戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて最終回 新しい日本のアイデンティティ

▼バックナンバー 一覧 2010 年 7 月 13 日 東郷 和彦

「戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて」という標題の下でこの連載を書き始めてから、ちょうど一年がたった。
 そろそろ、今回の連載を終わりにしたいと思う。
 「戦後日本は、何を失ったのか」―――
 私は、この問いに対する答えを、これまで私が過ごしてきた人生の時間と重ね合わせながら、考えてきた。
 私たちは、大きな問いから小さな問いに至るまで、いろいろな問いに囲まれている。それに対して、正面から答えたり、斜めから答えたり、ほんのわずか関心を持って考えてからすぐ忘れたり、あるいはまったく無視したりして、私たちは生きている。しかし、その問いに正面から向き合おうとするとき、私は、何らかの形で自分の人生、自分の生き方と重ね合わせて考えなければ、本物ではないような気がする。
 もちろん、人間というのは、実に複雑な存在で、誠実に対処したつもりでも、到底一つの切り口では計り知れない幾多の側面を持っている。けれども、その時々の時間を過ごしていく中で、真剣に考え、口に出して言うことはなくとも、なんらかの思いを心の中にもって生きてきた、そういう時間は、誰にも必ずあるものだと思う。
 私は、1945年1月10日に生まれた。いわば、戦後の日本と一緒に生きてきた。「戦後日本が失ったもの」というテーマで、なにがしかのことを述べたいと思った時、私は、自分自身の内部を流れていた時間をもう一回見なおしながら、この原稿を書こうと考えた。そうすることによって、自分が経験してきた、「戦後」という時代の映像について、なにがしかのことを述べることができたらと考えた。
 そうすると自分には、はっきりした筋が見えてくるような気がするのである。自分にとっての最初の原風景は、戦争によってすべてを失った焼け野原の上に赫々と輝いていた夕焼けである。それは、どこまでも続く廃墟でありながら、すべてをこれから再建するための希望の風景でもあった。そこから私が見てきた、様々な、映像が続く。
 オランダの堤防と並木道、クッカム・ディーンに沿ったテムズ河の流れ、パリの屋根の上を流れる秋の雲、白亜の壁が山並みに溶け込んだブータンの桃源郷、長谷寺の境内から眺めた遠くの山波にかかる霧、そういういくつかの原風景のあとに、いま自分が目にするものが浮かんでくる。
 そこに、ゴン太と散歩する時に、上をむいて歩く勇気をなくしてしまう電信柱の姿が浮かんでくる。戦後日本は、開発と経済発展のためにひたすら走り続け、多くの成果をあげた。しかし、その過程で、敗戦と廃墟によって再興できたかもしれない日本の原風景を失った。神々の世から日本が受けついできた類まれなる日本の自然と調和し、2000年にわたって祖先がつくり、幕末の開国期に世界中の人々を驚嘆させた桃源郷であった伝統を受け継いだ、そういう景観と文明の多くを、戦後の日本は失った。日本全国を跋扈する電信柱は、失った風景に取って代わった、戦後日本の象徴のように、私には見える。
 しかしながら、肝心なことは、日本は眼に見える風景の多くを失ったが、実は、私たちが失った一番大事なものは、眼に見えない私たちの心であったのではないかということである。戦後の日本の経済発展と民主主義の中で、個人の権利と生活の便益を上回る大切なもの、公の心とも言うべきものを、私たちは失ってきた。
 失ったものを回復して、新しい日本のアイデンテティを形成するには、日本人としての公の心を再興し、それを世界中の誰もが見える風景の中で、証明すする、―――そういう国家ビジョンを造り、実行する他ないのではないか。

 新しい日本の国家ビジョン、それを「新しい日本化」と呼んでみよう。私は、時代の流れは、今まさに、「新しい日本化」を要請していると思う。日本は今、歴史の三回目の大きなうねりの中の、重要な転換点にあると思う。
