れてはいけない。人間は物語を作る動物だということです。知識人の大きな仕事というのは物語を作っていく。大きな物語を作っていくことなのですね。ところがそこの責任を知識人が放棄してしまって、日本の知識人たちは自らの小さな物語のところでエンジョイしてる。
 昨日(2007年3月10日)私はある学会でインテリジェンスの話をしてくれと言われて行ってきたのですが、それは非常に優秀で真面目な学者たちですよ。しかしあとから大学院生や助手たちがすり寄ってくると吐き気がするのです。新聞紙の上にクソがついたものを乾燥させて落として、そのあとの染みがどういう形かというような議論をしている。その類の議論ですので、インテリジェンスの実務をやっていた私からすると関係のない話なのです。ところがアカデミズムの中ではそこがマーケットになっている。そういうようなところを見るにつけ、このポストモダンの後遺症からどうやって脱け出していくかということがとても重要だと思っています。
 私の出した『獄中記』(岩波書店、2005年[単行本]、2009年[岩波現代文庫])という本を、柄谷行人さんが書評してくださいました。柄谷さんというのは辛口の書評をするのです。私の本については、そう辛口の書評ではなく、大きな問題提起をその書評の中で柄谷さんはしていると思います。要するに、「佐藤の知性がおもしろいのは、それが外交的、行動的だからである。しかし外交的、行動的な知性というものは通常は知的ではない。知的であるものというのは、普通は行動性や実効性をもたない。この間の架け橋を彼はどう見つけていくのだろう」という、私への大きな問題提起なのです。
 私は、ある意味では柄谷行人さんの争奪戦を行なっているわけなのです。こっち側にいるのは私一人。大きな物語の世界に柄谷行人をもっていきたいと思っている。向こう側にいるのはポストモダンの旗手や、私から見ると縮小再生産された学校秀才左翼といった連中だと思います。向こうから見ると、私は非常にマッチョな感じに見えると思うんですね。暴力的に見えると思います。それはそれでおおいにけっこうだと思います。
 そういった意識を踏まえながら、マスメディアと知的な世界をつなぐという形であれば、誰の話を聞いたらいいのかというところで、一も二もなく浮かんできたのが和田春樹先生なのです。和田春樹先生は東京大学の文学部を卒業されたあと、大学院に行かず助手になられ大学の先生になったという、これは東大の歴史でもそんなに数はいない秀才中の秀才です。しかも語学は英語、ロシア語、ドイツ語はもとより朝鮮語も完璧に理解します。
 しかも東京大学の社会科学研究所に長くおられ、アカデミズムでも講座派、労農派双方の伝統を踏まえた上で、なおかつ和田先生の中にあるのは竹内好先生の伝統を引くところのアジア主義の流れもある。しかも和田先生自身は日本共産党の硬直したマルクス主義とは常に距離を置いていました。ところが全共闘の連中からは「お前はエスタブリッシュされた大学教授のくせに何を言うか」と詰られました。他方、民青の学生が行儀が悪いので注意したらぶん殴られ、怪我をした。そういったときにも、和田先生は、飄々とする中で「こういうような交通形態、表現形態もあるのかな」と受け止めることが平気でできる。そういう人です。
 和田先生は常に熱い問題を拾う癖があります。ゴルバチョフが登場してきて北方領土が動きそうになった。そのときに、日本外務省の北方領土交渉の弱点を衝いてきた。日本政府が主張しているクリル諸島の中に国後島や択捉島が入っていないなどという議論は、実証史学の立場からすれば恥ずかしくて口に出せないような稚拙な水準なのですよ。冷戦下の中で日本政府がでっち上げた議論なんです。ところがそういうことを言うと右バネ(右翼)がはねるから怖い。誰も日本外務省の立論の問題点を指摘しなかったときに、きちんと北方領土問題について和田先生は学者としての良心に基づいて考え、発言した。
 それから、特に1855年の日露通好条約のオランダ語の原文にまで当たり、当時の日本語訳とオランダ語原本の間に大変な乖離があって、事実上の誤訳になっているということなんかも指摘しながら、日本外務省を徹底的に叩きのめしたわけなんですね。
 最近は学者の立場と政治的実践の立場をよく区別しないで、50:50論や三島返還論を
言っている学者がいて、ある程度の批判が出てきたところ「私は当面沈黙する」ということを毎日新聞に書いた。実名をあげましょう。北海道大学スラブ研究センターの岩下明裕教授です。私は人を名指しで批判することはめったにないのですが、「週刊金曜日」(2007年3月9日号)でかなり手厳しく批判しました。ただし、礼儀正しく批判したつもりです。
 理論と実践の間のどこに線を引くかというのは、知識人にとってすごく重要なのです。政治的提言をした以上は、学問研究とは違うわけですから責任が伴うわけです。
