戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第16回 ブータン

▼バックナンバー 一覧 2010 年 6 月 8 日 東郷 和彦

 手元に二冊の本がある。
 一冊目は、『ヒマラヤの王国ブータン』。私の父東郷文彦がブータンで撮った写真集とその解説文からなり、冒頭に、ブータンという国について父が記した15ページほどの紹介文が掲載されている。出版は、1965年。
 もう一冊は、ブータンを特集した2009年の『旅』5月号。表紙に「いまこそ行くべきロハスな聖地:ブータンは、世界でいちばん幸福な国」とある。自然と生活の織り成す風景から、独特の衣装、料理にいたるカラフルな写真と解説文が載っている。
 44年の歳月をへて出版された二冊の本から流れ出すメッセージは、ほとんど同じである。

 東郷文彦は、1960年の安保改定交渉の主管課長としての仕事をやり終えた後、インドはカルカッタに総領事として赴任した。インドに赴任するに当たり両親は、感受性の豊かな高校時代にしばらくの間でもインドという国を見に来ないかと、私と双子の兄を誘った。
 1960年に高等学校に入学した私は、日本の高校生活とクラブ活動に埋没し、やがて大学受験期を迎え、インドまで関心をひろげることができなかった。しかし、インドに行った両親から、特に母からは、定期的にインドの生活や風景についての手紙がきた。
 その多くは、イギリス帝国時代から形成されていた、欧米人とインドのエリートによって構成される上流社会が、穏やかにしかし豊かに流れていくさまについてだった。知事やインドのエリートの話し、仲良しになった動物園長夫妻との交流、幾多の種類の動物が闊歩する大通り、時折匂わされるすさまじい貧困の物語、そういう母の手紙の中から、突然聞きなれない「ブータン」という名前が現れた。
 いま思えば、父も母もブータンに熱狂していたと思う。1962年と1963年、両親はブータンを二回訪れている。
「明治時代の日本なんだ」―――それが、ブータンに関する両親のくちぐせだった。
「明治の日本かあ……」
 我が家では、「明治」という言葉は、ちょっと特別の響きをもっていた。東郷文彦は、昭和十三年に外務省試験に合格、アメリカはハーバード大学で研修中に日米開戦に遭遇、交換船で帰国、昭和十七年開戦時の外務大臣東郷茂徳の一人娘だったいせと結婚、養子として東郷姓をなのるようになり、茂徳が鈴木貫太郎内閣の外務大臣になったあとは、末席の秘書官の仕事についた。
 終戦後は、極東裁判における東郷茂徳の弁護の仕事にしばらく携わったが、平和条約発効あとは、1960年安保条約改定交渉時のアメリカ局安全保障課長、1969年の沖縄返還交渉における核持込をめぐる佐藤・ニクソン共同声明発出時の北米局長、さらに七十年代後半のカーター政権時代の駐米大使と、主にアメリカ畑で仕事をしてきた。
 母いせは、東郷茂徳とドイツ人だった妻エディとの間の一人娘として生まれ、茂徳が第二次世界大戦勃発のころの駐ドイツ大使、ソ連大使を歴任するころから常に茂徳の側におり、日本が戦争に入っていく様と戦争を終わらせていく様を目の当たりにしてきた。
 終戦後は、父とともに極東裁判における茂徳弁護のためにできるだけのことをした。戦後父が外務省で仕事をしていく中で、特にカルカッタ、ニューヨーク、南ベトナム、アメリカと四つの公館長を務めた際には、英語・ドイツ語を母国語並みに使えた能力を生かしながら、現地社会とのコミュニケーションの拡大に大きな貢献をしてきた。
 父にとって対米外交は、一生の仕事であった。戦後日本が国際社会に復帰するに当たって、いかにしてできるだけ対等な日米関係をつくるか、沖縄返還を成し遂げた後は、日本の経済力に脅威を感じるアメリカとの間で公正な利益の配分を図り、如何に相互の利益を極大化するかは、終生考え続けていた課題だったと思う。母は、父の理念を深く共有し、二人は、アメリカとの間で、たくさんの友人を作っていた。
 しかし、そういう、傍目には戦後の日米同盟関係の土台骨をつくってきた二人にとって、戦前の日本外交についてのいわゆる「自虐史観」的なものの見方は、全く無縁なものであった。
 父は大正四年、母は大正十二年関東大震災の直前に生まれている。大正から昭和への激動を生き抜いてきた二人にとって、明治という時代は、列強に包囲された日本がその輝かしい近代化をなしとげた、誇るべき時代であった。この点について、一点の疑いもなかった。
 1957年、私たちが父のヨーロッパ勤務を終えて帰国した直後だったと思う。私が中学一年生の時だった。大映映画「明治天皇と日露大戦争」がヒットした。明治天皇を演じたのは、鞍馬天狗で人気を博した嵐寛十郎だった。
 両親に連れられて、私と双子の兄はこの映画を見に行った。今でもはっきり覚えている。
 黄金色の麦がたわわに稔る田舎のあぜ道に、白馬にまたがった明治天皇が進んでいる。貧しい農民たちが平伏している。民の行く末を案じた明治天皇の御製がろうろうと流れてくる。
 203高地を突撃する白襷隊。次々に爆発する爆弾。後方の司令官室で、子息戦死の報に接し、物思いに沈む乃木大将。
 まだ十分の特撮技術のない中で、バルチック艦隊を追撃する連合艦隊が、東郷平八郎司令長官が大きく手を振る下で、有名な敵前旋回をする場面。
 映画を見終わって帰路に着いたとき、両親は、押し黙っていた。とても、感動していたのである。戦後の日本の時代背景の下で押しつぶされていた、生きた明治がこの映画を通じて如実に現れていた。―――少なくとも、そう両親は感じていたようである。
 