 日本歴史の第一のうねりは、太古から江戸時代までであり、それは、中華の世界から日本独自の文明世界創出へのうねりであった。日本列島に大和民族が定住し始めてから、日本の文明は、中華の秩序の中から勃興していった。縄文から弥生時代をへて、大和に形成された中央権力は、大陸から、漢字、儒教、仏教をうけいれ、七世紀には天皇を戴く律令国家に発展し、そこから、奈良・平安の時代を謳歌した。四百年にわたる貴族支配と国風文化の発展の中から武士階級が生まれ、鎌倉・室町・戦国をへて、武家という戦闘集団による二百六十年の徳川太平の世がおとずれたのである。
 江戸時代こそは、世界史における稀有の到達点だったと思う。最も激しい武装集団がつくりあげた最も平和的な社会は、江戸末期に至り、国学と歌舞伎と蘭学の混在する絢爛たる文化として熟した。この時期日本を訪れる外国からの旅人が、いかに日本の独特の豊かさと美しさを賛嘆してやまなかったかは、読む人の胸をうつものがある。
 第二のうねりは、明治維新以降の「西欧化」から日本精神を軸とする東亜のリーダーへのうねりであった。その動きは、江戸の崩壊期、西欧列強によるアジア侵略の中で始まった。阿片戦争を契機とする列強の中国侵略を知った幕府と雄藩は、尊皇攘夷の御旗の下で国論を統一しつつ、大政奉還による明治維新を断行、そこから一転、文明開化と脱亜入欧に舵をきりかえた。「西欧化」政策の下で富国強兵をめざして国民一丸となってあい努めた日本は、日清・日露の戦いに未曾有の勝利をおさめ、東亜の一等国として、西欧文明社会の列に加わり、日露戦争のあと太平洋進出の波音高かったアメリカとワシントン体制の下でまずは協調を試みた。
 しかし、千九百二十九年の世界恐慌を契機として、日本は、東アジアに「自給自足圏」をつくり、日本精神を軸とする東亜のリーダーたらんとする方向に大きく舵をきった。満州国の建設、シナ事変、大東亜共栄圏の提唱へと連なり、千九百四十一年、西欧帝国主義の雄たる米英に対し開戦。熾烈な戦いを三年半繰り広げた結果、完膚無き敗戦を喫し、結果において、明治以降積み上げてきた国富の殆どを失った。
 第三のうねりは、戦後、「アメリカ化」として始まった。敗戦によって、日本民族は、深い心の痛手をうけた。魂の空白の中で、「なぜかくも徹底的に負けたのか」という深刻な問を抱いた日本は、敗戦に至らしめた軍国・全体主義への反省にたち、丸山眞男の「無責任の連鎖」の論理は、多くの知識人の心をとらえた。多数の国民が、反戦平和を新しい日本のアイデンテティとして受け入れた。そういう過程の中で、米国占領政策の柱として打ち出された、民主主義・平和・天皇制容認・経済再建の四本柱はそれなりに受け入れられた。
 他方、アメリカ自身、アジアにおける冷戦の深化にともない、日本を当初の平和国家から米国とともに戦う同盟の要諦と位置づけるようになった。だが、日本政府は、吉田ドクトリンの下に、経済再建最優先、最小限の自衛力、対米同盟政策を追求。爾来冷戦終了までの四十年間、自民党五十五年体制の下で、日本は、この「富国平和」「経済大国」政策を追求した。反戦平和の視点からの対米批判は野党と反体制知識人に強かったが、「アメリカ化」の流れは、経済社会文化生活を含む時代の流れとなった。
 かくて、今からちょうど二十年前の一九八九年、奇しくも、冷戦が終了し、昭和が平成に変わった時、日本は、西側陣営の中で経済的に最も成功した国となり、アメリカ社会は、経済ライバルとしての日本を、第一の脅威国とすら認識し始めたのである。
 しかしながら、ここから、日本の模索が始まった。なにか、歯車がかみ合わなくなったのである。バブルの崩壊によってもたらされた「失われた十年」は、小泉政権による不良債権の処理によりひとまず終止符をうったが、小泉改革は格差社会を生んだ。大蔵省の過剰接待に始まり最近では「消えた年金」問題に象徴される官僚統治への不信は続き、一年毎の政権交替に象徴される政治指導力への懐疑が提起された。ハイテク・バブルも金融バブルも、長続きをする国家の目標に到らなかった。若者、特に、男子に元気がなくなったと言われて久しいが、女性の社会的地位は依然として低い。