 和田先生に関しては常にその責任を負っていくという姿勢なんです。和田先生の言説を私たちは勉強しまして、本当に北方領土を動かそうとしたときに和田先生に見せて恥ずかしくないようなものを作らなければならないということで取り組んでいました。これは恐らく和田先生のお話の中でもあると思いますが、『日本とロシア ——真の相互理解のために』という、日本政府の立場でできるギリギリのところでロシアとの対話の論理を作るロシア語の宣伝パンフレットを作ったのです。これは外務省で特命を帯びて、私が原案を作りました。当時の外務省幹部が、「ほかのヤツにはできないから、佐藤優にやらせろ」ということで、分析部局にいたにもかかわらず、私が作ったのです。ただしその日本語訳は未だにありません。そのパンフレットを作るところで、日露関係の大きな転換が行なわれました。
 その後、和田先生は二島+α論、あるいは二島返還論という立場だと思っていたのですが、お話を進めるうちに四島が日本人としての強い意見なのだから、四島返還という形で議論を組み立てるのは日本の立場として当然なんだというお言葉もいただき、日露の戦略的提携で、冷戦の論理を超えるところで和田先生との話を進める中で、私たちは北方領土の議論を進めていきました。外務省の東郷和彦さんや丹波實さんもみんな和田ファンだったわけです。
 それからもう一つ、アジア女性基金についてです。我々日本の外交官にとっても決して胸を張れるようでない事を過去に日本人が引き起こした。それを隠蔽するのではなく、素直に認めることから、日本のポジションは強化されると私は思っていたわけなんです。「慰安婦」の問題に関しては、私は「従軍慰安婦」という定義には問題があると思う。
 ただし、日本軍に付属して「慰安婦」がいたことは、まぎれもない事実です。私は母が
沖縄の出身で、沖縄戦に軍属として参加しています。ですから、沖縄の「慰安所」の話を聞いているわけなんですよ。「長崎ピー」や「朝鮮ピー」と呼ばれた「慰安所」があって、母親は軍属だったので「そこで何をするのか」と訊いたら、軍属だった母の姉から「そんなことに関心をもつんじゃない」と言われていた。「慰安婦」がいなかったなどというのはとんでもない話なわけなんですね。
それから、「慰安婦」の問題ということならば、これは封印されていますが南洋諸島の琉球「慰安婦」の問題もあるわけです。例えば映画の中で非常におもしろく出ているのは、左派市民派の方は見ないと思いますが、東映が作った「大日本帝国」という映画があります。丹波哲郎が東條英機の役をやり、三浦友和は将校の役でサイパンに行くんです。そこの現地で付き合っている女性を佳那晃子が演じているのですが、その彼女の役柄は明らかに琉球「慰安婦」ですよ。そのあたりの歴史の断面というのは、右側の映画の中でも残っているわけです。
 この「慰安婦」の問題についても、アジア女性基金というユニークな形が取られました。国家補償とは形が違うのだけれども責任を取っていく。そのことを和田先生が提唱してやられた。これはむしろ右からの攻撃よりも、かつて和田先生と同じ陣営にいた左からの攻撃のほうが厳しかったと思うのです。「和田は政府の側に歩み寄っていくのか。権力に取り込まれているのか」といった中で、知識人としての立場をきちんと保持しながら現実に影響を与えていく。この姿勢を示している学者として、私は和田先生を誰よりも尊敬しています。
しかも和田先生ほどの力があるのならば、ロシア関係の学会のドンになることはできるわけです。東京大学の社会科学研究所を定年退職されたあとにどこかの私立大学に収まって人事の手配師のようなことをやれば、日本のロシア学界など簡単に席巻してしまうことができる。しかしそういうことは一切せずに、今、ロシアがもっているコミンテルン文書をちゃんと集めてきて編纂をしなければいけないということで、ロシア人もきちんとやっていないからということで、ロシア語で本を出しています。
 モスクワでロシア語の資料集の編纂をしているのです。和田先生がロシアで出した本は、非常に高く評価されています。
 1993年の9月初めに、当時エリツィン政権の側近だったブルブリス元国務長官(戦略センター所長)を日本に連れてきてときのことです。当時、我々日本外務省と和田先生の関係は良くなかったんですよ。しかしブルブリスが「和田先生とだけはどうしても話がしたい」と言う。「日本政府の立場もあるので公に会わせられないということだったら、電話だけでもつないでほしい」ということで、電話をおつなぎしたことがあります。
 あのときは国立ロシア人文大学の学長になったアファナシエフさんから、ブルブリスは和田先生のことを聞いたのです。アファナシエフさんは、著名な改革派系インテリで、ロシア国立人文大学の前身であるロシア国立文献大学の学長として、サハロフ博士と連携してソ連体制の変革を進めた人です。このアファナシエフさんが和田先生のことを非常に高く評価していて、「和田と語らずして日本を語ることなかれ」と言ったと私はブルブリスさんから聞いています。
 前置きが長くなってしまいましたが、今日は和田先生にお願いしまして「メディアと知識人」というテーマで、抽象的な議論ではなく、先生がリスクを冒して取り組んでいただいている北方領土問題、「慰安婦」問題に踏み込んだ話をしていただきながら、みんなで勉強していきたいと思います。
(編集者注)次回からは和田春樹先生の講演内容を連載します。佐藤優さんには「資本論講座」などを連載していただく予定になっています。