現代政治の深層を読む政治家の世襲をどう考えるか

▼バックナンバー 一覧 2009 年 5 月 14 日 山口 二郎

 このところ、政治家の世襲制限をめぐる議論が盛んである。もちろん、この種の話をする政治家にはそれ相応の動機というものがあり、日本の政治家の質を上げるという観点から出てきた話というよりは、自民党内の世代間闘争、あるいは形を変えた派閥争いという側面が強い。また、民主党には自民党よりも世襲議員が少ないので、この機会に自民党との差異化を図ろうという下心があるに違いない。
 血筋がよいことだけが売り物の世襲政治家が首相になったものの、その重責に耐えきれずに辞めてしまうということが相次いだため、世間の世襲に対する目は厳しくなった。この際世襲政治家に何らかの制限を加えようという気になるのも、やむを得ないことかも知れない。
 しかし、選挙に立候補する権利というのは民主主義の基本であり、この問題は原理原則のレベルから十分検討しなければならない。たまたま今、世襲政治家が無能をさらけ出したからといって、制度を変えればすむという話ではない。一時の鬱憤を根本的な制度の変更に飛躍させるのは、日本の政治論議の悪いところである。
 立候補の自由は民主主義にとって不可欠である。一定年齢に達した人間は、誰でも、どこからでも立候補できるという権利は、奪ってはならない。これは、選挙に関するルールの中でも、便宜的に変えられない基本中の基本である。仮に、世襲だからという理由で立候補の自由を制限するという穴を空けたら、その穴は次第に広がる危険性がある。
 たとえば、字が読めない政治家が跋扈するのは恥ずかしいということで、政府が字の読めない政治家を排除するために政治家資格なる検定試験を行い、それに合格した者でなければ立候補できないということだって起こりうるかも知れない。そうすれば、麻生首相は政治家になれないかも知れないが、そのようにして政治家になる資格を制約していけば、排除される政治家は広がっていく。その時の為政者にとって好ましくない人物を排除するための基準を作ることなど容易である。
 立候補の資格を制約できるという議論を始めれば、必ず民主政治は瓦解する。教養がないように見えても、貧しくても、逆に名門の出身でも、すべての人が立候補できるという制度は崩すべきではない。政治家になれるかどうかは、市民が選挙で決めるだけで十分である。世襲政治家を選んだのが民意であれば、それもまた尊重されるべきである。その選択が間違っていたならば、その誤りに有権者が気づいて、次の選挙で選び直すということこそ、この問題の最終的解決である。
 世襲制限などと大げさなことをいわなくても、無能な世襲政治家を排除することにつながる簡単な制度改革がある。それは、投票用紙を変えることである。日本の場合、投票用紙に候補者の氏名を自筆で書き込むことになっている。しかし、この方式は世界で唯一と言っていいほど特殊な方式である。大半の国は記号式で投票している。日本でも、90年代の選挙制度改革の際に記号式への移行が議論されたことがある。しかし、この時は現職の政治家たちが反対して、自筆式が維持された。なぜか、理由は簡単である。記号式であれば、有名な現職議員も無名の新人も投票用紙の上では同じ記号に変身してしまう。そうなると、無名の新人を選ぶことに対する有権者の心理的な障壁がなくなる。有権者は、投票用紙に候補者の氏名を正確に書かなければならないため、どうしても名前の売れた現職議員が有利になる。投票用紙を記号式に変えるだけで、世襲をしにくくできるはずである。
 世襲制限を叫ぶ自民党の政治家には、もう1つ言っておきたいことがある。議員の世襲制限などとけちなことを言わず、総理総裁の世襲禁止を打ち上げたらどうか。小泉元首相の退陣以来、自民党は総裁選びにことごとく失敗してきた。名門の出で上品だ、見栄えがよいなどといった理由で国民も支持してくれるだろうと錯覚し、不適格な人物を総裁、総理に選んだ。今世襲制限を叫んでいる菅義偉など、ポスト小泉の総裁選挙に、無能世襲の標本である安倍晋三を総裁にかついだ張本人の一人であった。あの時の誤りを反省せずに世襲反対などと叫んでも、人気取りであることは見え透いている。
 政治家は打つ手に窮してくると、自分たち自身を取り巻く制度に手をつけ、手っ取り早く身を削っているふりをするものである。地方議会の定数削減、報酬の引き下げなどがその代表例である。しかし、それは社会経済の問題に政治家が取り組む能力を持っていないがゆえに、目眩ましである。所詮、世襲制限など政治家がまじめに取り組む問題ではない。政治家の仕事はもっと他にあるはずだ。