 小泉・ブッシュ関係に基づき信頼を強化した日米関係を背景に、保守政権永年の課題だった憲法改正が動き出すかと思ったが、安倍政権が一年で終わったことにより、この動きはとまった。底打ちした小泉時代を経た後の日中関係は、その後小康状態を回復したが、北朝鮮との関係は、完全な手詰まり状況となった。クール日本、ソフト・パワーは新しい日本外交の力となるかのように言われたが、中国・韓国は、歴史問題を解決しない日本に文化外交の資格は無いと言い、東アジアの政治地図の中で「日本が見えない」という声は強かった。
 平成の二十年、日本は、国の進むべき方向性についての感覚を失い、二十一世紀の「国家ビジョン」が描けなくなった。歯車がかみ合わなくなった大きな原因は、そこにあると思う。日本文明はこれまで、外から新しいものを入れては、独特の日本をつくってきた。中華文明の導入から江戸へ。文明開化・西欧化から日本精神に立つ東亜のリーダーへ。半世紀の「アメリカ化」がゆきづまった後には、新しい「日本化」が待っているにちがいない。

 さて、その「新しい日本化」を具体的にどうやって進めるか。「新しい日本化」によって再興し、発展させねばならないのは、日本の風景である。
 日本の風景は、古来から受け継いできた自然とそこで育まれてきた伝統である。自然と伝統の中にこそ、いかにグローバリゼーションが進行しようとも、日本にしかないほんものの価値がある。そういう風景を再興しながら、どうやって新しい日本を発展させるか。
 戦後日本の発展のエネルギーが、いかにして収入を豊かにして生活を向上させるかにあったことを考えるなら、まずは、風景の再興には、そのための「経済学」が必要となろう。新しい国家ビジョンは、それを実現することが、少なくとも経済的に見合ったものになる必要があるということである。
 日本の自然環境を回復し育成していくためには、農林漁業の再興と発展が必須ということになる。
 私の子供時代、社会科の授業で日本の人口の産業別分布について学んだ。日本経済が発展するとともに、日本の人口分布は、一次産業から二次産業(製造業)へ、更に二次産業から三次産業(サービス産業)へと移っていく。農林漁業の衰退は、日本の発展と同義であるかのような雰囲気があった。誠に申し訳ないイメージだったと思う。このような固定観念は、一刻も早く、改めねばならないと思う。
 アメリカの農業は、その広大な国土をもって農産物の大輸出国として機能している。ヨーロッパを旅すれば、農業、牧畜、森林が、いかに国の文化と生活に融合しているか、旅人の心を捉えて放さないものがある。他方、開発途上国は、一次産業を国の発展の原動力としてきた。その中で、米作を核として農業を守ろうとしてきた日本の政策は、国際的理解を得られずに苦しんできた。日本は、「食料安全保障」「多層的必要性」などのコンセプトを打ち出して、農業を守ろうとしてきた。しかし、成功していない。なんとしても、国際ルールと共存する農業政策を見出さねばならない。
 森林もまた、日本の山河を形作る根幹である。産業林として広く植林されてきた一律な杉林の行きすぎは、止めねばならない。日本古来の自然林を復活・保護し、人間の生活に親しむものに変えていこうという、貴重な市民運動が、始まっている。
 長年の漁業国日本が、資源保護を考えながら、世界の漁業をリードする立場にいることも、言うまでもない。
 なによりも、一次産業が日本にとってかけがえのない産業であり、わたし達の生活の中で、自然との接触がかけがえのない価値を持っているという、国民的な自覚こそが、必要なのだと思う。
 しかしながら、日本全体の風景を再興しようとするなら、農林漁業だけでは、不十分であることは、言うまでもない。地方においても大都市においても、再興されるべきは、自然を含む風景全体である。そのためには、地方と大都市を含めて、考えねばならない。そういう風景を成り立たせる、経済学が不可欠なのである。
 伝統を生かしながら造られるべき風景がどういうものか、民主党政権の成立と共に「脱コンクリート」という方向性がでた。二〇世紀の建築がコンクリートの建築であり、二一世紀の建築が地元に根ざす自然素材を使った建築であることを、隈研吾氏は喝破された。「新しい日本化」のために、コンクリートを越えていくことが適切な方向考えることは、すでに第六章でのべた。このことは、新しい技術の下で、コンクリートの新たな有用性を否定するものではまったくないが、しかし、少なくとも、これまでコンクリート化のために割り当てられた公共事業を本質的に見直すことを意味する。そうであるならば、それを代替する経済活動が生れない限り、地方の活性化はありえない。なんとしてでも、地方の生活を、全体として創造しなければならない。