 1968年、『坂の上の雲』の連載が産経新聞で始まる丁度10年前、我が家における明治の栄光は、疑う余地のないものになっていた。

 明治の日本、それは、国家の建設と大義のために、人々が純粋に働いた時代を意味していた。ブータンに明治を重ねてみることは、そういう人間の精神性のうえに、まだ現実に存在する国の特定の風景を加えるものだった。
 現代に生き残った“明治の日本”は、たいそう交通の不便なところにあるそうだった。断崖絶壁のようなところをジープやロバに揺られていくと、夢の中の風景のような美しさをもって、忽然と現れる所らしかった。
 『ヒマラヤの王国ブータン』の中に、首都ティンプーと並ぶ政治経済の中心都市パロにちかづく風景が、こう描かれている。
「1時間ほどもすると谷間はだんだん広くなり、山の傾斜も多少は緩やかになってくる。辺りの景観を賞味しつつジープを進めて行くと、そのうち忽然として前方にパロ・ゾンの姿が見えてくる。前日からジープに揺られてジャングルや嶮しい山路を抜けてこの地点に達した瞬間、まさしく桃源郷ここにありと、しばらく感嘆措く能わざるものがある」
 もちろん、景観だけではなかった。両親がいつも述べていたのは、まさに人の心であった。街に遊ぶ子供たちの瞳の輝き、一筋の心で仕事に励む人たちの心根、国家の大計を考える指導者の構想の確かさ、そういう人間の心の清々しさだった。
 「明治時代だよ」という両親の言葉には、なによりも、純粋に建国の息に燃えるブータンの人々の心意気に対する、限りない共感と憧憬があった。
 父は、紹介文の最後を、こういう言葉で結んでいる。
「ブータンの今の美しい牧歌的な姿が変わるのを惜しむのはおそらく旅行者の感傷に過ぎない。ブータン人はブータンをいつまでも秘境にしておくのが本意ではなく、真摯有能な指導者の下に刻苦勉励して経済的にも自立してゆける新しいブータンを造り上げてゆくことにいそしんでいるのである。ただ願わくは開発された新しいブータンも、今の美しさと尊い伝統を秘めた姿を保ってもらいたいものである」 
 ほぼ半世紀を経た後に出版された『旅』は、そういうブータンの変わらぬ姿を、少しだけ違った言葉で表現している。
 『旅』2009年5月号に掲載されたたくさんの写真は、その後のブータンが、景観の美しさ、伝統的な生活の風景を失わないで来た様を、カラフルに華麗に、切り取っている。そしてそういう国を支える人の心を、両親が「明治の日本」と言ったのとは少しだけ違った言葉で伝えている。
 それは「幸福の国」とでも言ったらよいのかもしれない。このブータン特集の第一ページの解説文を引用してみよう。

 「GNH(国民総幸福)って知っていますか?
  ヒマラヤの小国ブータンが
  いちばん大切にしているのは、
  すべての国民の幸福です。
  棚田の広がる農村、山奥の僧院、
  美しい織物や、子供たちの明るい笑顔。
  初めてなのに懐かしい、
  日本人にとっては、どこかで見た風景。
  いま世界が注目する王国へ、
  「幸福」の意味を探す
  思索の旅に出てみませんか?」

