現代政治の深層を読むパリの街で考える「生活者の政治」
現在、パリの国立政治学院で短期の講義をするために、パリ市内、サンジェルマンデプレ教会の近くのアパートに滞在しているところである。半月という短い期間とはいえ、旅行以外でパリにしばらくいられるのは初めての経験で、にわかパリジャンを気取っている。
このあたりは、昔サルトルなど左派的な知識人が住んでいたところで、雰囲気のあるカフェが点在している。また、個性あるビストロ、ブラッスリーが並んでいる。スターバックスやファミレスなどのチェーン店は見当たらない。普段の生活のためには、近所の市場や肉屋、総菜屋、パン屋、チーズ屋などで食料品を買って、不自由することはない。パリの街中には、趣味の良い店が立ち並んで、それが街に活気と魅力を醸し出している。
こうした街のたたずまいは、その国の政治の反映だということを痛感している。また、人間が生活するうえで、どのような政治が必要なのかを考えさせられている。
日本ではこの20年近くの間、「生活者の政治」というスローガンがはやった。その際、生活者という言葉と消費者という言葉は互換的に使われてきた。それ以前の利益配分政治が、農協、業界団体、労働組合、医師会など、ものやサービスを生産・供給する団体を顧客とし、それらを保護、優遇する政策を展開してきたことへの反動で、生活者という言葉は登場した。生産・供給側を優遇する政策のコストは、消費者・納税者が、税金や高い物価負担という形で支払ってきた。したがって、生活しやすい社会を作るためには、そうした保護、助成、規制の政策を撤廃し、日本社会に市場メカニズムを全面的に拡大、浸透させることがカギとされた。市場化を徹底すれば、消費者に対して、多様な製品やサービスがより廉価に供給されるという予定調和の発想が、その根底に存在した。
そして、小泉政治こそ、そのような時流を捉え、規制緩和、民営化、歳出削減などの政策転換を実現した。しかし、その結果何が起こったのか。まさに生活者の生活がよって立っていたはずの各種のサービスの供給体制が崩れ、かえって生活破壊の政治が実現したと言っても過言ではない。流通業の規制緩和は、中心市街地のゴーストタウン化をもたらし、自動車を持たない人の買い物の自由を奪った。医療予算の削減は、医師の疲弊と地方における医師不足をもたらし、医療難民を生んでいる。
消費者中心というスローガンを一面的に捉え、何でも安ければよいという基準で政策を転換したらどうなるか。こと、労働については、我々はみな労働力の供給者である。以前は、労働組合という団体の力で、労働力の供給についてカルテルを結び、企業による買い叩きを防いできた。しかし、消費者が安いものを望んでいるという命題を金科玉条にすると、労働力を消費する企業の側の要求がまかり通ることになる。さらに、消費者のニーズに応えるという名目のもと、労働の強化が進むことになる。消費者の欲求、さらにわがままに応えるという大義名分の下、賃金破壊、労働破壊が起こった。つまり、働く者の生活が破壊されているのである。そのことは、ファミレス、ファストフード、コンビニなど、顧客志向を徹底するビジネスで起こった過労死、名ばかり管理職、サービス残業の事件を見れば明らかである。
例外的な資産家を除き、普通の人にとって生活とは、生産・供給に従事して賃金を得て、それを使って消費するという2つの柱からなっている。その当然の事実を忘れ、消費者の利益を増進するという口車に乗って、規制緩和、民営化という政策を支持したことのつけが、今、人々の生活を破壊しているのである。
話はふたたびパリにもどる。フランスは、アメリカ型の資本主義とは一線を画してきた。もちろん、フランスにもカルフールという大きなスーパーマーケットのチェーンがあり、郊外や地方都市ではこれを利用する人も多い。それにしても、個人経営の店を一掃するなどという愚かなことはしていない。また、日曜日はほとんどの店が休み、そこで働く人は、まさに自分の生活を大事にしている。
小さな店で買う食料品の値段が高いのか安いのか、私にはわからない。おそらく、スーパーで同じものを買うことを思えば高いのだろう。それにしても、地域社会に様々な生産者、供給者と市民が混然一体となって住み、日常的に交流することは、生活を快適で豊かにしてくれる。市民が生産者、供給者を支えることで、地域社会も活気を保つ。
日本でもようやく市場原理の行き過ぎに対する反省の念が広がってきた。その際重要なことは、生活における生産・供給と、消費のバランスを取り戻すことである。生産、供給の側を大事にすることは、働く者の生活を守るために不可欠である。短い滞在ではあるが、パリで、生活の奥深さを学ばされた思いである。