 その一つの鍵が、物産と観光である。物産と観光が成功する鉄則は、その地方独自の輝きを持つということである。今後の地方が、観光において、物産において、産業において、グローバリゼーションの中で、本当に勝ち残るためには、世界中どこにもない、そこにしかないものを創造するほかに道はないと思う。
観光は、歴史に根ざし、自然と調和し、その地方にしかない景観を形成できるか否かに、すべてがかかっている。十月二日、民主党政権成立ときびすを接して発出された広島地裁の鞆の浦景観保護判決は、画期的な内容を持つものでることも、すでに述べた。万葉のころからその美しさを知られ、いまや世界に知られる鞆の浦に、便益のための高速道路を乗り入れることは、鞆の浦が今後よってたつ観光としての価値を壊滅させることになる。
 同時に、観光の真髄は、世界遺産に名を連ねるような額縁の中の風景に依存することではない。それぞれの地方の独自色を生かした街並みと空間の中で、そこに実際に住む人たちがどのくらい生き生きとした生活を営んでいるか、それが、本当に心をうつ、観光をつくりあげる。
 ともすれば、戦後の日本人の観念のなかには「観光とは、神社仏閣など自分の生活といは異次元なものにふれるか、高級ホテルで特別に羽根をのばすこと」という観念がしみこんでいる。決定的に間違っていると思う。
 観光のグローバル・スタンダードがあるとすれば、それは、その国、その地方、その村にしかない自然と伝統を最新の技術とセンスをいかしながらつくりあげている生活の質にふれることである。そこで始めて、人は、そういう所でゆっくりと時間を過ごしてみたいと思うのである。村が、街が、県が、全体として、そういう独自の輝きをつくりだせるか、それがこれからの観光の成功を分ける帰趨になると思う。
 こういう地方独自の発展を、本当に可能にするのは、地方分権と地方自治であろう。同時にそれは、各地方が、他にない独自の歴史と風景を発掘し、創造するという大きな責任を担うことになる。
 グローバリゼーションを突破する個性をもつためには、ともすれば、東京を見てきた地方の視点を転換し、世界のトップを地方自身で見ることを不可避とする。隣接地域を見て大勢の赴くところに従い特定の利権を肯定するだけの地方自治しか行えないならば、そういう地方は、今までよりも更に激しく衰退する。
 「中央から地方へ」は、自民・民主がともに提起した時代の趨勢である。鳩山政権時代は、「地方主権」とまで言い切った。しかしながら、「主権」を付与された地方にそれだけの責任をとる覚悟と力があるのか。覚悟と力のないところに主権が降りてきた場合、成功はおぼつかない。更に、国として、のびる地方と衰退する地方の格差を放置してよいのか。地方格差の拡大に対して、国は何をすべきか。まだその役割は、はっきりと見えていない。これからの、ビジョンが求められると思う。
 当然のことながら、日本の風景の回復は、地方だけではなく、大都市においても進められなければならない。そこで考えられるべきは、住環境の抜本的な改善である。この点については、第四章に、石原慎太郎東京都知事にお送りした書簡を引用して、私の意見を書いた。
 詳しくはくりかえさないが、人間の生活をなりたたせる基本要因である「衣食住」のなかで、戦後六十五年の経済振興を経て、日本は、衣食の面では見事な成功を収めたが、住、それも広い意味での住空間の文明的な水準の形成において、絶望的なほどに失敗してきた。
 都市における公共事業として、例えば、電線を埋設し、その跡に木を植えることがある。これには、相応の経済効果が生み出される。都市の風景の中から、感性を侵食する電線が消え、代わりにエコロジーに配慮した緑の木々が立ち、それが、年々成長しているのを目の当たりにしたとき、東京を含む大都市は、また、そこに世界の人々にとって新たなる魅力をもって登場することになる。