 明治の心を失わずに来たブータンは、世界でも例のない独自の近代化をなしとげ、国民にとっての文明論的な「幸せ」をつくりあげてきた。そういう類まれな発展の原動力が、九州ほどの国土に住むわずか65万人のブータン国民の力にあることは疑いないが、その力を一つの方向に向かって糾合しえたのは、専制啓蒙君主としての歴代のブータン国王の優れた治績が故であることもまた、疑いようがない。
 歴史的にはブータンはチベット仏教を源とする仏教国として生まれたようである。それが19世紀イギリスのインド進出に伴い、対外関係はイギリスの指導を受け入れることによって、南の大国インドからも北の大国中国からもその介入を防ぐ結果となった。
 初代国王は1907年に即位し、ブータン王室が誕生した。そこから、1952年に即位したジクメ・ドルジェ・ワンチュク第三代国王と、1972年先王の逝去をうけて即位したジグメ・センゲ・ワンチュク第四代国王という二人の極め付きに優れた専制啓蒙君主が登場することになった。
 カルカッタ総領事時代、両親が知己をえたのは、この第三代ドルジェ国王夫妻であり、特に親しい友人となったのは、ドルジェ国王の下で首相を務めていたドルジ首相夫妻であった。『ヒマラヤの王国ブータン』に掲載された最後の写真は、1963年11月ニューヨークに転勤となりお別れの宴を催した際、餞別をもって現れたドルジ首相夫妻と幸せそうに談笑する父の姿であった。
 1964年ドルジ首相は不慮の死をとげた。その翌年に『ヒマラヤの王国ブータン』を出版した父は、「ブータン開発の大事業に身を挺していた首相の姿を思い浮かべ、誠に惜しんでも余りある思いに耐えない」とその「まえがき」に記し、「ドルジ首相への冥福を祈って」この本を出版した。
 両親とブータン王室との友情は、その後、終生続くことになった。
 1972年ドルジェ第三代国王がナイロビで客死し、第四代センゲ国王が16歳の若さで即位された。その数年後、ブータンで戴冠式が行なわれたとき、父は外務本省で事務次官の仕事をしていた。この当時の仕事の流れとしては、事務次官は国内にあって事務方の仕事を統括する司令塔であり、国外出張をする慣行はなかった。しかし、父は、センゲ国王からの招待に接し、出席すると言い出してきかなかった。
 当時の父の秘書官をしていた渡辺允氏(後の宮内庁侍従長)は、「次官の出張として均衡を失する」と言って強くこの出張の取り止めを進言した。普段は渡辺秘書官の絶妙な舵取りを信頼していた父であったが、このときばかりは、「それなら次官をやめる」と言って聞かず、結局この出張を押し通した。
 それから長い間、両親とブータン王室との友情は、後に残された皇太后と若き英邁な国王との間で続けられた。しかし、1985年4月、春の桜が東京中を彩る頃、外務省を退官してから五年足らずで、父は、病をえて他界した。父の死を悼んだブータン王室からは、ねんごろな便りが送られた。
 更に「自分はかつて、ブータンに生まれたことがあるような気がする」と常々口にしていた夫の遺骨の一部を、かの国で安眠させてもらえないか、というのは母の強い願いであり、その気持ちを受け止められた皇太后と母との間に、ブータン王室の墓のあるパロ近郊に遺骨の一部を分骨していただくという話が生まれた。母にとっては本当に有難いお話であり、翌86年兄茂彦を伴って、父の分骨をしにブータンを訪れた。
「分骨の祈祷が行われた時は、王家のお寺だけではなくて、ブータン中のお寺でお経をあげていただいたのよ」
 帰国した母は、そう言った。
 1989年、世は昭和から平成に動き、世界場裏では冷戦が終了した。昭和天皇の大葬の礼に出席されたセンゲ国王は、お忍びで広尾の母の元を訪ねられ、未亡人になった母に暖かい言葉を賜った。
 やがて、1997年春、今度は母が病をえたとき、皇太后が京都を訪れた。皇太后は是非にと母にあうことを希望され、日程の関係でどうしても東京に出てくることができないので、都合がつくなら京都で会えないかと言ってこられた。もうそのころ母は、病による体の不調を強く訴えていたが、この時ばかりは、躊躇なく京都行きを宣言、医者も「そこまでおっしゃるなら反対はしません」ということだった。母は細心の注意を払って旅行の計画をたて、京都の皇太后の宿泊先を訪れ、余人を排して二人だけで二時間、大切な時間を持つこととなった。
 それから数ヶ月後の7月の末、夏の日差しが東京中を被い始めた夜、母は他界した。
 国王も、皇太后も、母の死をいたく嘆いてくださった。間もなく、皇太后から直筆で、母の死を悼み、いまはパロ近郊に安置された父の墓に母の遺骨を分骨したらいかがかという便りが、兄と私に到着した。