 農林漁業を大切にし、自然と伝統の融合を基礎とする独自の風景を大切にする地方がうまれ、都市を含む日本の住空間が抜本的に改善され、そういう日本になったとして、それのみで、日本の未来の国家ビジョンとして十分であろうか。まったく十分ではない。
 日本に本当に活力を与え、日本経済のパイを大きくする牽引力を与えるものとして、科学技術の力がある。
 科学技術の力は、物づくりから製産業発展に至るこれまでの日本人の活動の原点にあったし、また、自然と伝統を風景の中に再興することを真に可能にするのもまた、技術力の発展だと思う。
 二〇〇九年暮れ、民主党の人気を高めた事業仕分けの第一段で、科学技術の将来を担うコンピューター関連予算の見直しが提言されたことに対し、「科学技術の発展は国の将来を担う」として、学会・経済界・マスコミから見直し反対の大合唱が起きたことも、国家ビジョンに対する国民のコンセンサスの現れではないだろうか。
 科学技術の開発と活用は、都市と地方とを問わず、あらゆる産業の中に、あらゆる研究機関の中に、そしてあらゆる教育機関の中に最重要の課題として浮かび上がってきていると思う。
 平成の日本は、アニメ・コスプレ・すしという「クール・ジャパン」で、世界の注目を集めてきた。今こそ、このセンスを、箱物とPCではない、私たちが住む日本の風土自体に生かし、新しい日本をつくりたい。そのためには、自然と伝統との調和と共に、新しい技術の活用が不可欠なのである。

 しかしながら、こういう経済学に裏打ちされた風景の回復の議論は、結局のところ、それを支える人の心の問題に帰着する。
 今から六十四年前、日本は、国土を焦土と化し、三百万の国民を失った。だが、思えば、それは、再生への可能性を秘めた出発点であった。焦土と化した都市は、そこから新しい都市を再構築する無限の可能性を秘めた空間だった。京都を始めとする、古来から日本が受けついできた都市の景観の多くは、まだ、ほとんど残ったままだった。山紫水明を謳われた、日本の山河は、ほとんど手付かずの形で残っていた。
 千九百四十五年八月、遅きに失したとはいえ、一刻も早く戦争をやめ、敗戦の屈辱を乗り越えても、わが国の山河と国民を残すなら、いずれ日本はまた偉大な国になると信じて戦った人たちがいた。長い戦いの歴史の中で散った、三百万の英霊は、自分たちの死が、祖国の山河に抱かれた国民の繁栄への礎になると信じていたに、違いない。
 しかしながら、敗戦のショックがあまりにも大きく、敗戦の荒廃はあまりにもすさまじかった。「経済再建」という錦の御旗をかかげて、戦後の日本は、占領から経済成長へ、そして六〇年代の奇跡の高度成長へと走っていった。七〇年代から、日本列島改造論が始まった。国中を産業基地としてコンクリートの道路と箱物で連結していくことが、国家発展の善であり、山間の農地の奥深くに造られる巨大なダムが文明の象徴であり、埋め立てによって自然の宝庫である潟を工業用地に変えていくことが、公共事業の目標と経済成長の手段になった。開発と生活の便益の向上と信じて、農家の働き手は建設労働者に変じ、日本の都市から、歴史の中で形成されてきた文化が、音を立てて破壊されていった。
 そうやって、ひたすら走り続けているうちに、私たちは、自分たちが歴史の流れの中でどこに位置し、何を過去からうけつぎ、何を未来に伝えたらよいかについての方向感覚を失い始めたのではないか。太平洋と日本海の生活水準を均一にしようという、初期の列島改造論には歴史的な意義があったのだと思う。しかし、どこかで私たちは、立ち止まらねばならなかった。
 敗戦からの回復の過程で、否、平成の時代になってからでも、いささかの気持ちの余裕と都市計画と建物の外観の調和を一緒に考える「公の心」があれば、日本の都市の風景は今、パリ、ロンドンにも比肩する文化の枠に発展しえていたにちがいない。
 私たちは、走り続ける中で、結局のところ、個人の利益という枠の中に、すべての価値とエネルギーを注ぎ込むことをもってよしとする、戦後独特の価値観に浸ってしまった。個人もしくはその延長としての家族を超えた、自分たちの住む共同体、地域社会、更には国家を良くするために、わずかなりとも個人の欲望を我慢することによって、いかほどに、私たちが失っているものをとりもどせるか、そのずしりと重い、感覚を喪失してしまった。
 私たちは、今こそ、日本の中に内在している、ずしりと重い、その共同体と言う感覚をとりもどさねばならないと思う。太古からうけついだ日本の自然と歴史的な風景の中にこそ、その共同体としての価値がある。今こそ私たちは、日本の欠落に正面から向き合い、失った共同体としての心をとりもどさなければならない。それが、六十四年の私の人生の軌跡から感じ取ったことである。

 人の心をとりもどすにはどうしたらよいか。
 これまでの連載の中で、ナショナリズム、皇室の安泰、労働と実存、教育、グローバリゼーションの五つの問題について述べてきたので、ここでは繰り返さない。
 しかし、そこで一番述べたかったことは、戦後日本は実に多くの世界に誇る成果をあげてきた。けれど、すべての面で成功して今日に至ったわけではなかった。戦後日本が失ったもの、それは、私たちの眼前にくりひろげられる風景の荒廃と要約してもよいように思えるが、実は目に見える風景の荒廃は、目に見えない私たち一人一人の心に起因するのではないかということである。
 その心の荒廃をとりもどす方向性を一言で述べるなら、私は、「新しい公(おおやけ)」と言ってよいように思える。鳩山政権が最後にとりまとめた「新しい公共」について第九章で簡単に触れたが、私が考える「新しい公」とは、もう少し歴史と実存に根ざした幅の広いものであるような気がする。
 言うまでも無いが、これらの問題は、外交を仕事としてきた私にとっては、いわば、専門外のことである。更に、勉強を深めていきたいと思うのである。
 ただ、最後に一点補足しておきたいことがある。
 今、「日本は内向きになっている」という、強い国際的な失望と批判がある。私が本書で述べてきた、日本の風景の喪失とその背後にある日本人の心の問題もまた、見方によっては、まさに「内向き」な問題である。なぜ、外交を本業としてきた私のような立場の人間まで、世界の問題を語り、世界の中での日本の立ち位置についてもっと語らないのか、これこそ、まさに内向きの典型例ではないかという質問を受けたこともある。
 しかし、私は、私自身が、また日本が、いたずらに内向きになっているとは決して思わない。
 外務省時代も、退官した後も、日本外交とその課題について話をしていると、常に突き当たる問題があった。それは、結局「日本外交は何をしたいのだ」という問題である。
 対米関係、対中国関係、対ロシア関係、安全保障と防衛、国際貢献などについて、最近の外交政策を説明する。けれど、話がつっこんだものになってくると、必ず答えを迫られる問題がある。それは、「なぜそういう政策をとろうとするのか」という問題であり、その根底に、日本はどういう國になろうとしているかという問題に突き当たるのである。
 そうすると、どうしても、平成の20年、日本が方向性を喪失し、明確な国家ビジョンの形成に失敗してきたという問題に逢着せざるをえない。
 結局私は、この問題は一日本人として、一日本市民として、自分自身がどういう日本を求めているかについて、はっきりしたビジョンを持つ努力をしなければいけないと思うようになった。
 そして、そういうビジョンが、日本の国でどの程度分かち合われ将来性を持っているかをきちんと説明しながら、日本という国の方向性を語ることが必要だと思うようになった。
 「内向き」と言われようが、なんと言われようが、日本は私たちの国である。その国を将来どうするかという、しっかりしたビジョンを持たずに、私たちは二本足でしっかり立つことはできない。自分の国にしっかりと立てない人がどうして国際的リーダーシップをとることができるのか。
 根を持たない国がいかにして他国をリードできるのか。
 守るべき価値がはっきりすれば、それに見合った防衛力は整備されることになる。国のビジョンがはっきりすれば、感情的なナショナリズムに流されない外交関係を、中国ともアメリカとも展開していくことができる。国の理想がはっきりすれば、その理想を担保する国際交流と国際貢献の内容が決まってくる。
 今日本は、徹底的に内向きのビジョンについて議論し、そこを基礎にして世界に雄飛する構想を産み出す歴史的な時期にいるのだと思う。