 誠にありがたいお話だった。

 もちろん遺族として異論のあるはずもなかった。1999年9月、兄と私は、母の分骨を抱いて、私にとっては初めてのブータンへと旅立った。
 旅行に先立って、ブータンについてもう一度勉強をした。
 1972年、16歳の若さで国王の地位につかれたセンゲ国王は、この年43歳、誠に英明な君主のようであった。
 このころから開発経済学と近代化論者の間で知られ始めていた「国民総幸福(Growth National Happiness)」という言葉は、1976年スリランカのコロンボで開かれた非同盟諸国首脳会議の記者会見でセンゲ国王が、「GNHはGNPよりも重要である」と言われたところに端を発していた。国王はその治世を推進するにあたって、文字通り、この考え方を徹底してこられたようであった。
 生活様式を変えない—–そこに政策の大きな特徴があるようだった。茶色、赤、オレンジなどを基調とする独特の色使いと着物とどてらを合体させ、すそ丈を短くしたような国民衣装。白壁を基調に、やはり茶色や赤色の三角型の屋根や窓枠をあしらった伝統建築。素朴な野菜・米・唐辛子などを主体とする伝統料理。そういったものが、強い政策意志によって守られてきているようだった。
 しかし、ブータンでは、伝統の維持は、貧困のイメージとは程遠かった。国民経済のある程度の豊かさを保つには、経済を支える産業が必要である。『ヒマラヤの王国ブータン』にも、「ブータン人の大部分は農業牧畜を生業としている」とあり、「1964年の春にはコロンボ・プランにより日本から初めて西岡という人が派遣され、同君は夫人とともに赴任して、農業の分野からブータンの開発に寄与しようとしている」という記述がある。
 その後ブータンの経済を大きく発展させ、周辺のインド、バングラデシュ、ネパール、シッキムなどと比べ、格段と生活を安定化させたのは、ブータンの山岳部を活用した水力発電によるらしい。この電力を国民の生活にも還元し、また、インドに売ることによって、ブータン経済の基礎がかたまったようである。
 そういう地に足の着いた近代化政策を進めていくにあたってセンゲ国王が心を配ったのは、ブータン国民の心の問題であり、国の発展を担うのは、国民一人一人の義務であり権利であるという意識、すなわち、本当の民主主義の育成であった。ちょうど訪問の前の年、1998年に立憲君主制度が国王自身のリーダーシップによって導入されたのである。
(その後の発展を記せば、センゲ国王は、個人への権力集中を排除し、民主的な政体を強化するために、2006年に自発的に退位され、26歳のジクメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク第五代国王に譲位した。2008年新王の下で初の総選挙が実施され、議会制民主主義への移行の重要な段階が画された) 