 二〇一〇年五月二十九日と三十日、「上海フォーラム」という国際会議に出席した。議論の中心は中国を中心とする経済社会の発展問題であるが、七つのサブグループのうちの一つが国際政治であり、私はそれに参加した。
 約五十名のサブグループで、一人の発表時間は十分だった。東アジアの国際情勢と日本について語らねばならなかった。
 私は、「今日本は三回目の文明史的な転換をする過程にある。当然多くの混乱があり、鳩山政権下の混乱も、中央と地方での政治的変容の困難さがもたらすやむをえざる結果である。しかし、方向性ははっきりしている。文明史的な転換をめざす日本の方向は、新しい『開かれた江戸』である」と言って、それを象徴する写真を二枚、パワーポイントに掲示した。
 一枚は、白い壁に木組みの格子が目を射る農家の集落が緑の山と田畑の中に調和する福井県の農村の風景。もう一枚は、名古屋万博に提示された由のトランペットを吹くロボットの写真だった。「自然と伝統」と「技術」を象徴させたものだった。
 「こういう日本をつくりたいから、日本は安定した安保環境を提供する日米同盟を必要とするのだ。こういう日本をつくるためには、中国との安定した関係が必要であり、海軍力の大幅増強には、不安の念を持つのだ」と続けて述べた。
 新しい『開かれた江戸』という目標は、予想外に出席者の関心をひいた。ロシア、インド、イギリス、アメリカ、シンガポール、中国などの参加者とその後議論をし、質問に答えることができた。
 ―――「江戸は、二百六十年の平和を象徴する。同時に、その平和は、武士という武装集団が責任ある力の配備をすることによって達成したものである。その結果として、当時の日本は、自然と人間生活が調和した、高度に発展した類まれなる文化をつくったのである。しかし、江戸は鎖国の時代だった。私たちはいま、グローバリゼーションの下で、世界に開き、世界から吸収し、世界にうってでながら、そういう新しい日本を創ろうとしている」

 日本は今、戦後初めてといってよい、大きな政治変動の中にいる。小泉改革、民主党の2007年参議院選挙における勝利、2009年の衆議院選挙における勝利と鳩山政権の成立、その後の民主党政権の支持率の急速な低下、そして、鳩山政権の退陣と菅政権の成立、2010年参議院選挙における民主党の大敗とねじれ国会の成立、―――政治変動の落ち着く先は、まだよく見えない。
 しかし私は、ここで提起した新しい「開かれた江戸」をめざした動きは、当面の政局の動向如何にかかわらず、日本という国のこれからの方向性と世界の中における立ち位置を決めていくものになりうると考えている。
 日本の自然と伝統の今日的な意義を再評価し、そこへの創造的な回帰をめざすという考え方は、思想上の系譜から考えるなら、保守主義的な発想に立つものである。
 しかしながら、冷戦終了後の平成の20年間、自民党保守政権は、時代の要請する真正の日本化への動きをリードすることが出来なかった。ひるがえって、目前の経済的な利害と惰性と既得権益の保護と悪平等コンセンサスの保持によって、日本がもっていた一番よいものをたくさん壊してしまった。
 2009年8月の選挙のあと、民主党が打ち出した新しい政治方向には、惰性と既得権益の保護によってすすめられてきたいいくつかの政策をとりやめ、革新という観点から、新しい政策方向を打ち出すのではないかと期待させるものがあった。しかしながら、その後の日本の政治は、民主党の政策実施力の不足と、伝統的な価値の維持に対する革新政党としての限界からか、当初期待された方向に進んでいない。
 問題の本質は、政局のいかんによるものではない。
 保守にせよ革新にせよ、風景と公の心をもつ新しい日本のアイデンティティが生み出せるか否かが、問題の本質だと思う。
 そういう歴史的な視点にたって、これからもこの問題を考え続けていきたいと思うのである。
 
(注:本章の内容の一部は、『エルネオス』誌2010年1月号「人為的な地盤沈下が続いた日本は政権交代した今こそ浮上のチャンス」、『新潮45』2010年3月号「日本の往く道『新たなる日本化』を目指して」に著述したものである)