 1999年9月、ブータンへの途は、両親がこの国に入ったころにくらべれば大幅に解放されており、私たちを乗せた飛行機は、タイのバンコックからブータンに入り、仏教伝来の地であり、王家の離宮もあるパロ近郊に到着した。
 飛行場について先ず目に入ったのは、伝統様式から一歩もでずに建てられた空港ビルだった。白壁に、屋根や窓枠の装飾は緑色を基調としていた。
 「ははあ、これがブータン建築か……」
 空港には皇太后さしむけの侍従が出迎えてくれ、その案内で、パロ近郊に位置する離宮に着いた。皇太后に親しくお話しするのは、私にとっては初めての経験だったが、やさしくにこやかな言葉遣いの中から、父母に対する敬愛の情があふれ、ブータン仏教の信仰と祈りの生活が滲み出ている風だった。
 皇太后の主催する夕食会に出、その晩は、ひろびろとした離宮の客間で兄と過ごした。夜中に庭にでてみれば、煌々たる満月が白亜の建物にくっきりとした影を落とし、静寂のみが四囲をつつんでいた。
 パロの離宮から私たちは首都ティンプーにドライブし、首都の王宮にて執務するセンゲ国王の謁見を賜った。
 パロからティンプーへのドライブは圧巻だった。遠景にはたえず空に溶け込む山並が連なっている。道路はヒマラヤの奥から流れ出す清流とたえず交差しながら走る。その清流から時には広く時には狭く農牧地や林が現れては消える。山並がぐっと迫ってくることもある。
 その平野に、林に、山に、ちらほらと民家が点在する。そういう民家の一つ一つが、一つの例外もなく、おりしも秋の太陽の白光の下にキラキラと白壁を輝かせ、三角屋根と窓枠の装飾が、微妙な色彩の織り成す絵巻をつくっていた。
 父はこの光景をとらえて「桃源郷」と記した。
 人間の創る建物が一つの強い美意識に集約され、自然を介在させながら完璧な調和をそこにつくりだしている。ヨーロッパとはまた違った道をたどって、ここにもまた、「文明の到達点」と呼ぶにふさわしい風景があった。
 センゲ国王は、写真で何回も拝見したとおりの美丈夫だった。会談は最初からまったく打ち解けた親しみやすいものだった。きっとこの国王は、対談者の誰をもリラックスさせる天性の包容力を持っておられるにちがいない。
 国王は、静かな、しかし圧倒的な自信をもって、ブータンの政治を民主化していかねばならないゆえんを述べられた。今後の国の繁栄は、国民一人一人の自覚による、そのことを先回りして、瞬時も遅滞することなく、国民がそういう自覚をもつように、政治改革を進めねばならないと説かれた。一部の国王支持派が「時期いまだ来たらず」として強く反対するのを押し切って、今般の立憲君主制を実施したのだということを、穏やかな微笑を浮かべながら述べられた。
 国の発展についての強固な信念と、国民が必ず歴史的な使命に答えるに違いないという信頼がにじみ出るご発言だった。
 南アジアの錯綜する国際情勢の下で、国の政策の舵取りがいかに難しいか、そういう点についても、簡潔明瞭な説明があった。慎重な言葉遣いではあったが、インド、中国という巨大国に囲まれるブータンは、決してこれら大国に立ち向かうことはできないが、そういう大国に対して矜持を持って接することも絶対に必要であると示唆された。そういうデリケートな外交をおこなうにあたり、日本のように国家的野心を持たない国からの支援と協力関係がいかに大切かということを指摘されれば、いささか赤面して伺うほかなかった。
 母の分骨は、ほぼ一日を割いて、パロ郊外の王家ゆかりの大寺院キチュー・ラカン寺に安置された。皇太后の案内により、遺骨を持つ兄と私は、この大寺院に案内された。ブータン仏教の高僧が祈りを捧げている間、私たちは控えの間で待った。最初の祈りが終わってから、お骨は高僧の方々の手に渡り、そこから更にねんごろな読経に移った。仏教が伝来されて以来のこの国最高の仏たちの像が見下ろす下で、奏でるがごとく、泣くがごとく、詠うがごとき読経が続けられた。
「これから、お母様の遺骨は、長い間このお寺で、弔いを続けます。そして時期が来たらお父様の待っている、慰霊塔の方にお移しすることになります」
 長い読経がおわり、キチュー・ラカン寺を出るときに、皇太后は、そう述べられた。
 そこから、私たちは皇太后と別れ、飛行場に出迎えてくれた侍従の案内で、父の分骨が納められている慰霊塔に行った。
 キチュウ・ラカン寺の脇をその奥の山の方に車で上って約15分ほどの山腹に、小さな広場があった。その広場の端に、卒然と開かれるこの国の台地に向かって、二棟の慰霊塔がたっていた。
 慰霊塔は、左右対称に、ブータンの伝統建築に準じた白い壁と黒とえんじの三角屋根によってできていた。
 慰霊塔の彼方、地平線にそって、天空に広がる雲に溶け入る山並があった。
 その手前には、いくつかの森と、穏やかな平野と、林が続いていた。
 広場を載せる山腹を覆う樹木の下に、キチュウ・ラカン寺の黒い屋根が垣間見えた。
 慰霊塔に向かって祈りをささげ、目を再び眼前に開かれるブータンの大地に向けた。
 その時、空に、雲に、山並みに、林に、野原に、静謐が訪れた。
 果てしない心の煩悶と、いつか訪れるかもしれない平安に向けて、一陣の風が、天空よりラカン寺の方角に、吹き渡っていった。                             

(了)